福音は耳で聞く
(ヨハネの福音書20:24~31)
神は
霊でおられる
その方は
人の目で見ることができない方でおられる(ヨハネ1:18)
ただ御言葉によって聞いて信じることができる方でおられる(ローマ10:15)
その御言葉は初めの前から永遠におられる(ヨハネ1:1)
その方が目で見ることができるように現れたとしても、(マタイ1:23)
耳で聞いて信じないのであれば、その方を知ることができない(ローマ10:17)
御言葉を聞いて信じることによって、その方が実存しておられることを悟り、
その方が私たちとともにおられることを確信する
イエスはその本体のかたちでおられる(Ⅱコリント4:4)
私たちは存在しないものを信じるのではなく、
確信する方を信じる(へブル11:1)
聖霊は目に見えない(ヨハネ14:17)
しかし、真理によって教えられるし(ヨハネ16:13)、力によって目に見えない方を
証しされる(Ⅰコリント12:7)
神を見ようとするのであれば、
聖霊を受けなければならないし、(ヨハネ20:22)
聖霊が語られる御言葉を耳ではっきりと聞かなければならない(黙3:22)
聖霊は見ることができない方を見るように証しされる
聖霊を受けたという証しは力である(マルコ16:20)
○ イエスが喜んで歓迎される信仰は
証しを受けた者が伝える言葉を聞いて信じる信仰である
それゆえ、信仰はただ聞くことからはじまる
○ イエスの弟子であっても御言葉を信じないのであれば、
イエスは大きく失望される
まことの弟子はイエスの御言葉の中にとどまる
○ 「永遠のいのちの御言葉がここにあるのに、誰のところに行きましょう?」
この信仰によって永遠のいのちに入って行く
耳で聞いた御言葉を霊魂に迎え入れる
※ 信仰を伝えるためには御言葉を聞き、
その御言葉が真理であることを信じ、
その御言葉を再び耳に伝えなければならない
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 5. 26 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
いつの間にか、半世紀を超える歳月が流れた。聖楽教会を開拓して設立してから50年が経った。これまで私たちは神が生きておられることを豊かに知って体験してきた。神が田舎の少年を選び、聖書を読むことに専念させ、働きの場に遣わした。
教会の枠を超えて招待を受け、さまざまなところを巡りながら福音を証しするときに、私はとても驚くべきことを悟った。私はこれまで約1000ヶ所の教会、62教団の教会で集会を導いてきたが、私が受けた恵みにあふれていた教会はほとんど存在しなかった。ほとんどの教会は宗教化され、引き返すことができないほど儀式化、形式化されていた。
神は私を全国を巡回する伝道者とされた。私は大型天幕をもって歩き回り、空き地があればどこでも天幕を張って「神癒福音伝道」をした。そのとき、「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされた。」という御言葉を実感した(マルコ16:20)。そのときに体験した多くのしるしを、どのようにして言葉で言い表すことができるであろうか。
私が「神癒福音伝道者」として神から与えられた真理、恵みの福音、力は岩のように固まってしまった宗教化された信仰人の心を開かせ、大きな恵みをもたらした。このときから私は「もし既存教団に入って行くのであれば、宗教化された信仰生活によって私の霊魂も化石となってしまうのではないだろうか。牧会をしながらもその範疇を脱け出すことができずに化石となってしまうのではないだろうか。」とひどく憂慮した。そのとき、神は私に国際独立宣教会と協力する機会を与えてくださった。私は「教会を担任するのであれば、必ず独立バプテスト教会を建てよう。」と決心した。そのように神と約束して設立したのが聖楽教会であった。
初めから「この道は険しくて困難であろう。」と考えたが、「自分の命をすべてささげれば、十分に歩むことができる。」と考えたし、神も私をその道に追いやられた。それは聖霊がイエスを悪魔が働く荒野に追いやられたようなものであった。私はこの道でこの世の名誉、栄光、慰めを完全に絶たれた。ただ主とともに歩みながら、聖霊の霊感だけを受けて説教をし、文章を書いてきた。
私たちが目的とする世界還言運動は聖霊の御言葉によってだけすることができる。私は文章を書くときに、説教要旨や松竹岩を執筆するときに、ただ随筆のように書く。筆先が進む通りに初めから終わりまで一度に書き上げる。これは聖霊の御言葉だけを現そうとするためである。
主が予定されたことが歳を取った私の目の前に迫って来ている。この世に何の未練も欲もないが、ただ私がこの世を離れたのちにも毎週、読まれている説教要旨が聖楽教会の教育のための教材として用いられることを願う。この要旨には真理についての概念だけがある。還言ベレヤ人は他のものを入れないで、ただこの要旨を用いることを願う。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室