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2021. 04. 04. イエスはよみがえられた (マルコの福音書16:1~11)

イエスはよみがえられた (マルコの福音書16:1~11) 神の御名は イエスである その方が この世の罪を負って死んで3日後に生き返られた(ルカ24:1~7) これは真理であり、福音である 私たちが信じるもの、伝えるものは復活である 主イエスは復活の初穂となられた よみに勝利した者はただひとり、 イエス・キリストでおられる(創22:17) イエスという名には その方の死と復活、いのち、永遠のいのち、恵みがある 預言者の預言は信じながら、 どうしてイエスの預言は信じないのであろうか この世は今もそうである(ルカ24:25~27) 主イエスは生き返って まず私たちに現れた(ルカ24:31~32) 生き返ったその方が固く閉ざされている戸を叩かれる(黙3:20) その方が復活の初穂となられたが、(Ⅰコリント15:20) その次は聖徒である 聖霊が私たちを生かされる(ローマ8:11) ○ 私たちの信仰にはいのちがある それは死んだ方を信じるためではなく、 生きておられる永遠な方を信じるためである ○ 私たちがその方の聖徒となるのであれば、 よみの権勢も私たちに勝利することができない 私たちはすでに天国の鍵をもっている ○ 神の御言葉は生きている 恵みの福音は生きている 聖霊が私たちの信仰とともに永遠におられる ※ 生きておられる方を信じる私たちは死んだ者ではなく、生きている者である イエスによって教会は生きて働くし、私たちの霊魂も生きている 私たちはイエスの証人とならなければならない

2021. 03. 28. イエスの弟子 (マルコの福音書3:13~19)

イエスの弟子 (マルコの福音書3:13~19) 神は 国と力と栄光の主人でおられる その方が 自分の栄光を見せるために 自分のかたちとして人を造り、(創1:26~27) 啓示の霊を与えて、聖くされた(創2:16~17) しかし、 人は悪魔の惑わしに陥った祖先が堕落することによって 神と断ち切れてしまい、(創3:9~10) その霊魂は裁きを受けるようになった(へブル9:27) しかし、神の愛は人類に福音を与えた 神は「インマヌエル」として特別啓示を遣わし、(マタイ1:21~23) 人がイエスから啓示を受けることができるように(ヨハネ14:12~14) イエスの弟子を召された イエスの十二弟子はイスラエルの十二部族のように 選ばれた働き手であった(使1:2) イエスは彼らを身近に置き、(マルコ3:13~15) ともに福音を宣べ伝えさせ、 悪霊を追い出す権威をもたせた そして、 この世での働きを終えて天に上るときに、 天の権威を与えられた(マタイ28:18~20) イエスの弟子が聖霊の導きを受け、 キリスト教会の大きな柱となった(黙21:14) ○ イスカリオテ・ユダの代わりにマッテヤが弟子に加えられたように、 今日、教会はイエスの弟子である ○ 消えたダン部族の代わりにマナセが十二部族に加えられたように、 今日、教会はイエスの弟子として立てられた ○ 主の弟子は主とひとつの体であり、主と生死をともにする者、 主を愛する者である ※ イエスの弟子を自称したとしても イエスとともに歩まないのであれば、宗教人であり、偽善者である イエスの弟子は召された目的に従わなければならない

2021. 03. 21. イエスの働き (マルコの福音書3:1~12)

イエスの働き (マルコの福音書3:1~12) 神は 天地を創造された その方が 自分の働きをすべて終え、第七日目に休まれた(創2:2) 安息日は造物主を覚える日である(申5:13~15) 安息日の次の日である主日は恵みの主を記念する日である(ヨハネ20:1~9) 安息日に働くことは禁じられたので、それを守らなければならなかった 安息日に働ければ、呪いを受けた(民15:32~36) イエスは安息日について解釈されたが、 人を生かす働きまではやめさせなかった 聖日は人を生かす日である(マルコ2:27~28) イエスは安息日の主人であり、聖日にも主人でおられる 主人でおられる方の使命は救いの働きである(マルコ3:3~5) イエスの名はすべての人を救う名である(マタイ1:21) 私たちは聖日を聖く守る者である 主は聖日にすべきことを教えられた それは霊魂を救い、病気を癒し、抑圧された者を自由にすることである イエスの福音は恵みの福音である(マルコ1:1) 聖霊の働きは力としるしの働きである(使1:8) 聖日にすべきことは救って生かすことである 主日は主の御心通りにしなければならない ○ 安息日という誤解を解いて働きなさい 神の御心に従って熱心に働きなさい 霊魂を救い、癒し、恵みを受けさせなさい ○ 安息日を言い訳にして働かないのは罪悪である むしろ聖日を犯すことである イエス・キリストを現して栄光をささげなさい ○ 主日は五旬節の姿である 聖霊に満たされ、この世に裁きを知らせなさい 信じる者は救いを受け、信じない者は滅びるということを知らせなさい ※ 宗教人は「どのようにして イエスを殺そうか」と相談する 教会では聖日が力ある祭りとならなければならない  

