2020. 07. 26 イエスを売ってはいけない (マルコの福音書14:43-50)

イエスを売ってはいけない
(マルコの福音書14:43~50)

神は
永遠な父でおられる
その方が
イエス・キリストを御言葉として遣わされたのは(ヨハネ1:14)
この世を救うためであった(ヨハネ3:16)
救いを受けた霊魂を天に連れて行くためであった(ヨハネ14:1~3)
神は御子をこの世に遣わすときに、
王宮や金持ちの家に遣わさないで、
ナザレ人として遣わされた
最も低いところ、疎外されたところ、捨てられたところに遣わされた(マタイ2:23)
神の御言葉、すなわち真理は低いところからはじまり、
全人類に宣べ伝えられた(マタイ11:2~6)
神は謙遜な者を選び、高ぶる者に
敵対されたが、このために罪人の友となられた(Ⅰペテロ5:5~6)
イスカリオテ・ユダは主を迎え入れながらも、主を知らなかった
偉大なしるしを見ながらも、復活を見ることができなかった
信仰よりも良心を重視したために、
イエスを探すよりも良心の抑圧を受けて死んだ
教会員であったとしても二心を抱く信者はイスカリオテ・ユダのような者である
教会の外ではこの世と親しくするが、
教会の中では主と口づけをする(ヨハネ6:70~71)
〇 自分の良心を守るといいながら信仰を守らない者は
     宗教人である
    どちらにも属さないし、自分の義だけをもつ
〇 神にもこの世にも属さない者、
    イエスを売りながらもイエスに口づけをする者は悪魔である
    聖霊の導きはただ真理に従わせる
〇 宗教人になってはいけない
    宗教人になれば、イスカリオテ・ユダのように良心が抑圧を受けるために、
    信仰に至ることができない
※ イエスに口づけをしながらこの世と妥協してはいけない
    これは悪魔がすることであるし、のちに捨てられる
    信仰に移された者としてバプテスマを受け、霊的な者となろう

2020. 07. 19 血を流すまで罪と戦いなさい (へブル人への手紙12:1-13)

血を流すまで罪と戦いなさい
(へブル人への手紙12:1~13)

神は
義でおられる
その方は
善悪を分別する方であり、不義を赦さないで、
永遠に滅ぼすために裁く(へブル10:30~31)
神は義によって御心を定め、(マタイ3:15)
ふところにおられる御子をこの世に遣わされた
イエス・キリストが現れたのは父の御心を
なすためであった(ヨハネ1:18)
神の御心はその名にも現れているように、(マタイ1:21)
自分の民を罪から救うことである
よみという宇宙は堕落した天使を閉じ込めたところである(Ⅱペテロ2:4)
その最後は刑罰を与える火の池である(黙20:13~14)
宇宙というよみにはいのちも望みもない
現在、よみの主人は「ベルゼブル」という悪魔である
「ベルゼブル」とは汚物の家の主人という意味である(マタイ12:24)
主イエスの福音は
「よみから出て来なさい、
汚物の家から脱け出しなさい」という、権威ある命令である(マタイ4:17)
イエスはよみの門を開いてよみがえったキリストであり、
救いの門であり、天国の門でおられる(マタイ16:17~18)
〇イエスの血は天国の門であり、いのちである(ヨハネ10:9)
   聖霊は救いを受けた者をその門に入って行かせる
   天の下でこの御名のほかに、人間に救いを受けさせる名はない
〇その名を受け、よみがえられた主と結びつき、
   神の国、永遠のいのちに入って行く
   聖霊に従って生きるというのはその道を歩むということである
〇よみから永遠のいのちに移って行く門はひとつだけである
    それはバプテスマである
    バプテスマはキリストと結びつく唯一無二の権勢である
※ 聖霊の名によってバプテスマを受ければ、霊的な人となる
   そのために罪と戦わなければならない
   血を流すまで戦って勝利しなければならない(へブル12:4)

2020. 07. 12 羊の門でおられるイエス (ヨハネの福音書10:7-18)

羊の門でおられるイエス
(ヨハネの福音書10:7~18)

神は
愛でおられる
その方が
御子をこの世に遣わされたのはこの世の救い主とする
ためであった(ヨハネ6:39~40)
イエスにはこの世を救う責任がある(ヨハネ10:15~18)
天は虚空ではなく、霊であり、水晶のような実存である
神は宇宙よりも無限に大きいし、永遠でおられる(ヨハネ10:29)
宇宙は虚空であるために、むなしくて暗い(創1:2)
宇宙には死の権勢がある
霊的には絶望だけがある(エペソ2:1~3)
それゆえ、霊は死んで、裁きと刑罰を待つ(黙20:12~15)
イエスは私たちを救うために戒めを受けられたが、(ヨハネ10:38~39)
それは私たちの代わりに死ぬこと、(マタイ20:28)
そして、私たちをよみの権勢、宇宙から救うことであった
私たちが救いを受けるというのは私たちの霊魂が天に
移されるということである(エペソ2:4~9)
バプテスマを通してよみから足を洗い、
霊に属した者、天に属した者となる(使19:2~7)
天に入って行く門はただひとつである(ヨハネ10:7)
イエス・キリストである
それゆえ、イエスを仲介者という(へブル8:6)
〇 バプテスマはいのちを得る悔い改めである
    聖くなり、よみから移され、天に入って行くものである
〇 イエスを超越して天の恵みを受けようとする者は
    天で盗人、強盗として扱われる
    神の義によってだけ入って行くことができる
〇 十字架につけられ、無視を受けた主の死が
    天に入って行く天国の門である
    バプテスマは天国の門に入って行く霊的な体験である
※ 物質的に豊かになったとしても、天国に入って行くことはできない
    自分の功労によっても入って行くことはできない
    ただイエス・キリストによって入って行く

2020. 07. 05 木につけられた方を見なさい (ヨハネの福音書3:14-18)

木につけられた方を見なさい
(ヨハネの福音書3:14~18)

神は
愛でおられる
その方が
この世のためにひとり子を遣わされた(ヨハネ1:18)
神の御子がこの世に現れたのは
悪魔の働きを滅ぼすためであった(Ⅰヨハネ3:8)
このためにその方が木につけられた(ヨハネ3:14~15)
木につけられた者を呪いを受けた者といった(ガラテヤ3:13)
どうしてその方が呪いを受けなければならなかったのか?
これは神の愛であった(ガラテヤ2:20)
私たちが受けなければならなかった呪いを、(ガラテヤ3:10~11)
イエスが代わりに受けられた
これを認める者が信じる者であり、
救いを受けた者である(Ⅰコリント1:18)
救いを受けた者は裁きを受けないで永遠のいのちを得る
裁きを受ける者は自分の罪によって裁きを受ける
人類は祖先から罪人であるし、この罪を原罪という
イエスは私たちの代わりに刑罰を受け、
私たちの霊魂を生かして永遠のいのちを得させようとされる
イエスが木につけられたのが自分の問題であるということを
悟り、信じ、悔い改め、バプテスマを受ける(使2:38)
〇 バプテスマは罪人の身分を捨てて、十字架につけられたイエスと
    結びつき、復活に至ろうとするものである
    復活にあずかる者は永遠のいのちを得る
〇 十字架につけられた方と関係がなければ、
    すでに裁きを受けたのであり、
    その霊魂は地獄の硫黄の火の池に入って行く
〇 バプテスマは救いのしるしである
    霊、魂、体、全人格が罪から救いを受けたというしるしである
    聖霊がこれに印を押して保証される
※ イエスの人はこれを告白して、
    聖霊の証しを受ける
    聖霊を受けた者はその賜物に満たされる