
イエスの喜びに満たされる
(ヨハネの福音書17:13~19)
神は
幸せでおられる
その方が
御子を愛し、
御子によって喜ばれる(マタイ3:17)
これは
神の御子に与えられた喜びである
神の御子はその喜びに満たされている
イエスは「私の戒めを守れば、
私の喜びがあなたがたの中に満たされる」といわれた(ヨハネ17:13)
神の喜びに満たされている者は
この世から憎まれるが、それはこの世に属していないためである
主イエスから与えられた真理によって聖くなる
聖霊に満たされてこそ、真理が喜びとなる(ヨハネ15:10~12)
恵みと真理は喜びの福音である(ヨハネ14:20~21)
罪の奴隷には喜びがない(ローマ8:15)
義とされた者だけが喜びに満たされる
心や肉体が病気にかかった者には喜びがない
イエスの力を受けてこそ、喜びに満たされる
神の御心はこれである(Ⅰテサロニケ5:16~18)
いつも喜んでいなさい
このために絶えず祈りなさい
そして、すべてのことについて感謝しなさい
○ 聖霊がおられなければ、喜びがない
聖霊を思い通りに働かせなさい
○ 主イエスの尊い血がなければ、喜びがない
悔い改めて、罪の赦しを受けなさい
○ バプテスマを受けた者はまことに喜ぶ
バプテスマが儀式となれば、喜びがない
イエスを体験するのがバプテスマである
※ 喜びがある信仰をもちなさい
神の喜びを御子とともにもちなさい
聖霊に満たされて、常に喜ぼう
できる(Ⅰコリント12:3)
【牧師コーナー(松竹岩)】 2019. 12. 29 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
主イエスの働きは誰かに「しなさい」といわれてするものでもないし、また、誰かに「してはいけない」といわれてしないものでもない。聖霊の力と霊感を受け、主イエスから戒めを受ければ、すぐに従って、肉体が死ぬ日まですればいいものである。誰かを脅迫し、金銭を巻き上げたのちにするのであれば、それは強盗に過ぎない。私はこのような脅迫を受けてきた。
主の働きは信仰がなければ、ただの苦労であり、不幸である。しかし、信仰をもって従えば、その困難も幸せな思い出として残るものである。主は手のひらや脇、額に傷を負われたが、その深い傷をこの世で33年、過ごした思い出として永遠に刻まれる。
主は自分とともに殉教した者の霊魂を愛しながら、この世で勝利するために力を尽くした、教会での労苦をすべて覚えられる。そして、称賛したり、報いを与えたり、父の栄光に入って行かせたりし、牧羊師、職分者に永遠に朽ちることがない冠を与えられる。
木は冬になると、厳しい吹雪や寒波によって苦難を受けるが、その代わりに根を太くして、栄養分を多く備蓄する。そして、春が来れば、少しずつ頭を上げはじめ、つぼみをつけ、葉をつけ、生い茂る木となる。教会もこれと同じである。私たちはこれまでの半世紀、ひどい悪口を浴び、悔しい迫害を多く受けてきたが、その間に大きな木の根のように太く育ち、また、栄養分を多く備蓄してきた。そして、真理によって武装し、神の意図を悟り、春を迎えている。
初代監督は迫害を受けることが定められてこの世に生まれたきたが、後任監督はその力、実力によって花を咲かせ、実を結ぶ。まだ吹雪が吹きつけ、冷たい風が吹いてくるが、春は必ず訪れる。私は厳しい迫害に勝利した。これは私の器である。さらに大きな迫害であっても耐える底力が私にはある。これは私の器である。私は小さなお椀ではなく、神に用いられる大きな甕である。すぐに割れてしまう土の器ではなく、割れることがない金の器である。私がそれを知らないであろうか。
「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10:29~30)という主の御言葉を信じる。私はこの世では祝福を100倍、受けた者であり、それとともに迫害も100倍、受けた者である。さらにその方から与えられる報いもある。「喜びなさい。」という主の御言葉を信じ、また、そのようにしている。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室