いのちでおられるイエス
(ヨハネの福音書6:47~59)
神は
いのちの根源でおられる
その方が
自分のいのちを人間にも与えようとされたが、(ヨハネ14:6)
これは御子によってであった
それゆえ、神の御子を知るのがいのちの道である(ヨハネ17:3)
神の御子を知らないのであれば、いのちの道はない(ヨハネ5:40)
神の御子を知る道は
まず自分を知ることである(マタイ4:17)
自分を知る道は
律法によって罪に定められた罪人であるということを
知ることである(Ⅰコリント15:56)
イエスは義人を招くために来られた方ではなく、
罪人を招いて救うために来られた方である
神はキリストを義人にではなく、
罪人に与えようとして遣わされたのである
それゆえ、
この世の義人は誰も
イエスに会うことができない
罪人であることを知って自分を悟った者だけがイエスに会う
聖霊は悔い改めた者にだけ入って来られる
○ 聖霊によって
イエスを迎え入れてこそ、いのちがある
イエスは天から下って来た、いのちの食物でおられる
○ どのようにしてイエスをいのちの食物と信じるのであろうか
聖霊によってだけ知って信じる
聖霊は信仰を霊的なものとされる
○ イエスの体はまことの食物である
イエスの血はまことの飲み物である
霊的な者でなければ、食べて飲むことができない
※ 人にとって食べて飲むというのは生きるということである
霊魂のためにまことの食物を食べ、
まことの飲み物を飲んでこそ、永遠のいのちがある
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 11. 18 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
真理とは何であろうか? イエスは「私は真理である」といわれた(ヨハネ14:6)。これは聖霊によって語られた御言葉である。イエスが神の御子、キリストでおられるということを知るのは神しかいない。それゆえ、神の聖霊を受けないのであれば、決してイエスが神の御子でおられるということを知ることができない。
この世の初めからこの地には多くの人が存在してきたが、誰もイエスが神の御子でおられるという者はいなかった。ただナザレ人のヨセフと婚約したマリヤだけがイエスが神の御子でおられるということを知っていた。それを知らせたのは神であった(マタイ16:16~17)。
イエスが神の御子でおられるということを科学的に証明することはできない。また、どのような理論によってもイエスが神の御子でおられるということを説明することはできない。これはただ聖霊の固有の知識であり、聖霊の権限にあることである。それゆえ、どのような神学者であってもイエスが神の御子でおられるということを学問的に証しすることはできない。神学は科学である。聖霊の霊感ではない。霊感の御言葉を真理という。真理は聖霊の御言葉である。聖書の解釈は人の理性、フィクション性をもつ哲学的な理論によってすることができない。それはただ知識であり、人の考えであって、真理ではない。
今日、教会員はこの世の言葉と真理という聖霊の御言葉を混同し、それによって自ら霊魂を困難に陥らせる。イエスを知る知識はただ聖霊の固有の権限にある(ヨハネ15:26)。バプテスマのヨハネがイエスについて証ししたとしても、その証しは燃えて輝くともし火に過ぎなかった。イエスは人の証しを受けられない(ヨハネ5:31~35)。主イエスははっきりと「私は人の証しを受けない。私を証しするのは聖霊でおられる。」といわれた。
人の考えやたとえ、小説によっては霊魂を救うことができない。有名な神学者や知識人を連れて来て聖書を学ぼうとするが、これも聖霊の権限にあることである(ヨハネ14:26)。神はすべきこともないのに聖霊を遣わされたのではなく、すべきことがあるために聖霊を遣わされたのである(ヨハネ16:26)。
愛する聖楽人のみなさん。だまされてはいけません。私は生涯、ただ聖霊によって働きながら、聖霊によってイエスを知り、教え、証ししてきました。寿命もあまり残っておらず、召されるのであれば、去っていくだけです。それゆえ、私は惜しむものも欲しがるものもない者です。自分の霊魂をまことに愛する者です。私の口には聖霊によって語られる真理だけがあるということをもう一度、お伝えします。還言ベレヤは真理を証しする運動です。私たちの教会はこの世の終わりまで聖霊とともに歩みます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室