イエスは死んで、罪人は生きる
(マルコの福音書15:6~15)
神は
恵み深い
その方が
罪のない義なる者をこの世に遣わし、
代わりに死なせて、罪人を生かそうとされた(Ⅱコリント5:21)
義はただ
神でおられるし、その方が自分の義を現そうとして、
イエス・キリストをこの世に遣わされた(ローマ6:18~23)
義人である方が代わりに死んで、
凶悪な罪人を生かそうとされた(ローマ6:6~9)
これが福音である(マルコ1:1)
イエスがどうして死なれたのかを知って信じれば、
凶悪な罪人である自分が救いを受けたということを知る
罪人が救いを受けたということを信じるのは(ローマ5:17~18)
自分の代わりに死んだ方がおられるためである
この信仰を告白して所有するのが
バプテスマである(ローマ6:3)
バプテスマを受けた者に印を押して保証するために
聖霊が限りなく与えられた(Ⅱコリント1:22)
このときから聖徒は律法の下におらず、
聖霊の法の下にいて、それに従う(ローマ8:1~2)
○ バプテスマは儀式ではなく、体験である
神がなさる働きを体験し、神から遣わされた
イエスと結びつく
○ まことにバプテスマを受けたのであれば、
賜物として聖霊を受けなければならない
聖霊によって生まれ変わらなければ、決して救いを得ることができない
○ 私たちの体と生活に
聖霊のいのちの力、賜物、霊感があるときに、
イエス・キリストの人となる
※ イエスの人はその恵みを体で体験した
イエスの側に立ちなさい
イエスの証人となろう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 10. 20 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私が生きてきた道はそれこそ天路歴程であった。しかし、まだ私の命は保たれているし、すべきことも残されている。私の生涯は土の中から出て来た真珠のようなものであった。25歳という若さでリバイバリストになり、ただ福音と恵みだけを証ししてきた。平信徒リバイバリスト、伝道師リバイバリスト、牧師リバイバリスト、開拓教会の設立者、大型教会の担任監督、ベレヤ国際大学院大学の総長、著述家、詩人、世界60ヶ国余りを巡り歩くセミナーリバイバリスト、ベレヤ・アカデミーの設立者、還言という使命をもったベレヤ人として生きてきた。
信仰的にも聖書的にも教会に迷惑をかけることなく、死ぬほどの力を尽くしてきた。世界一の教会を建てようとして全身全霊をささげてきた。その一方で、肉体的にはこの世で多くの欠点をさらしてきた。しかし、歴史はそのすべてを記憶すると確信する。体の気力は尽き果て、視力は急激に落ちてよく見えないが、そのような姿を見せないように死ぬほどの力を尽くしてきた。私はただ自分が主イエスを主人として仕え、聖霊の導きを常に頼ることができるということに感謝をささげる。
神は私に霊感を豊かに与えてくださった。私はその事実を重く考える。5つのパンと2匹の魚の霊感だけではなく、真理について深く知る霊感を与えてくださり、生涯、その霊感が絶えることなく泉のように湧き出るようにしてくださった。これは私の霊魂の自慢であり、栄光であった。
私はこのために携帯電話をもったこともなかったし、インターネットに手を触れたこともなかった。目を覚ませば、携帯電話を手に取るのではなく、聖霊から注がれる霊感を受けた。神は夢の中でも真理を悟らせてくださった。私の体からは生涯、神癒の力が離れなかった。私はこの事実に感謝をささげる。
これからは愛する息子が私の跡を継いで働いていく。彼にも神から知恵、力、信仰、霊感が豊かに与えられることを祈る。彼は私よりも多くの知識をもっているし、世界一の神学者でもある。心と霊もきれいである。私たちの教会に大きな祝福となると信じる。
私たちが信じるのは宗教ではない。それゆえ、私たちは宗教人ではない。裁きを受けなければならない者でもない。永遠のいのちを得て第一の復活にあずかる栄光をもつ聖徒である。自分の霊魂をむやみに扱ってはいけない。生涯、命をささげて教えてきたことを肝に銘じなければならない。まことの信仰人、真理を知るまことのベレヤ人として祝福とともに迫害や試練を受けなければならないし、揺れ動いてはいけない。ことさらに罪を犯さないで、熟れた実として主の日を迎えることを切実に願う。
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」という御言葉を忘れてはいけない。私たちは自分の職分をしっかりと守る者とならなければならない。これが私の願いであり、祈りである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室