イエスと十字架
(コリント人への手紙第一1:18)
神は
良い方でおられる
その方が
この世に御子を与えられたが、その御子が
イエス・キリストでおられる(ヨハネ20:30~31)
イエスとはその方の名である(マタイ1:21)
キリストとはその方の職分、(ヨハネ17:3)
神の御子の職分である
その方が受けた戒めは十字架につけられるというものであった(ヨハネ10:17~18)
十字架は刑具であり、それにつけられるのは刑罰である
十字架はこの世の法であり、宗教である(ルカ23:24)
そこにつけられたのは罪と関係がないキリストであり、
神の御子でおられる(マタイ16:16)
それゆえ、
神の御子を見て信じるのか、
十字架を見てつまずくのか、
救いを受けるのか、滅びるのかという岐路に立たされている、(ヨハネ10:9~10)
人類の本質は2人の強盗である
救いを受ける強盗と滅びる強盗に区分される(ルカ23:33)
十字架という刑具を見てつまずくのか(ルカ23:39)
そこにつけられたキリストを見て信じるのか
バプテスマはキリストの側に立つものである(マルコ16:14~20)
イエスとひとつの体になるという告白であり、しるしである
○ バプテスマを受ければ、
神が印を押して保証される
○ 聖霊が臨まれるというのはその証しであり、保証である
十字架を見て信じるのではなく、そこにつけられた方を信じる
○ イエスと十字架を誤解すれば、つまずく(マタイ11:6)
その方は十字架につけられなければならなかったが、(ヨハネ3:14~15)
イエスを信じる者は救いを受けるし、つまずく者は滅びる(ヨハネ3:18)
※ 人を見て義とされる者はいない
イエスを見て信じてこそ義とされる
バプテスマを受け、恵みを受けた者だけが義とされる
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 12. 01 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
私は生涯、ひとつの道を歩みながら、神が永遠でおられるということ、神が知恵にあふれる方でおられるということを知った。人だけではなく、獣も木も草も神の御心通りになるということを悟った。
神はひとりの人を通して自分の大意を成就されなかった。ダビデがすること、ソロモンがすることをそれぞれ区別して、偉大なる御心を成就された。モーセだけではなく、預言者たちを通して偉大なる御心を成就された。ひとりを選んで生きた霊とされただけではなく、アブラハムがすること、イサクがすること、ヤコブがすることをそれぞれ区別して、それを成就された。これは大きな恵みであった。
神はアブラハムに「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」(詩105:11)といいながら、その契約、千代に命じられた御言葉を永遠に覚えられた。アブラハムになされた契約はイサクにも誓いとして与えられたし、ヤコブにも掟として立てられた(詩105:8~10)。神はヤコブに立てられた掟によってイスラエルを生かし、カナンの地に至らせ、その地を占有させた。
聖楽教会は韓国の歴史において最初に設立された独立バプテスト教会である。神はその教会を建てる働きを私に預けられたし、私はそのひとつの働きに死ぬほどの力、渾身の力を注いできた。その木はしっかりと根を下ろしたし、小枝を取り除いたのちに再び新しい芽を出した。私は切り株となった。私の後に続く監督がその芽を伸ばし、葉をつけさせ、花を咲かせ、実を結ばせると確信する。
ダビデはエルサレムを回復したし、ソロモンはそこに神殿を建てた。その神殿の中には神の御名があったし、その御名が民を癒し、救い、その罪を贖った。考えてみよう。このように基礎を築く働きが人の力や思いによってなされるであろうか。私たちはすべて切り株を通して樹液を受け、成長してきた。これから後任監督がすることはさらに大きい。絶えず祈り、聖霊に満たされ、真理に満たされ、恵みに満たされる神のしもべとなるように祈り、従わなければならない。
苦しみなしに子を産むことができないが、教会も同じである。木もひとつひとつ枝を伸ばし、時に従って葉をつけ、花を咲かせる。そのように神は続けてその歩みを進められる。それゆえ、私は完成することができなかった働きを後任監督に預けるし、その実と冠を神にささげる。神は私たちの教会に切り株を残し、新しい芽を出させ、育てようとされる。アーメン。過去のことは後にして、前だけを見てさらに走って行かなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室