神の国が来るように
(マタイの福音書12:22~29)
神は
霊でおられる
その方が
天にある霊、地にある霊、地の下にある霊を
すべて創造された(ピリピ2:10)
神の霊は光である(ヨハネ3:21)
サタンの霊は暗やみであり、光を恐れる(ヨハネ3:19~20)
人類は不従順によって罪人となった(ローマ5:17)
罪は滅びるものであり、暗やみの権勢である
罪を犯す者はこの世の流れに従い、
空中の権勢をもつ者に従うが、空中の権勢をもつ者とは悪魔であり、
今も不従順する者の中で働く霊である(エペソ2:1~3)
死に至る病気や呪いはすべて
暗やみの支配者によってもたらされる(Ⅰコリント15:56)
死の権勢がそれを支配する(ローマ5:21)
人間の修養、力、宗教は決して暗やみに勝利することができない
暗やみがどうして暗やみに勝利するであろうか
イエス・キリストだけが光でおられる(使4:12、ヨハネ8:12)
聖霊は光を証しする霊でおられる
聖霊によって暗やみを追い出すのであれば、
神の国が来ているのである(マタイ12:28)
○ うつ病は暗やみの権勢に抑圧されることによって発生する
うつ病をそのままにしておけば、絶対に幸せになることができない
聖霊に満たされたときにだけ、悪霊、すなわちうつ病を追い出す
○ うつ病をそのままにしておけば、
悪魔の権勢から自由を得ることができない
聖霊に満たされることによって自由を勝ち取る
○ 神の国はまことに自由である
悪霊を追い出してこそ、まことの自由を得る
これは聖霊の力である
※ 悪念、執着、うつ病は
悪霊の家である
聖霊に満たされることによって神の国が来るようにしなければならない(ルカ17:21)
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 11. 17 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
信仰とは人の考え、良心、感情、道徳性、品性に同意するものではなく、神の御心に同意するものである。神の真理が私たちの霊魂に入って来るときにそれに同意し、神に従って出て行くのが信仰である。神はこれを義とされる。私たちは信じるときに自分の考え、良心、感情、道徳性、品性をすべて水(墓)の中で葬った。それゆえ、私のものであったこの世のものを捨てて、ただ神の御名を呼び、神に出て行くのが信仰である。
人々は説教が自分の考えに合うものであったときに恵みを受けたという。しかし、説教は人の考えに合うものではなく、神の御心に合うものである。むしろ説教は私たちの心に積もっているものを追い出すものである。そして、そののちには神の御心が主人とならなければならない。
聖霊に満たされるというのは聖霊が主人になるということである。これが神の国が来たということである。国には王が存在する。天には神がおられるし、この地には神の国がなければならない。神の御言葉を迎え入れ、その御言葉によって変えられ、神に栄光を帰すのが信仰であり、神が求められる義である。一言で言うと、神がまいたものを神が刈り取るのが義である。
人の義は自分の霊魂を救うことができない。救いのために神が求められるのは神がまいたものである。自分がどんなに正しいと考えたとしても、神が刈り取らなければ、それは罪である。ただ神の御心に従い、変えられ、神に出て行くのが義である。これによって神が栄光を受けられる。
神の血と肉である真理を信仰によって受け、完全に認めるのが神の義である。これを恵みという。恵みには自分の義はなく、神の義だけがある。神の喜びは十字架で死ぬために来て、血を流し、3日後によみがえり、神に帰り、栄光の右の座に着かれた方である。誰でもバプテスマを受けなければ、この世と自分の肉体から解放されることはない。バプテスマを通して古いものから神に移される。これが神の義であり、神の喜びである。
歳月を惜しまなければならない。歳月は休むことなく機会を奪っていく。バプテスマを受けたからといって、人の体が神になるわけではない。肉体は続けてこの地に属し、のちに土に帰っていく。聖書は霊魂を神といった(ヨハネ10:34~35)。恵みを受けた霊魂は神である。その霊魂は天に属する。天は霊であるし、霊は神である(ヨハネ4:23~24)。私の霊魂は神に属した者であり、天に属した神の子である(ヨハネ1:12)。
私の霊魂はバプテスマ人であり、この世に属した者ではない。神に属した者であり、神の子であり、神である。今は永遠にこの世から離れるときだけを待っている。肉体を脱ぎ捨てる瞬間だけを待っている。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室