イエスが知らないこと
(マタイの福音書7:15~27)
神は
まことでおられる
その方は
誰も見ることができない方でおられる
それゆえ、その方を見た者はいない(ヨハネ1:18)
イエス・キリストは
神の本体のかたちでおられる(へブル1:3)
神の本体を見た者がいないが、御子は見た
それゆえ、
御子を見た者は父を見たといわれた(ヨハネ14:9)
人間は
神のかたちに似せて造られた(創1:26)
人の子に似せて造られた
私たちの信仰がここにある
人が先であるのか?人の子が先であるのか?
人の体から生まれたとしても
その方は「インマヌエル」でおられる(マタイ1:23)
それは「神は私たちとともにおられる」という意味である
神が人の子としてお生まれになった(創3:15)
それゆえ、その方を知る者が証人である(ヨハネ15:26)
その方は神を知る者を覚え、(ヨハネ17:3)
神を知らない者を覚えられない
○ 聖霊を注がれるのは
聖霊によって人の子を知らせるためである
○ 聖霊に満たされなければならないのは
聖霊によってだけ人の子を知ることができるためである
聖霊は真理の師匠でおられる
○ 多くの力を現し、しるしを行ったとしても
人の子を知らない者は
人の子に覚えられない
※ 誰でも真理を知るほど
イエスに覚えられる
イエスは真理を知らない者を覚えられない
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 9. 30 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
生涯、ただひとつの道を歩もうとして、険しい道のりを歩んできた。他の人が制服を着て登校するときに、私は草を刈るために出て行って、露に濡れた草を刈った。そのとき、登校する学生を見て、鎌で手をひどく切ったりもした。他の人の家で下僕として働きながら夜間の学校に通ったために、何とか文字の読み書きを忘れることはなかったが、他の人が夏休みに遊びに行くときに私には夏休みがなかった。
他の人は安息年をもって6年、働き、1年、休んだりもしたが、私は生涯、安息年を一度ももったことがなかった。もし私が安息年をもって休んだのであれば、7年を休まなければならなかった。他の人が旅行に行くときに旅行に行くことができなかったし、他の人が楽しく食べたり飲んだりするときに遠くからただそれを眺めていた。ある意味では愚かに生涯を送ってきた。肉体としては愚かに生きてきたのである。
神は私を貧しい家に生まれさせたし、他の人のようにこの世で勉強をすることができないようにされた。しかし、ただ文字を学ばせて聖書を数十読させ、居場所のなかった私に妻を与えて食べさせ、道端で私を召された。そのときまでは「この世で生きている意味があるのだろうか?」と悩んでいたが、その瞬間、それまでの24年間が神から備えられたものであったということを悟った。そして、神の導きにしたがってリバイバリストとなった。
誰が私を知るであろうか。そのとき、神がひとりの牧師を私に遣わし、自分の教会に招待させ、それによってリバイバリスト、説教者としての第一歩を歴史的に踏み出した。そこは忠清南道の洪城郡の羊谷メソジスト教会であった。その日、神が私を用いられたということを生涯、忘れることができない。
しかし、生涯、私の心から離れないのは私はしもべとして主人に仕える者であるということ、そして、そこからまことの愛と生に対する愛着を知ったということである。私にとって人間としての資本はただこれだけである。私は聖霊の助けを受け、聖霊の賜物をすべて味わい、その力によって働いてきた。その方から施された5つのパンと2匹の魚の霊感をもって大きな牧会もしてきた。ねたみを受け、迫害を受け、汚名を着せられたとしても屈することがなかった。その道が神から約束された道であったためである。
ある人は「ベレヤ」という名を聖書から奪い取って教会を破壊し、教会に不渡りを起こそうとして笑っているが、私は泣いている。教会が不渡りを起こすのであれば、どのようにして主に会うことができるであろうか? そのとき、その御前に行ってどのような弁明をしようというのであろうか? それゆえ、一日中、悪口を言われながらも感謝する。私はすでに主に自分の命をささげた。ステパノのように殉教するつもりである。真理のために死ぬつもりである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室