イエスの教会
(マタイの福音書16:13~20)
神は
生きておられる
その方の御子は
復活のいのちでおられる(ヨハネ11:25~26)
私たちの信仰は救いと永遠のいのちを得ようとするものである(ヨハネ3:16)
それゆえ、
救いに至る信仰がなければ、滅びるし、(ヨハネ3:17~18)
私たちの生涯の労苦はむなしいものとなる(Ⅰコリント15:17~18)
敬虔であったり多く祈ったり献身をしたりしたとしても
信仰がなければ、滅びる(へブル11:6)
私たちの信仰は預言者の言葉を信じるものではないし、
イエスを預言者のひとりと信じるものではない(マタイ17:4~5)
ただ
イエスを生ける神の御子、キリストと
信じるものである(マタイ16:16~17)
それゆえ、
預言者の言葉よりもさらに大きくて高い
神の御言葉を聞かなければならない
福音はキリストによって聞いたし、(マタイ4:17)
真理は
聖霊によって聞いて信じる(ヨハネ16:13~14)
○ 私たちの信仰は
主イエスの福音の恵みと
聖霊の真理を信じるものである
○ 福音を聞いて信じ、
真理を聞いて信じてこそ、永遠に生きる
この信仰によってだけ天国の鍵を得る
○ 誰かの言葉を聞いて信じるのではなく、
イエスが語られた御言葉を信じ、
聖霊が教えられる真理を信じなければならない
※ イエス・キリストは御言葉、すなわち
神でおられる
神を証しする真理を聞いて悟ろう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 8. 04 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私たちは唯一のまことの神とその方が遣わされたイエス・キリストを信じる。神はひとりの方でおられる。父と子と聖霊はひとりでおられる。
私がこの世に属していたときには神がどのような方でおられるのかを知らなかったし、その方が存在しておられるということも知らなかった。ある日、私は教会の鐘を聞いて、そちらに足を向けた。そのような私が今は牧師となった。そして、伝道者、牧会者として生きる間にいつの間にか沈んでいく太陽のような老人となった。しかし、私の霊魂は青年のようであり、依然として霊感にあふれている。肉体は服のように着れば着るほど古びていくが、霊魂は日々、新しくなる。私はそれをはっきりと体験している。これは神の血と聖霊の霊感が常に私の霊魂の中で生ける水のように流れているためである。
私が神を知るのは他の人の話を聞いたためではなく、直接、神を体験したためである。その体験は肉体の感覚によって感じるものではないし、情欲を基準として判断するものでもない。私の霊魂は私の中で享受する喜びを体験している。私は肉体の喜びと霊魂の喜びは異なるということをはっきりと知っているために、常に神に感謝をささげる。神は霊でおられるために、目で見ることもできないし、見たこともない。そうだからと言って、私たちの信仰は神を長いひげを蓄えた老人のように想像するものではない。神がなさる働きを詳細に見て知って信じるものである。
イエスはナザレ人でおられた。その方にはマリヤという母がいたし、祖先としてはダビデ、アブラハムがいた。その方は歴史の中に実際に人として存在された。その方は神の御子という身分を現しながら、しるしを現しはじめた。それによって生まれつき盲人であった者は目を開いた。盲人は永遠に光を見ることができない。この世は盲人に光を見せることができない。しかし、イエスは盲人に明るい光を見せられた。
人にはできないことをするのは神しかおられない。その方は十字架につけられて殺されたが、3日後に死んだ者の中からよみがえられた。それを見た者はイエスの11人の弟子であった。彼らは自分の命を差し出して「イエスはよみがえられた」と伝えた。誰が何のためにすでに死んだ者のために命を差し出すであろうか? 弟子たちが命を差し出しながらイエスが生きておられると証ししたのはイエスが実際によみがえられたためであった。
人を生き返らすことができるのは神だけでおられる。イエスが天に上られたのを見た者はその事実を証ししたのちに殺された。彼らがそのようにしたのは聖霊を受けたためであった。私は聖霊が自分に臨まれたのを体験したために、命を差し出してその霊感を伝えている。イエスはこの世に現れた神でおられるし、神の本体のかたちでおられる。私たちが信じるものは実状である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室