2021. 03. 14. 安息日と聖日 (マルコの福音書2:23~28)

安息日と聖日 (マルコの福音書2:23~28) 神は 聖なる方でおられる その方は 栄光を受けるべき唯一の方であり、 聖徒から栄光を受けようとされる(ピリピ2:10~11) 礼拝は主に栄光をささげるものである(ヨハネ4:24) 礼拝をささげる者は聖なる方の前で聖くならなければならない(Ⅰペテロ1:13~16) 聖くなければ、主を見ることができない 律法は「安息日を聖く守りなさい、(創2:3) 聖くなりなさい」といったが、(出20:10~11) 新約教会の聖日は安息日の次の日である イエスが十字架で死んでよみがえられた日を 聖日とし、主を覚える(ルカ24:1~7) 聖日の主人はひとりであるが、安息日と主日は それぞれその性質が異なる(マルコ2:27~28) 安息日は創造者を覚える日であり、その方のために存在する 主日はよみがえられた主を覚える日であり、聖徒のために存在する(使20:7~12) 今、私たちは安息日のしもべではない 霊魂を救ってくださった主の血を飲み、肉を食べる(Ⅰコリント11:23~28) 聖霊が臨まれた五旬節は主日であった(使2:1~4) それゆえ、自分の霊魂のために聖日を守らなければならない(へブル10:25) ○ 主日を聖く守ることによって救いを受けるわけではない 救いを受けた自分の霊魂の信仰を告白してこそ、 いのちを受ける ○ 主イエスの功労を認めなければ、救いを受けることはできない 主イエスの功労を認める者は 自分の罪を自白してバプテスマを受ける ○ 安息日を守ったとしても裁きを受けるが、 イエスの恵みを認めれば、救いを受ける 主の日が近づくほど、さらに聖く守らなければならない ※ 安息日は恐れの日であるために、服従するが、 主日は自由な者が礼拝をささげる日であるために、 これを信仰告白とし、喜びをもって栄光をささげる

2021. 03. 07. 新しいぶどう酒は新しい皮袋に (マルコの福音書2:13~22)

新しいぶどう酒は新しい皮袋に (マルコの福音書2:13~22) 神は 天で御心をなされた その方は 愛する御子をこの地に遣わして この地でもその御心がなされることを願われた(マタイ6:10) イエスという名には天でなされた、 神の御心があふれている(マタイ1:21) イエスが来られたのは正しい人を招くためではなく、 罪人を招いて悔い改めさせるためであった(マルコ2:17) この世の宗教は倫理や道徳を重視する(マタイ5:17~20) それゆえ、罪人とともにすることを不徳なことと考える(マルコ2:16) しかし、 イエスは医者を必要としない健康な者を招くために来られたのではなく、 医者を必要とする病人を招くために来られた その方は宗教のためにこの世に来られたのではなく、 宗教が担うことができない罪人を招くために来られた(マタイ3:5~9) 宗教は古い皮袋であり、新しいぶどう酒を入れることができない イエスは悔い改めて宗教をもたない者を新しい皮袋と考えられる 真理は宗教によって妨げられ、 宗教から常に道徳的な判断を受ける(マタイ23:1~7) 聖霊は宗教の中に入って来られない 悔い改めた者に臨んで働かれる(使2:37~38) ○ 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならないように、 宗教的な良心によっては真理を受け入れることができない ○ 主の招きを見なさい 主は宗教的な義人ではなく、 すべての人から非難を受けるような者を招かれた ○ 宗教的な良心を誇ってはいけない 罪人の心をもって悔い改め、 バプテスマを受けてこそ、新しい皮袋となる ※ 宗教的な良心を誇る者は主のしもべとなることができない 取税人や遊女のような罪人が 悔い改めて帰って来るときに、主から選ばれる

