聖霊を冒瀆してはいけない
(マタイの福音書12:32~37)
神は
永遠に生きている父でおられる
その方が
人類に永遠のいのちを与えようとして戒めを与えられた(ヨハネ11:25~26)
神の御言葉は戒めである(ヨハネ12:50)
戒めはいのちを守る(ヨハネ10:10)
人間の肉体はこの地で造られたが、(創3:19)
人間の霊は天で造られた(創2:7)
これが初めの契約である
しかし、肉体の情欲によって霊が死んだ(創2:16~17)
初めの契約のときに死んだのである
それゆえ、イエスが代わりに死なれた
神は新しい契約として
神の御子を遣わし、御子の霊を与えられた(ローマ8:9)
聖霊は御言葉の霊を証しされる(ヨハネ16:13)
聖霊は新しい契約である
イエスを信じさせ、それによって永遠のいのちを得させるために
聖霊を遣わされたが、これが新しい契約である
聖霊の働きは全世界に及ぶ力である
聖霊に逆らうのであれば、霊魂が滅びる
自分の霊魂のために聖霊に従わなければならない
◌ イエスを信じる者は
聖霊を受けなければならない
聖霊はいのちの力を働いて印を押される
◌ 聖霊の力はその方の品性である
聖霊の力は愛である
肉体の情欲ではなく、地の果てにまで及ぶ力である
◌ 聖霊を冒瀆したり聖霊に逆らったりしてはいけない
これは自分の霊魂を滅ぼすことである
望みを永遠に失うようになる
※ 口だけで信じるといわないで、
聖霊を受けなければならない
聖霊の導きを受けなければならない
【牧師コーナー(松竹岩)】2018. 10. 28 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
神の奥義は愛である(Ⅰヨハネ4:8)。私たちは神の奥義である愛を知る者である。今日、聖徒たちの信仰がどうして崩れてしまったのであろうか? 神の奥義をもっていなかったためである。
夫婦の間でもその愛は奥義である。自分たちの間には奥義がないといい、良心宣言をするといって足を踏み外すのであれば、その家はいつの間にか散り散りになる。それゆえ、夫婦の間にはただ愛がなければならないし、その愛が夫婦の奥義でなければならない。神は愛する者のためにその奥義を守られる。それが神の愛である。神は愛する者を罪に定めない。罪に定めるのは愛がないため、奥義がないためである。
教会は信仰の奥義をもっていなければならない。しかし、自分を義として良心宣言をし、手当たり次第に教会を破壊するのであれば、教会はこの社会から捨てられるようになる。教会は逃れの町のようなものであるために、誰でも教会に入って来るのであれば、神がその人を隠して守られる。それゆえ、自分の罪を主に告白し、神の愛の中に深く入って来なければならない。もし心に他の人を罪に定める癖があり、他の人の罪過を抱いているのであれば、その人は愛がない者であるし、他の人を罪に定めたその行為によって自分も罪に定められるようになる。
愛の奥義はだますことではなく、愛することである。夫婦の間で愛があるほどその奥義はしっかりとしたものとなる(エペソ5:32~33)。天にいる天使もこの世にとどまる聖徒をうらやむ。しかし、神の愛から聖徒を引き離すことはできない。このような愛を理解することができないという者もいるが、これが神の恵みである。私たちは神の恵みと愛の中で霊魂を保存しなければならない。悪魔や律法の前に露出されるのであれば、その霊魂は破滅に陥り、堕落の道に転がり落ちてしまう。
今日、私が神と主イエスの御前で命をささげるのはその方の愛が大きいためである。私はその方の奥義を預かった者である。その方の奥義は私に大きな慰めを与える。強風が吹き荒れ、寒さが厳しかったとしても耐え続けるのが松竹岩(ソンチュグァム)である。松竹岩(ソンチュグァム)のようにしっかりと耐えよう。その日が来れば、私たちは主から臨む大きな栄光をそれぞれ受けるようになる。石を投げつけられ、名誉が傷つき、血を吐いたとしても、私の霊魂はステパノのように光り輝く。
私たちは自分の義のために生きないで、神の義のために死ぬほどの力を尽くして生きなければならない。聖徒の栄光の日が目の前に見える。教会を辱める者は誰か。彼らはこの世の異邦人のような者である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室