人の子が来たのは
(マタイの福音書20:28)
神は
造物主でおられる
その方が
この世を造り、この世を生かすために
太陽や雨を正しい者にも悪い者にも公平に与えられた
しかし、
その方が御子をこの世に遣わされたのは
その血と肉を与えるためであった(ヨハネ6:53~55)
神に属した者は神の羊である(ヨハネ10:16)
神が自分の羊を養って
良い牧草を食べさせるが、最高の牧草は(ヨハネ10:9)
神の御言葉であるし、その御言葉は永遠のいのちである(ヨハネ12:50)
イエスは良い牧者であり、羊の食物である(ヨハネ6:48~51)
野草も羊に食べられるときには命を捨てる
山にある木も人に用いられるときには命を捨てる
万物は自然啓示をもって創造された(へブル1:2)
それらは死ななければ、何の役にも立たない(マタイ16:24~25)
動物も人に食べられるときには殺されるように、
死ななければ、食物になることはできない(ヨハネ11:25~26)
イエスは食物となって、私たちに食べられるために来られた
人の子が来られたのは仕えられるためではなく、
人類のために死ぬためであった
○ 死んで牧草となっていのちを与えるために
聖霊によって私たちの中に入って来られた
真理は完全な牧草である
○ 聖霊は御言葉を知らせ、思い起こさせ、
悟らせる、真理の霊でおられる
○ 人の子が来られたのは私たちのために死ぬためであった
霊的な食物と飲み物となるためであった
その真理を知るのがいのちの食物である
※ イエスに仕えようとしないで、従おう
その方は真理によって養育しようとされる
真理の牧草を受けなければならない
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 12. 15 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
夢のように過ぎ去っていったことが思い出される。今では人々の名を思い出すこともできないが、そのときのその光景が目の前に集まってくると、目を凝らす。家がなくて間借りをしながら息を殺して暮らしたこと、家主に内緒で幼子を住まわせ、大きな声を一度も出させないで内心、怯えながら暮らしたこと、主日に朝一番に教会に走って行って子どもたちを思いっきり遊ばせ、それまでの感情を吐き出すかのように大声で泣き叫んだことが目に浮かぶ。
雨が降っても雪が降っても荒野のような野原に小さく建てられたブロック壁の礼拝堂が天国のように感じられたこと、その礼拝堂で自分の家のように安心して大声を出したり泣いたりしたこと、不自由な生活に耐えることができないで死にそうであったときに、貧しさのために思いっきり声を出して泣いたときに、その礼拝堂で世界に向かって還言の夢をふくらませたことが目に浮かぶ。
そのときをともにした人々は今、どこに行ってしまったのであろうか。今ではしわだらけになった何人かと時々、顔を合わせるだけである。驚きながら「先生。私を覚えていますか? ○○執事です。」といい、いつの間にか目に宝石のような涙を浮かべている。「もう私を覚えていないかと思いましたが・・・。若かった顔がだいぶやつれてしまい、涙が出て来ます。」というその年老いた執事を目にして、私の目にも涙がたまってくる。
その当時、雨が降れば、地面は泥沼になったし、雨が上がれば、ハエや名もわからない虫が押し寄せてきて足の踏み場もないほどになった。しかし、聖楽人は「教会が私の実家であり、天国である。」といって熱心に集まってきた。それゆえ、今日、私たちの教会は岩の上に立っているのである。
私たちの教会が最も誇りにしていたのが集まりであった。集まろうというと、苛立つ者もいなかった。寒い冬にも集まってきた。それゆえ、教会のスローガンは「集まって祈り、散らばって伝道しよう。」であった。そのように積み重ねられてきた汗の滴が今日の聖楽教会を作った。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそのようにしようではありませんか。」(へブル10:25)という御言葉を思い出す。これが主を待ち望む花嫁の切実なる信仰生活である。
すでに歯も抜け落ちてしまった老僕を今でも愛してくれる人々が多くいるので、感謝する。この老僕の願いは総動員して集まろうというときに10回であっても力強く行動に移して集まることである。1回だけではなく、10回であっても、集まらなければならない。このようにするのが教会を守る精神であり、力である。
愛する聖楽人のみなさん。全教会員が集まろうというその日に、ともに集まりましょう。これは教会を守ることであり、老僕の最後の勧めです。10回であっても。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室