神の御心がこの地でも
(マタイの福音書6:9~10)
神は
その御言葉が完全な方である
その方が
この世に遣わされた御言葉はひとり子としての栄光である
イエスにだけ恵みと真理が満ちている(ヨハネ1:14)
神の御言葉が完全であるのは
まいたものをそのまま刈り取るため、義であるためである(ヨハネ15:1~2)
神の御言葉が天からこの地に来て、
神の御心通りに死んで、生き返って、
天に上って、その右の座に着いた
神の御名をあがめさせ、天にとどまり、
神の御心を天でなした(使2:31~36)
イエスの切なる願いは天でなされた
神の御心がこの地でもそのままなされることである(マタイ16:15~19)
その方は御言葉が肉体となって来て御心をなされたし、
御心が天でなされたようにこの地でもなされるために
聖霊を遣わされた(ヨハネ16:7~14)
聖霊は御言葉が地に落ちることなく、すべてなされるように
その御言葉を知らせ、思い起こさせ、悟らせる(ヨハネ14:26)
イエスが肉体となって来て御心をなされたように、
聖霊はこの地で御言葉によって教会を建てられる
○ 十字架につけられた凶悪な者のすねは折られたが、
イエスのすねは折られなかった
神の御言葉は折られない(ヨハネ19:31~33)
○ 地に落ちた多くの言語はいのちをもたないし、
神の御言葉ではない
生き返って天に上った御言葉だけが真理である
○ 神の御言葉は完全であるし、栄光を受ける
人の言語は地に落ちて踏まれるだけである
神の完全な御言葉とこの世の言語を分別しなさい
※ バプテスマを受けた者は
神の御言葉を完全になすし、
その御言葉によって教会を建てる
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 01. 05 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
韓国には現役の牧師が約8万人いるという。彼らは牧師となるために多くの努力をしてきた。そのほとんどは幼いときから主日学校に通ったし、敬虔のための鍛錬を多く積んできた。酒やたばこなどの悪い習慣をもたないように節制して育ってきた。悔しい思いをしたとしても、できるだけ争わないようにしてきた。一般の大学を経て神学校に入学し、多くの祈りの生活を送り、倫理道徳に関する知識を多く積んできた。そして、イエスの恵みを受けたと考え、牧師となった。
しかし、牧師と牧会者には大きな差がある。牧師は資格であるし、牧会者は力ある者である。資格は外形的なものであるし、力は内的なものである。資格は理性的なものであるし、力は霊的なものである。資格はこの世で得たものであるし、力は天から下って来た大きな賜物である。この2つをすべて備えたのであれば、どんなにいいだろうか?
ある人は力を備えているようではあるが、牧師の資格を有していない。また、ある人は牧師の資格は有しているが、力を備えていない。それは運転手はいるが、自動車のタイヤがないようなものであるし、自動車はあるが、運転手がいないようなものである。人々は牧師と牧会者を混同し、同じ種類の主のしもべであると考えるために、理由もわからずに失望する。
牧師は多いが、牧会者はとても少ない。牧師となったとしても、牧会者となるための神との交わりが絶対に必要であるし、「神の意図」をよく知らなければならない。ただのしもべは主人の考えをよく知ることなく、命じられたことだけをする。しかし、管理者は主人の考えを推し量り、その考えをなそうとして従い、能動的に使命をもって働く。
私はこれまでの半世紀、伝道者として、開拓者として、牧師として多様な訓練を受けてきた。そして、それによって神の御心をなそうとして最善を尽くし、命をかけてきた。誤解やねたみの刀が襲ってくる恐ろしい現実の中でも自分が進むべき道を進むことができた。完全ではなかったとしても最善を尽くす、時間を惜しむ牧師として生きてきた。「神の意図」に立脚した牧会をする者としてのタラントをもって生きてきた。
見なさい。多くの牧師が私の下で働いてきたが、彼らはどんなに立派な者であっただろうか。しかし、彼らは牧師としての働きをしたが、牧会者ではなかった。それゆえ、彼らの中で私から離れたのちに果たして牧会らしい牧会をする者がどれだけいるだろうか。彼らは理由もわからずにもどかしかっているかもしれない。しかし、神は牧師と牧会者を区別される。
私は牧師であり、牧会者である。すなわち、管理者である。5タラントをもった者、10ミナをもうけた者が牧会者である。聖楽人が牧師と牧会者を区別してくれればと思う。牧師は自ら願って働く者であり、牧会者は神から選ばれた者である。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室