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2023. 03. 12. 偽りのない祈り (マタイの福音書6:5~8)

偽りのない祈り (マタイの福音書6章5~8節) 神は まことでおられる その方が 私たちを愛されたのが真理である(ヨハネ14:6) 真理はまことであり、 イエス・キリストである 祈りは宗教的な儀式ではないために、偽ってはいけない 神が聞かれるようにしなければならない 神は霊でおられる(ヨハネ4:23~24) 祈る者は霊によってまことに祈らなければならない(Ⅰコリント14:12~14) 異邦人は誠意を尽くすが、 私たちの祈りは誠意を尽くすものではなく、 信仰をささげるものである(へブル11:6) 人々は祈るときに肉体の要求をもって祈る(マタイ6:31~33) しかし、肉によっては 神と交わることができない(Ⅰコリント2:10~11) 神は霊でおられるので、霊によって祈らなければならない 神は霊によって祈る者を受け入れられる(ヨハネ3:3) 肉体の問題のためには自然、太陽や雨が与えられた 正しい者にも悪い者にも与えられた(マタイ5:45) しかし、 神は生まれ変わった者、霊によって生まれた者だけを受け入れられる(ローマ8:26~28) ◎ 肉によって生まれたものは肉であるし、霊によって生まれたものは霊である 霊によって神に出て行くときに、神が聞かれる ◎ 霊魂によって祈りなさい 肉によって祈らないで、霊によって祈ろう 聖霊が私たちの弱さを助けてくださる ◎ 神の応答は霊魂に与えられる 肉体には与えられない これは肉体の法の下にいる者がもつ経験である ※ 聖霊によって祈ろう 霊魂が応答を受け、霊魂を通して肉体を守ろう イエスの名によってする祈りは霊によってする祈りである

2023. 03. 05. 悪魔の試みを受けられる (マタイの福音書4:1~11)

悪魔の試みを受けられる (マタイの福音書4章1~11節) 神は 完全無欠でおられる その方が 御子を通して自分を現された(ヨハネ12:47~50) 神の御子は父の御心に従って来られた(ヨハネ6:38~40) 神の御子はよみの権勢に勝利し、 永遠に生きておられる(マタイ28:18) よみである宇宙は悪魔の権勢の下にある(エペソ2:1~3) 悪魔は死の権勢をもつ者であり、律法を機会として働く 悪魔の働きは 「御言葉を離れ、パンによって生きなさい」という現実主義である(マタイ4:3) しかし、 イエスはこれに勝利して悪魔にだまされなかった 悪魔は優越感をもたせようと試みたが、(マタイ4:5~6) イエスはこの世の名誉や虚栄心にだまされなかった(ヨハネ8:44) 悪魔はよみの権勢や栄光をもって惑わしたが、 イエスは「国と力と栄光はただ父にある」と主張して、 試みる者を退けられた(マタイ12:29) 悪魔の武器はすべてこの世のものであるが、 イエス・キリストは天から受けた権勢をもって、 悪魔を裁かれる(ガラテヤ6:3~10) ◎ 聖霊はキリストの働きと御言葉を 証しする霊でおられる イエスを荒野に追いやる方でおられる ◎ イエスは自分の本分を知っていたために、勝利された イエスはただ父の御心をなすために来られた イエスは天に帰らなければならない方である ◎ イエスはこの世に何の望みも置かないで、天にだけ望みを置かれた よみがえって天に上られた 私たちはイエスの復活を信じなければならない ※ 悪魔の武器は肉体を惑わすことである しかし、私たちは肉体や情欲をバプテスマによって葬った 私たちの霊魂は主に従う  

2023. 02. 26. 義の従順でバプテスマを受けられる (マタイの福音書3:13~17)