2021. 02. 28. 罪を赦す権威 (マルコの福音書2:1~12)

罪を赦す権威 (マルコの福音書2:1~12) 神は 義でおられる その方が 万物を創造された 御心に従って創造し、(へブル11:3) 御心に従って行うようにされた(マタイ6:11~13) 神の御心に逆らうのは罪悪である(ローマ12:1~2) 神の御心は神の義による 神の御子もその義に従われた(ヨハネ6:38~40) この世に来て十字架で死なれた(ピリピ2:6~8) その方がこのような戒めを受けられたのは(ヨハネ10:17~18) この世を判断するためであった(ヨハネ3:16~18) イエス・キリストは義でおられる(ヨハネ16:10) イエスを信じる者は誰でも義とされる(ローマ8:33~35) イエスを信じない者は不義なる者として裁きを受けた それゆえ、 主イエスが罪を赦されるのであれば、罪の赦しを受ける(マタイ9:6) これはその方が信仰を見て決められるのである(マタイ9:2) 信じる者は罪の赦しを受ける 罪は実状であるし、報いとして現れる 呪いや病気として現れるし、最後には地獄の火として現れる イエスを無視しないで信じてこそ生きる(ヨハネ11:25) ○ イエスを信じれば、救いを受ける 救いを受ければ、霊と肉に自由を得る ○ イエスを疑ってはいけない その方は神でおられるし、 善悪を分別する方でおられる ○ 罪を赦す権威は人に与えられたものではなく、 神の御子が行使するものである その方は天と地のすべての権威を受けられた ※ すべての悪から自由を得るためには イエスを信じて従いなさい 救いは現在から永遠まで実状である      

2021. 02. 21. 救いを受けたことを証ししなさい (マルコの福音書1:40~45)

救いを受けたことを証ししなさい (マルコの福音書1:40~45) 神は 誰も目で見ることができない その方は 霊でおられるために、肉眼によっては探すことができない(ヨハネ1:18) しかし、 御言葉を遣わして聞かせ、(マタイ3:17) 肉体として現れて見せた(Ⅰヨハネ1:1) 神は実存でおられる(詩42:2) 人はそのかたちのかたちである(創1:26~27) イエスは神の本体のかたちでおられる(Ⅱコリント4:4) その本体は天であるし、天は霊である(ヨハネ4:23~24) 御言葉は初めの前からその中にあったが、(ヨハネ1:1) 聖霊によってこの世に来た(マタイ1:20) それによってこの世には大きなしるしが現れた(ルカ2:8~10) イエスの名は救いであり、癒しである(マタイ1:21、マラキ4:2) その当時、らい病人は呪いの象徴であったが、 イエスの恵みと力によって癒しを受けた 救いを受けた者はその事実を証ししなければならない 第一に、モーセが命じたささげ物をもって証しする(マタイ8:4) 第二に、体を見せて証しする 第三に、聖霊によって証しする(ヨハネ15:26~27) ○ 救いは観念的なものではなく、実状であり、現実である イエスの恵みは実状であり、現実である 聖霊の働きは実状であり、現実である ○ 信仰は実状であり、現実である 神の国は実状であり、現実である イエスの力としるしは実状であり、現実である ○ 教会は死んだ宗教ではなく、実状である 聖霊が働かれる実状であり、現実である それゆえ、その真理を証ししなければならない ※ 自分が信じるものを証ししなさい 物質があるところに心もあるといわれた 心を尽くして証ししなければならない      

2021. 02. 14. イエス、伝道するために祈られる (マルコの福音書1:35~39)

