イエスは私の主人でおられる
(マタイの福音書8:5~13)
神は
父でおられる
その方が
なさることはすべてその名のためである(マタイ6:9)
神は万物を創造した造物主でおられる(へブル1:2)
人類もその方のものである(詩100:3)
それゆえ、
その方は主人でおられるし、
その方に服従しないものはない(マタイ16:16)
これが私たちの信仰である
信仰は主人としもべの関係である(マタイ8:9)
主人は自分の思い通りに命じるし、
しもべは主人の思いに従う(マタイ6:10)
主人としもべの間にはただ
命令と従順だけがある
神は命令をいのちとして下されたし、
私たちは従順に命をささげる
このような関係にだけしるしがある
神のしるしはその方の御心をなしたものである(使4:28)
イエスは主人でおられるし、私たちはそのしもべである
聖霊は主人でおられるし、私たちはそのしもべである
○ 信仰があるといいながらも
神と永遠な関係を結ばないのであれば、
不信仰である
○ 神は命じられるだけである
信仰はその戒めに従うだけである
神の御子も御言葉も御心も命令である
○ 神の命令は永遠である
すなわち、永遠のいのちの御言葉である
神が責任を取られる
※ 私たちは主の御心を知ることなしにひざまずくのではない
主の御心通りに服従して、いのちを得る
従おう、従おう、生きるために従おう
【牧師コーナー(松竹岩)】2019. 1. 6 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私はこの世で神から大きな賜物を受けたが、それは神の御名であるイエスの名であった。イエスという名は自分の民を罪から救うという意味をもっている。奴隷として捕らえられて生きていた私を、王でおられるその方が解放してくださり、そのしるしとしてその名を与えてくださった。私はこのしるしを心に迎え入れ、永遠にその印を押された。これが真理であるし、自由という意味である。聖書は「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)といった。自由にするというのは奴隷を解放するという意味である。
私は良心の奴隷であったし、神の御前では律法の奴隷であった。奴隷として生き、天使たちの下で圧力を受けていた。しかし、今はイエスの名を知り、信じ、心に迎え入れた。私は律法の奴隷ではなく、自由な者である。
私は罪から解放され、天使の圧力から解放された。奴隷の霊を受けた者ではなく、聖霊によって印を押された、神の子となった。それゆえ、神を「アバ、父」と呼ぶ。私のような者がどうして神を父と呼ぶことができるであろうか。これがイエス・キリストの恵みであり、その方が十字架でなされた功労である。私はイエス・キリストの義だけを永遠に頼る。
イエスを知る前には毎日、死のうとしていた良心の罪人であった。しかし、神の御前に導かれたときに、まだ神を目で見ることはなかったが、自分が律法の奴隷であることを知った。そして、イエス・キリストの功労を知った瞬間、その名、すなわちイエスの名が私に自由を与えたし、その名が私の霊魂に永遠な痕跡として残された。それゆえ、私はこの喜びの知らせを全世界に誇ろうとして立ち上がった。「イエスの名を信じなさい。イエスの名を知りなさい。これは自由という意味である。解放という意味である。その名は奴隷にとって最高の賜物である。」と伝えた。
私は数年間、多くの人から「イエスを信じて恵みを多く受けた青年である。」といわれた。そのたびに気分が良かったが、自分がどのような恵みを受けたのか、そして、恵みを受けたためにどのような者となったのかを悟ることはできなかった。熱心に教会生活をしていたが、それは宗教生活であった。しかし、私が真理、神の意図を知ったのちに初めて自分がまことに自由な者になったことを知った。
私はまことに自由な者である。それゆえ、私の中には主から与えられた平安、聖霊、自由が満ちているし、私はこの自由を伝えている。しかし、人々はまだ自由が何であるのかさえも悟ることができないでいる。依然としてキリスト教宗教人にとどまっているようである。自由を得ることができないであれば、宗教人である。宗教人は律法と良心の奴隷であり、常に神を恐れる。私は真理によって自由であるし、神を「慈しみ深い私の父」と呼ぶ。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室