
神と人の子
(使徒の働き7:54~8:1)
神は
ただひとりの方でおられる
その方は
父、子、聖霊の三位が一体である、唯一の
神でおられる(マタイ28:19)
アブラハムとイサクとヤコブに現れたのは
神ではなく、神の使者、すなわち天使であった(使7:30~32)
イスラエルに現れた天使は
柴の中で炎として現れたし、(へブル1:7)
「エホバ」という呼び名で呼ばれた(ホセア12:5)
その天使はイスラエルに律法と戒めを与え、
イスラエルをサマリアの地とエルサレムに導いた、
神の使いであった(ガラテヤ3:19)
ついに
神の御子が人の子となってこの世に来られた
その方は神の本体のかたちでおられる(Ⅱコリント4:4)
その方の名は
「イエス」であり、自分の民を罪から救う者という意味である(マタイ1:21)
「イエス」という名は父、子、聖霊の名である
私たちは
神に会い、その名を聞いた(ヨハネ1:12)
○ その名が私たちに相続財産として与えられた
私たちはその名によってバプテスマを受け、
その方のものとなった
○ 聖霊の人はその方の証人である
証人は命を担保とした者である
バプテスマを受けることによって「エホバ」という呼び名から
○ イエスの名に移されなければならない
イエスの名だけが罪から救うし、
死からいのちに移す
※ 私たちはステパノのように大胆な証人である
律法の下にいる者によって石で打ち殺されたが、
神が栄光を受けられた
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 5. 5 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私はイエスを信じることによって初めて殉教がどのようなものであるのかを悟った。神を愛する者だけが殉教することができる。イエスは命を尽くして神を愛しなさいといわれた。私たちの信仰生活は神を愛する生活である。それゆえ、ただ神が愛されることを忠実に行い、神が喜ばれることに命をかける。
人々は宗教のためには命を差し出さないで、自分の信念によって命を差し出そうとするが、これは神と関係がない。この世には国のために死んだ殉国者や自分の信念によって死んだ殉教者も存在するが、神は神のために死ぬ者を願われる。
私たちはバプテスマを受けることによってすでにこの世を捨てたし、肉体の情欲や益と考えていた以前の知識を捨てた。これはすでに殉教したということである。私が常に大胆であるのは神を愛して神に自分の命を差し出したためである。私は常にこのように告白するが、それは恐れをなくすためである。
神に向けられたことであるのならば、何であれ命を尽くすのが正しい。これはイエス・キリストの心である。その方は父なる神の御心をなすために自分の命を十字架で差し出された。復活とはこのように死んだ者を生かすものである。私はその復活に向かって進む。私は毎年、訪れる復活節を記念行事と考えないで、「私が願い求める栄光」と信じる。礼拝をささげるときにも、祈るときにも、奉仕をするときにも、献身するときにも命を尽くすのが信仰であり、信仰生活である。
惑わしを受けないときに、信仰生活を聖くすることができる。敵は休むことなく試み、抑圧し、だます。そして、それによって私たちがまことの殉教者となることがないように私たちを卑怯にし、怠惰にし、物惜しみをするようにする。まことの殉教者は「イエス」の名の前で謙遜であるが、そうでない偽善者は神の御名の前で常に高ぶる。高ぶった者は自分の義や哲学、この世の学問を誇る。神の恵みについては知ることができないし、自分の義が覆われるのではないかと恐れて現れもしない。
私が常に感謝するのはこの世では誇るものがないということである。正直に言って、信仰的には幸せである。この世で疎外されたとしても天では高められるということを信じる。敵の前で報いを施してくださる神に栄光をささげる。
聖楽人がさらに熱心に奮発して教会の再建の先頭に立ち、さらに熱心に産みの苦しみをともに担うのであれば、私たちの教会はこの世で主の御心をなす、勝利する還言教会となる。これが私の祈りである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室