
祝福と報いのために
(マタイの福音書5:1~12)
神は
祝福を命じられる
その方が
天にも祝福を命じ、(申30:19~20)
地にも祝福を命じられた
祝福は
神の約束である(創12:2)
神はアブラハムを祝福の根源とされたし、
今日にも
主イエスを信じる者に「祝福の根源となりなさい」と命じられる(ルカ24:47~50)
神が命じられた祝福の中で報いまでともに
与えられる祝福は主のために受ける迫害である(マタイ5:10)
主イエスも御言葉を受けることによって迫害を受けられたし、
私たちに御言葉を与えることによって「この世はあなたがたを憎む」と
いわれた(ヨハネ15:18~19)
誰が迫害を願うであろうか
人間にとって最も苦しいのは迫害を受けることである
しかし、
主イエスから与えられた、迫害を受けなければならない働きは
聖徒の義務である(マタイ16:24)
聖霊がともに受ける聖徒の義務である
○ 祝福を受けよう
神から与えられる祝福を恥ずかしく考えないで、
迫害の中で祝福を受けよう
○ 義のために迫害を受け、
不義と戦おう
聖霊がともにされる
○ 信仰がない者は迫害に耐えることができない
主の御名のために迫害を受けて、
喜ぼう
※ 報いと祝福がともに与えられる
イエスがその道を通られたし、
私たちも今、その道を通っている
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 11. 11 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私は歳を取ったことを恥ずかしく考えない。歳の分だけ主の働きをしてきたために、誰よりも主を多く知っているという自負心と矜持をもっている。歳を取ったというのは働きの倉庫となったという証しでもある。
これまで私はこの世のことをしないで、ただ主から預かった働きに全身全霊をささげてきた。その間、嘲笑する者からは無知な者であるという中傷を多く受けてきた。視無言(シムオン)は無知であるという言葉は事実であるために、敢えて弁明したり、それを恥ずかしく考えたりしない。私はこの世の知識という点においてはとても劣っている。この世の知識を積む機会がほとんどなかったためである。しかし、イエス・キリストを知ることにおいては他の誰よりも有識である。生涯、イエスを知ることにだけ専念してきたためである。
19歳のときから聖書を読みはじめ、初めの年に新旧約聖書を42回、読んだ。そして、続けてこの世と戦いながら、貧しさと戦いながら、聖書を読み、75回、読んだときに主から働き手として召された。そのときから口でイエスを伝えるだけでなく、手でもイエスの力を伝え、復活の大きな望みを証ししてきた。
この世の常識や経験が足りず、知的な財産を確保することができなかったとしても、私の唇、頭、霊魂はただイエスに満ちている。のちに主イエスの御前に出て行くときにこの世の学問や知識をもって出て行く者はひとりもいない。ただ神を知る知識に満ちた者だけが歓迎を受ける。私はその知識を知っているだけではなく、これを実践してきた。それゆえ、この並外れた信仰、体験、知識によって多くの迫害や疎外を受けてきた。この世の知識の前で罵倒されることも多かった。
私はこの世の知識をもって生きてきたり家族を養ってきたりしなかった。ただイエスを知る知識、すなわち真理を知る知識によって私も家族も生きてきた。今は高齢となり、この世では西に沈んでいく太陽のように、時間と戦うだけであるが、体がこわれることを覚悟して最後に残光を輝かせようとする。これが主を喜ばせる、私の最後の労苦である。体は老いたとしても、イエス・キリストの神癒と聖なるしるしは消えることがない。私は続けてそれを証しする。
愛する聖徒よ。この世を知る知識ではなく、主を知る知識に満たされよう。これが主の願いである。私たちは宗教人ではなく、生きておられるイエス・キリストの体の器官である。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室