イエス、伝道するために祈られる (マルコの福音書1:35~39) 神は 全能者でおられる その方が 力をこの世に現された イエス・キリストによって現された(使10:38) イエスは 神の御子でありながらも、父との関係のために 常に祈られた(ヨハネ11:40~42) 祈りは神との交わりである(ヨハネ14:20~21) イエスは聖霊の導きを受けていたときにも、 朝早く寂しい所に行って、 祈られた(マルコ1:35) そして、弟子たちに 「近くの別の村里に行こう、そこにも福音を知らせよう、 私はそのために出て来たのだから」といい、(マルコ1:38~39) ガリラヤ全地を回りながら伝道し、 悪霊を追い出された このような力がどこから出て来るのかと尋ねる弟子たちに 「祈りによらなければ、追い出せるものではない」といわれた(マルコ9:28~29) 祈りは物乞いをする道具ではなく、(マタイ6:5~8) 主の働きのために力を求めるものである ○イエスが苦しみもだえて切に祈られたときに、 天使がイエスを力づけた 天使もともに助ける祈りが信仰である ○信仰があるといいながら祈らなければ、 神が一方的に支配されない ただ祈りによって神とともにすることができる ○主の目的は伝道の働きである 伝道するときには力としるしが伴わなければならない 伝道、しるし、力はひとつである ※信じる者にはしるしが伴う 悪霊が追い出されるし、病人が癒される イエス・キリストは昨日も今日も同じである  

2021. 02. 07. イエスが病気を癒される (マルコの福音書1:29~34)

  イエスが病気を癒される (マルコの福音書1:29~34) 神は 救いという御心をもたれる その方が イエスをこの世に遣わされた イエスという名は自分の民を罪から救うという意味である(マタイ1:21) 罪からの救いとは宇宙、すなわちよみからの救いという意味である(マタイ16:18) よみの権勢は死である(使2:27) 罪の報酬、価は死である(ローマ6:23) 律法の力は罪であるし、罪のとげは死である(Ⅰコリント15:56) イエスの名はその方がなさることの答えである(ヨハネ14:13~14) それは死、悪魔、病気、呪いからの 完全な救いである(マルコ16:17~20) その救いは自由である(ヨハネ8:36) イエスがおられるところには多くの病人が集まってきた その方が病気を癒されるときに、悪霊は叫んで離れて行った(マルコ1:23~26) このような働きは当然なものであるが、 教会で病気が癒されるというと、人々は嘲笑う(マタイ12:22~28) 悪霊を追い出す働きを迫害し、罪に定める しかし、悪霊も自分が神の御子によって 追い出されるということを告白する(ルカ8:27~33) 聖霊の働きは力としるしである(使1:8) ○ 真理は権勢をもつ 誰でも真理によって自由を得なければならない 聖霊は真理の霊でおられる ○ イエスの名は救いである 霊魂、肉体、環境を新しくする、 天の栄光であり、救いである ○ 福音には力が伴わなければならない 救いは抽象的なものではなく、 現実的なものであるために、疑ってはいけない ※ 信仰をもって病人に手を置けば、その病人は癒される 御言葉によって悪霊をりつければ、悪霊は離れて行く 信仰の祈りには不可能がない

2021. 01. 31. 権威ある教え (マルコの福音書1:21~28)

権威ある教え (マルコの福音書1:21~28) 神は 自ら存在する霊でおられる その方が 天で堕落した天使をよみに閉じ込められた(Ⅱペテロ2:4) 裁きの時まで閉じ込められた(ユダ1:6) そして、罪によって悪魔のしもべとなった者を救うために 神の御子をこの世に遣わされた(エペソ2:1~5) 神の御子はインマヌエルとして現れ、(マタイ1:23) 聖霊に満たされて導きを受け、(マルコ1:12) 権威ある者のように人の前に立たれた(マルコ1:22) イエスの福音は 天から下って来た契約であるために、天の声であり、 神の御言葉である(ヨハネ1:1~4) 神の御言葉であるのならば、権威をもつし、権勢をもつ 御言葉を受けた者を神々と呼んだように、(ヨハネ10:35) 神の御言葉を受けた者は霊的な権威をもつ(Ⅰコリント2:13~16) それゆえ、 悪霊も隠れることができないで、自分の正体を現す(ヤコブ2:19) イエスが現れたときにも恐れた(マタイ8:28~29) 天にあるもの、地の上にあるもの、 地の下にあるもののすべてがイエスに服従する(ピリピ2:10~11) すべての人が イエスを権威ある者と考えた イエスの権勢と力が現れたためである(マルコ1:27) ○神の御言葉を受けた者は権威をもつ 神の権勢を受けたために、権威をもつ ○神の御言葉は霊的である それゆえ、悪霊だけではなく、試みる者すべてを取り除く ○教会には霊的な権威がなければならない 監督は権威ある新しい契約の権勢を預かった者である ※教会の権威を回復させるためには 監督の権威を回復させなければならない 監督の権威があるときに、うわさが立ち、教会がリバイバルする