
助け主の聖霊
(ヨハネの福音書14:15~21)
神は
慈しみ深い
その方が
天に天使を造り、
天使をイスラエルに遣わして仕えさせた(へブル1:14)
天使はイスラエルの助け主であった(へブル1:5~7)
しかし、
天使は天に属した者であり、
人と常にともにいるのではなく、
神と聖徒の間を往来する(黙8:3~4)
しかし、
聖霊はもうひとりの助け主として永遠にともにおられる(ヨハネ14:16)
聖霊は自分の思い通りに働かないで、ただ聞いた通りに
イエス・キリストを現される(ヨハネ16:13)
イエスの御言葉、すなわち真理の御言葉を解釈し、悟らせ、(ヨハネ14:26)
証しされる
聖霊が臨まれれば、私たちは力を受けるが、それは助ける
天使である(使1:8)
力は増えたり減ったりするが、(マタイ26:53~54)
聖霊は永遠に変わることがない(ローマ8:11)
聖霊は主がなさる働きを現される
○ 信仰生活はただ
聖霊によってだけしなければならない
聖霊は永遠に離れることがない
○ 聖霊は
イエスがなさる働きを現される
力、神癒、大きなしるしを現される
○ イエスの教会の特性は
現在も主の働きを現すということである
イエス・キリストの神癒を現さなければならない
※ 聖霊は助け主として
イエスの働きをなさる
永遠なイエスの血の力を現される
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 11. 25 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
あと数ヶ月が経てば、私がイエス・キリストに会ってから満61年となるし、聖楽教会を開拓してから満50年となる。私は「神の意図」を知る指導者を1万人育てようという望みをもって、また、それをなすためには1万人を収容する礼拝堂を建てなければならないという抱負をもって、聖楽教会を開拓した。そして、1969年11月30日、初礼拝をささげ、今日に至る。
私たちの教会の教会員がひとつの場所に1万8000人、集まったこともあった。また、それよりも多い18万人にもなる人々が来て説教を聞き、そして、去って行った。しかし、私は彼らを忘れないために常に心の中で彼らを私たちの教会の教会員と考えてきた。今日、私は試練に遭いながらも毎日、主の祈りを数十回しているが、その中の「御心が天でなされるごとく、地にもなさせたまえ」という霊魂の祈りはまことに貴い。
私はバプテスマを受けることによって自分の運命をすべて水に葬った。そして、自分の思い通りにではなく、神の御心通りになることを切実に祈りながら、「御心が天でなされるごとく、地にもなさせたまえ」と祈った。私は自分が生きることと自分がすることはすべて天ですでに定められた神の御心をなすことであると信じている。それがこの世で楽しいことであるのか、苦しいことであるのかは関係がない。これはすべて神が天で定められた楽譜のようなものであるし、私はその楽譜に書かれた通りにピアノの鍵盤を叩けばいいのである。このために私は生涯、祈りながら実践してきた。
人々は私を憎み、見たくもないと考えるかもしれないが、私は神の御前でよく見えるために命を尽くして牧会をしてきた。私は収入の十分の一を特別に区別しなかったとしても、収入の70、80%を主にささげてきた。私の財布に入って来るものは多く集めたのちに主にささげたり、あるいはささげようとしたりしてきた。これは何でもないことであるが、私は自分が信じない御言葉を証ししたことは一度もなかった。これは真理のために自分の命をささげてきたためである。また、私は教会を絶対にだますことはしなかった。人々は「私は偽らない」という言葉さえも信じないで、私を偽り者と罪に定めるが、主だけは私を喜んで受けられる。それゆえ、献身する私の信仰は主だけが受けて喜ばれる。
しかし、私のひとつの大きな欠点は「言葉で失敗することが多い」ということである。今も自分が犯したいくつかの言葉の失敗のために、残酷な試練を経験している。私は聖楽教会を離れたこともないし、設立者として、監督として、霊的な指導者として「教会は私の墓場である」と考えて生きてきた。しかし、人々は私が監督を辞任したということにしようとしている。私は聖楽教会を一瞬たりとも離れたことがないし、引退したこともない。私は息を引き取るその瞬間まで聖楽教会の元老監督であり、共同牧会者である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室