世の終わりまでともにされる主
(マタイの福音書28:16~20)
神は
まことの父でおられる
その方が
イエス・キリストによって私たちを自分の子と
されたが、これが信仰の結果である(ローマ8:16~17)
子であるのならば、父の栄光にあずかる者である
それゆえ、
父の農場に行って、死ぬほど汗を流さなければならない
神の子となるためにまことに
イエスの名によってバプテスマを受け、また、恵みによって
聖霊を受け、印を押されなければならない(使2:32~42)
そのときから世の終わりまで
神とともに歩む(マタイ28:20)
私たちは
今、その方とともに歩んでいるであろうか?(創5:21~24)
その方の栄光だけでなく、その方が受けられる悪口まで
ともに受けるのが信仰である(黙14:4)
主イエスは世の終わりまで自分の人々を
守られるし、ともにされる
私たちは
聖霊の人であり、その方がともにされる
○ 主イエスとともにしよう
自分の聖徒を生かして、
天に連れて行かれる
○ 聖霊の感動を受けなさい
常に聖霊に満たされ、
聖霊の指導を受けなさい
○ 私たちはその方の花嫁である
花嫁が常に花婿とともにするように、
主と永遠にともにしなければならない
※ 主の御心に従おう
主の命令に従おう
主のいのちによって永遠に生きよう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 10. 7 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
神はこの世を愛してひとり子を与えられた。主イエスは愛によって父に従い、この世に来られた。そして、自分の体をもってよみの権勢に勝利し、血によって人類のすべての罪を贖われた。これは神の御心であった。主は「私が天から下って来たのは自分の心を行うためではなく、私を遣わした父の御心を行うためである。」といわれた(ヨハネ6:38~39)。
イエス・キリストによってこの世に現れたいのちの働きはすべて父なる神が喜ばれるものであった。それゆえ、イエス・キリストがこの世に自分を知らされたのは神が願われることであった。イエス・キリストはガリラヤのカペナウムから聖なる神癒のしるしを現しはじめ、多くの人の病気を癒された。
そして、弟子たちにも戒めとして「病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病に冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」といわれた。それゆえ、この御言葉は生きていて、力をもち、昨日も今日も永遠に同じように働く(マルコ16:20、へブル13:8)。
私、視無言はこれまでの60年余り、この御言葉に従い、神の聖霊から与えられた賜物によって働いてきた。これまで長い間、神癒集会をもつことができなかったが、愛する聖徒に私に与えられた初めの力を現し、今日、神が私たちとともにしておられるということを再び天下に知らせようと思う。
老いて、自分の体ひとつを動かすのも大変である。しかし、私の体に与えられた、そして、私の霊魂に預けられた力をすべて使わなければ、罪になるようであるし、また、死ぬ前にもう一度、草創期のように力ある働きをして、主に栄光をささげ、聖徒に大きな慰めを施したい。そのような思いをもって祈り、計画をした。若いときのように力はなかったとしても、聖霊が助けてくださり、イエス・キ リストがともに働いてくださり、聖徒が切実に祈って信仰をひとつにし、それによって大きな働きが現れるということを疑わない。
私の肉体が許す限り、ひとりひとり直接、按手をして聖なる神癒の働きを行おうと思う。これは私がこの世にいる間になさなければならない従順である。それゆえ、日を定め、2018年10月23日(火)~25日(木)まで世界センターで聖会をもつことにした。
どれくらいの人が集まるのかは関係がない。死ぬ前に殉教する思いをもって自分の体と心を神と教会にささげようとする。病気にかかっている者は事前に神の御前で悔い改め、揺れ動くことがない信仰をもって謙遜に臨まなければならない。しるしは謙遜な信者に与えられた約束であるためである。今から熱心に祈って準備してほ
しい。信仰がない岩石の塊には何のしるしも現れないが、信仰がある神の子には大きな力が現れる。視無言にとっては最後の献身となるかもしれない。主に感謝をささげる。