祝福ある者
(マタイの福音書5:1~12)
神は
祝福の根源でおられる
その方が
この世を造るときに祝福を与え、(創1:28)
また、イエス・キリストによって祝福を与えられた(ルカ24:50~51)
人々が願う祝福はすべてこの世のものに過ぎない(マタイ6:31~23)
この世は歳月が過ぎれば、なくなる(マタイ24:35)
祝福は誰が受けることができるのであろうか?
心の貧しい者が祝福を受けるといわれた(マタイ11:5)
この祝福は天国を得させるものである(マタイ5:3)
貧しいという言葉は「プトコス」というが、
これは「負債を永遠に返すことができないくらいに無力である」という意味である
ひとつでも返すことができるのであれば、「プトコス」ではない
神の恵みは永遠に返すことができない
それゆえ、その恵みを受ける者は「プトコス」でなければならない
また、
死ぬほど献身して受ける祝福があるが、(へブル11:6)
これは天に行って受ける報いである
私たちはこれを受けるために死ぬほど力を尽くす
それゆえ、
この2つの祝福はこの地では目で見ることができなかったとしても、
ひとつはこの地で救いを得させるし、
もうひとつは天で報いを受けさせる(マタイ5:12)
○ 私たちは霊的な者である
霊を目で見ることができないように、信仰によらなければ、知ることができない
○ 信仰によって恵みを祝福として受ける
信仰によって献身する者は報いとして祝福を受ける
○ 恵みはいのちの祝福を受けさせるし、
従順はいのちの冠を受けさせる
この2つは天にある約束である
※ 心の貧しい者、すなわち「プトコス」な者は恵みを受ける
いくらでも返すことができる負債を負わないで、
永遠に返すことができない負債を負う者となろう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 6. 23 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
詩を書きはじめてからすでに数十年が過ぎた。いつの間にか年老いた詩人となった私は今回、13冊目の詩集をこの世に出した。詩は詩人の知恵から出て来るものである。しかし、いったんこの世に生み出されれば、その詩はそれ以上、詩人のものではなく、他の人の歌となる。私は詩を上手に書くわけではないが、自分が書いた詩を愛する。
私はできるだけ人類が普遍的に受け入れることができる詩を書こうとする。私は生涯、キリスト者として生きてきたために、心や考えや頭には信仰告白が満ちている。しかし、これまで私が書きたかったのは自分の信仰を表現する詩ではなかった。私は人類がともに体験することができるこの世の話を正直に歌いたかった。人類のひとりとしてすべての人が共感することができる内容をもって会話をしたかったのである。
12冊の詩集はそのようにしてこの世に出て来た。しかし、今回、私は自分が負っている信仰の十字架をこれ以上、隠すことができなかった。自分の霊魂の声を歌いたかった。私の霊魂はとても孤独である。しかし、私には人々の目には見えないいのちの水の波があるし、それによって私は幸せである。私は生涯、信仰をもって献身してきたが、それを歌によって告白したかった。それで、13冊目の詩集には主に自分の霊魂の歌を収めた。
私は生涯、文章を上手に書かなければならないと考えたことがなかった。ただ自分の霊魂から流れ出て来る歌を、ペンが走るままに書き進めてきた。そこに表現された自分の姿がみじめに見えるときもあったが、むしろそれが私の霊魂を幸せにした。宗教と信仰はその特色が異なるし、文化と文学もやはりそうである。私はこの事実を知って文章を書く。それで、詩集が誕生するたびに喜びにあふれる。
前にも書いたように、私が詩を作れば、他の人がその歌を歌う。私は他の人が歌う歌を聞きながら、感動を覚えて喜ぶ。これからどれだけ書くことができるのかはわからないが、最後の瞬間まで詩を書きたい。これからもこの世で旅をしたい。
老人の詩であるために、現代人の口には合わないかもしれない。しかし、私にはこの地で数十年間、生きてきながら得たもの、見たものがある。人々がこれを無視しなかったのであれば幸いである。私は詩人である。文章を書く者である。私はこれまで信仰と関連して福音仲裁の文章を書いてきたし、その一方で、文学を通して自分の精神世界を現してきた。私はこの2つをすべて愛する。
私の文章を読んで翻訳して校正してくれる中国人の友人がいる。彼も私のような詩人である。今回、この世に出した詩集を通して彼について紹介しようとする。彼は月山の生涯を詩によって歌った友人である。彼が書いた詩も今回、ともにこの世に紹介する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室