イエスはよみがえりでおられる
(ヨハネの福音書11:24~26)
神は
全知全能でおられる
その方が
イエス・キリストをこの世に遣わされたのはイエスによって
神を知らせて信じさせるためであった(ヨハネ17:3)
イエスは父の御心を行うために来られたが、(ヨハネ6:38~40)
その御心はよみがえり、復活である(ヨハネ11:25)
もし私たちに復活がないのであれば、
信仰もむなしいものとなる(Ⅰコリント15:17)
他の人に信じなさいと伝えるのもむなしいこととなる
信仰のために死ぬほど献身して殉教するのもむなしいこととなる(Ⅰコリント15:19)
私たちの信仰は復活である
イエスが尋ねられた御言葉を聞いて悟らなければならない
イエスは「私はよみがえりである
あなたはこれを信じるのか?」といわれる
復活に対する期待と望みがない教会生活を送るのは
宗教人となったためである(Ⅰテサロニケ4:14~18)
復活はキリスト教会の真理であり、いのちである(ヨハネ14:6)
聖霊は私たちを死んだ者の中から生き返らせるために来られた
聖霊がそれぞれに臨まれたことを体験し、
聖霊の賜物によってその証しを受けなさい(Ⅰコリント12:7)
○ イエスの再臨の日に、
私たちはどのような復活をするのであろうか
生きた者の復活には裁きの復活もあるが、どのような復活をするのであろうか
○ 生涯、主を愛するといいながらも
主と関係がなく、主の関心を引くことができない者にとっては
その日が最も恐ろしい日となる
○ イエスの御言葉通りに復活を信じなさい
これがイエスを信じることである
その日、地球だけでなく、宇宙もすべてなくなる
※ 私たちの信仰は死に勝利するものである
死の権勢をもった者は悪魔であるし、悪霊はその部下である
死の権勢に勝利する者は悪霊を滅ぼしなさい、アーメン
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 4. 21 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私は青少年の時に教会に通いはじめ、その翌年に復活節を迎えた。そのとき、教会では卵を数百個、ゆでて、主日学校の学生にひとつずつ分け与えた。私はもちろん子どもたちは復活節を象徴するものとして記念にもらったその卵をその場で食べたり家に持ち帰ったりした。子どもたちは何の説明を聞くこともなしにただ卵をもらって喜んでいた。
復活節とゆでた卵にはどのような関係があるのだろうか。ゆでた卵はすでに死んだものである。その死んだ卵に何の意味があるのだろうか。ゆでなければ、殻を割りにくいために、そのようにしているのであろうが、イエスは「めんどりがひなを翼の下に集めるように、私はあなたがたをどんなに集めようとしたことか。」といわれた。これは悟ることができないで救いを受けることができない者を心配して語られた御言葉であった。
卵がめんどりのふところの中で21日間、抱かれると、その中からひよこが出て来る。誰かが外から殻を割ってあげるのではない。卵の中で必要な時を過ごし、ひよことして完全な形を備えると、自ら殻を割って出て来る。そのとき、卵から出て来たひよこに、へその緒のような肉が付いているのであれば、そのひよこは何日も経たないうちに死んでしまう。しかし、全身がきれいなひよこはよく育つ。卵がめんどりの翼の下でふ化し、ひよこが出て来る過程をたとえとして、卵を「復活を象徴するもの」と考えるようである。
復活はこのようにふ化して以前の姿とはまったく異なる形をもって出て来るものである。私たちは聖霊によって復活のときに腐るものが腐らないものに変わり、肉体が霊的な体に変わり、命としてかろうじて持ちこたえてきたいのちがイエス・キリストの肉と血によって永遠のいのちに変わる。
その日、時空間の制限を受けていた私たちの肉体は突然、変えられ、物質を超越するようになる。霧の中を通って出て来るように、厚い壁もしっかりと閉じられた扉も通り抜けるようになる。そして、250万光年を瞬間的に通過して天から来られた主と空中で会い、そこで主とひとつとなり、この世を裁くために再び下りて来る。
そのとき、主イエスは万王の王として、裁き主として生きた者と死んだ者を裁き、悪魔とそのしもべを地獄の火に投げ込まれる。聖徒は自分を助けるために来たのちに堕落した天使、惑わしの霊を裁く。自分の天使を裁くというのは恥ずかしいことであるが、それが復活を得た者に与えられた大きな権勢である。復活した者はイエス・キリストとともに神の相続者となった者であり、神を父と呼ぶ者であり、聖霊の導きを受けてどこにでも従って行く者である。今、私たちはその栄光の復活のために備えているであろうか? 果たしてそのようにしているであろうか?
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室