イエスを信じなさい
(マルコの福音書4:35~41)
神は
救いの全能者でおられる
その方が
この世に御言葉を遣わされたのはこの世を救うためであった(ヨハネ3:16~18)
御言葉が肉体となってこの世に現れたのは
神の力を与えるためであった(ヨハネ1:14)
イエスはいのちであり、力でおられる(ヨハネ14:6)
イエスだけが唯一の救い主でおられる(マタイ1:21~23)
天の下でイエスの名のほかに、人間に救いを得させる名は
与えられなかった(使4:12)
イエスは目に見えない、まことの
神の霊のかたちでおられる(ヨハネ1:18)
天のまことのかたちでおられる(Ⅱコリント4:4)
神の永遠のいのちのまことのかたちでおられる
全能者のまことのかたちでおられる
造物主のまことのかたちでおられる
私たちの信仰は
その神を信じて疑わないものである(Ⅱコリント4:3)
主イエスを頼らないのは不信仰である(マルコ4:40)
イエスを眠らせるのは無能である(イザヤ62:6~8)
聖霊を働かせなければならない(イザヤ62:4)
○ イエスを眠らせてはいけない
常に働かせなさい
その方は私たちを救うために来られた
○ 主イエスを迎え入れたとしても
働かせないのであれば、患難である
眠らせるのであれば、絶望するしかない
○ 主は常に耳を傾けておられる
恐れないで、何でもその方に求めなさい
患難、病気、突風のような試みを恐れてはいけない
※ 絶えず祈り、
すべてのことに感謝し、
常に主イエスとともにいることを喜ぼう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2020. 03. 01 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
愛する聖楽教会のみなさん!
私は今日、悩んだ末にこの文書を書いています。聖楽教会は私が命をかけて開拓して建てた教会です。それこそ産みの苦しみのような涙を流しながら身もだえして成長させてきた教会です。
私は人格的にも性格的にも完全ではなく、欠点も多い者です。それゆえ、生涯、恥ずかしい思いをしています。しかし、これまでの50年間、聖楽教会を生かして育てようとして力を尽くしてきましたし、命まで差し出して教会を愛してきました。これについては恥ずかしく考えることも、申し訳なく考えることもありません。心も体も惜しむことなく、教会のためにささげてきたためです。自分については後悔することも、恥ずかしく考えることも、悔しく考えることも多いですが、教会の働きについては自分に与えられたことを担おうとして、死ぬほどの力を尽くしてきました。
私を検察に告発した分裂派は無理やりに道徳的な欠点を作り出し、今日のような事態を引き起こしていますが、どうして告発しておきながら控訴をしないのか、理解することができません。「それならば、どちらでもかまわない。」というように居直りながら、続けて私に悪口を浴びさせています。しかし、私は視無言をして、ただ耐えています。
それにもかかわらず、まるで私が彼らと言い争いをしているかのように考え、和解するように勧める者がいます。私はそのような人に尋ねたいです。黙ってむちを打たれている者と理由もなしに憎しみを作り出しながらむちを打っている者がどのようにして和解することができるでしょうか? 彼らが過ちを犯したのであれば、悔い改めて赦しを求めればいいだけのことです。
教会や監督を愛するといいながら「教会財産を少し分けてあげて和解すれば、これまで告発したものをすべて取り下げるであろう。」と楽観する者がいます。パリサイ人よ! イエスに来ては口づけをし、出て行ってはイエスを殺す計画をささやくような、恥ずかしくて愚かなことを絶対にしてはいけません。それは監督のためでも教会のためでもありません。
聖楽教会は宗教集団ではなく、血を流して建てられたイエス・キリストの体であり、イエスの血の福音である「神の意図」を伝えるという使命をもった教会です。これを「ベレヤ」といいます。ベレヤが何であるのか、神の意図が何であるのかをまともに知ることができないままに、人間的な浅はかな知恵によって監督を超越しないでください。教会をだまさないでください。
聖楽教会は土地一坪も不義なる者に分けることができません。監督が投獄されるのかは神の御心によります。私たちの教会はその御心に従います。二度と無用な労苦を払わないでください。分裂派に同情するのであれば、むしろ聖楽教会を離れなければなりません。それが監督を愛して助けることです。私たちの教会はどのような苦難を受けたとしても「還言ベレヤ運動」をする教会です。監督中心の教会とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室