聖霊の力を受けなさい
(使徒の働き1:7~11)
神は
生きておられる
その方が
御子をこの世に遣わして(ヨハネ3:16)
その御心を成就させたが、これによって
栄光を受けられた(ヨハネ6:38~39)
私たちは見て聞いた御言葉によって
神がなさることを見て聞いた者である(ヨハネ14:11)
神は昔にだけ存在して
現在は存在しない者、追憶の中でだけ存在する者ではない
神は永遠に生きておられる(へブル13:8)
それゆえ、
その方の御言葉も生きているし、(へブル4:12)
聖霊も生きて働かれるし、(Ⅰコリント12:3)
その方の力としるしも続けて生きている(Ⅰコリント4:20)
私たちの信仰は
生きている方がともに働かれるために完全である(ヨハネ14:12)
宗教は敬虔であるが、無能である
律法も敬虔であるが、いのちがない(へブル7:18~19)
私たちはバプテスマを受けて宗教と律法を葬り、
聖霊によって主の中に入って来て生きた者である
○ 宗教人になろうとしないで、
イエスを信じる者となりなさい
イエスを信じる者だけが生きた者である
○ 律法の下で震えていないで、
恵みを受けて自由になりなさい
聖霊の力に満たされなさい
○ 神は生きておられる
神の子となった者も生きている
その証しが私たちの霊魂に満ちあふれなければならない
※ 悔い改めてバプテスマを受けたのであれば、
聖霊に満たされ、
イエス・キリストの力によって完全になろう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 1. 20 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私が伝道者、牧会者として人生を送る間、神は私とともにされた。そうでなければ、私は今日まで続けて力を現すことができなかったであろうし、試みに陥っていたであろう。
私がこのように力を長い間、保ってきたのは使命のためであった。もし聖霊にあずかり、賜物の味を知り、神の力と後に来る世の力を味わいながらもそれを追憶としてだけ残したのであれば、私はすでに堕落した者となっていたであろう。そして、再び悔い改めることもできず、霊魂も渇き、霊感さえも失ってしまったであろう。
しかし、私は神の働き手となって主に召されたときから自分をよく知るようになったために、私のような田舎者に大きな機会を与えてくださった神を、命を差し出して愛そうとする。私にこれ以外に何の資格があるだろうか。何の方法があるだろうか。無能な人生を送ってきた私はそれをよく知っている。それゆえ、私の人生にようやく訪れた機会を逃さないように、また、与えられた使命を絶対に逃さないように、多くの迫害や疎外を受けて消耗しながらも耐える。
「私たちの教会に出席したのちに離れて行った者は異端といわれるのを嫌い、耐えることができないで、離れて行った。」という話を聞くたびに、私の肉体の感情としてはとても恥ずかしいし、申し訳ないし、どうすればいいのかさえもわからない。しかし、主イエスはこの世で迫害を受けたときにどのように耐えられたであろうか。「わが父よ。この杯を私から過ぎ去らせてください。」といって汗を血のしずくのように流して切に祈られたその姿が思い浮かぶ。
もし私から神癒の力が離れ、迫害もなくなり、霊魂に与えられた霊感さえも離れるのであれば、私はどうなるであろうか。犬が吐いたものを再び食べるように、豚が洗ったのちに再び泥の中に入って行って体を汚すように、塩気を失った塩が道端に捨てられて人々に踏まれるように、人々から笑われ、嘲笑され、この地でも天でも捨てられてしまうのではないかと恐れる。迫害によって多くの教会員を失い、他の教団にも入れてもらえない寂しさを味わってきたが、それを祝福と考えてきたために、今日までこのように生きている。
主イエスは凶悪な罪人とともに十字架につけられて殺されたが、また、そのとき、その方を弁護する者はひとりもいなかったが、聖霊と父なる神が証しされたために、イエスは復活の勝利を収められた。また、これから私を証しする方もただ神おひとりでおられる。誰かが私を殺そうとしたとしても、聖霊が復活の力によって私を証しされる。それゆえ、私はむしろ迫害を兼ねて祝福を100倍、受けようとする。アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室