義の従順でバプテスマを受けられる  (マタイの福音書3章13~17節) 神は 愛でおられる その方は 愛する者から喜びを得られる 愛と喜びはただ 神と御子に関係している(マタイ3:17) カインのささげ物は神に届かなかった 人間の誠意はその方を喜ばすことができない(へブル11:6) 人間の誠意は宗教的であり、人本主義である(ローマ8:6~8) しかし、 アベルのささげ物は神に受け入れられた これは永遠の前からおられる神の啓示を悟ったためであった(エペソ3:9) 神はただ御子によって喜ばれる 私たちの信仰は 神が啓示された通りに従うものである 神の愛が何であるのか、 神の喜びが何であるのかを悟らなければならない それ以外のものはすべて宗教であり、人の信念である 私たちは 神の愛を受けなければならないし、そのためには イエス・キリストの中に入って行かなければならない(ピリピ2:10~11) 私たちは 神を喜ばせる者とならなければならない これはただイエス・キリストによってなされる(ヨハネ10:9) ◎ モーセと律法と預言者の下にいるのであれば、 神の愛を受けることはできないし、神を喜ばせることもできない ◎ イエスの中にいてこそ、 神の愛を受けて神を喜ばせる者となる ◎ バプテスマを受けることによって イエス・キリストの中に入って行き、その方を喜ばせなければならない ※ 神が天から啓示された通りに 神の愛と喜びを知りなさい イエス・キリストと結びついてこそ、完全となる

2023. 02. 19. 王を迎えるために心を変えなさい (マタイの福音書3:1~12)

王を迎えるために心を変えなさい (マタイの福音書3章1~12節) 神は まことでおられる その方が 罪を犯した人類を救うために恵みを与えられたし、 まず「悔い改めなさい」といわれた(ゼカリヤ13:1~2) バプテスマのヨハネは悔い改めるためのバプテスマを施して、 「悔い改めなさい」と叫んだ(マタイ3:11) これは「神を正しく知りなさい」という意味であった(マタイ3:7~9) 律法に縛られて望みをもつことができなかった者に(ガラテヤ3:18~19) 「神に対する誤解を改めなさい」といったのである 悔い改めはただ「私は罪人です」と いえばいいものではない(ガラテヤ3:23~25) どうして罪人であるのかを悟らなければならない(詩51:1~5) 自分の良心に呵責を感じさせるものは汚れである 神に犯した罪は不信仰である(詩51:16~17) 神の戒めに対する不信仰であり、(ヨハネ12:47~50) 神の愛に対する不信仰である 神がしなさいといわれるのは私たちにいのちを与えるためであるし、(マタイ17:5) してはいけないといわれるのは私たちを守るためである(創2:16~17) バプテスマのヨハネは律法の下にいるユダヤ人に「悔い改めなさい」といった これは「律法によっては救いを得ることができないということを知りなさい」といったのである(ローマ5:20~21) ◎ バプテスマのヨハネは悔い改めなさいといったが、 これは「律法の下にいる者は罪人であるということを認めなさい、 私が与えるバプテスマは罪を加えるものである」という意味であった ◎ イエスは律法の下にいる者を救うために来られた 律法の下にいる者はすべて罪人である 義人はひとりもいない ◎ イエスは罪人の罪をすべて負って十字架で死ぬことによって 律法を完成されたし、 よみがえることによって死に勝利された(ガラテヤ3:27) ※ これが私たちの信仰であるし、私たちはその信仰をバプテスマによって証しする イエスは自分の名でバプテスマを授けることによって 律法、死の権勢から私たちを救われた

2023. 02. 12. ヨセフの義が負った責任 (マタイの福音書1:18~25)

ヨセフの義が負った責任 (マタイの福音書1章18~25節) 神は 誰も見ることができない その方は 霊でおられるし、霊によって臨み、霊によって語られた(ヨハネ6:63) 神の御言葉は霊である 私たちを探し求める方も霊でおられる(ヨハネ4:23~24) 私たちは目で見て信じるのではない(ヨハネ20:29) 霊によって信じて従う(Ⅰコリント12:1~3) ヨセフにキリストの受胎が伝えられた ヨセフはそれを信じて最後まで従った(マタイ1:23~25) このような決心はどんなにむずかしいものであっただろうか(マタイ1:19) ヨセフは疑いや不義に押し流されないで、 神の御心を信じて従った(創15:6) これが信仰である その信仰によって人の考えや常識を超越し、(ローマ8:5~7) 神の御心を最も大きなものと考える(マタイ26:39) 現実や感情によってはむずかしいが、 神の御心に従わなければならない(マタイ9:1~8) 神の御言葉は御子を現した(ヨハネ3:16) 御子は自分の血をもって語られた(ヨハネ6:53~55) 聖霊はこれを証しされる(ヨハネ16:13~14) ◎ 神の御言葉と人の考えを比べてはいけない 神の御心は人の理性と異なる それでも疑わないのが永遠のいのちを得る信仰である ◎ ヨセフのようにそれぞれが負わなければならない責任は 神の御心に対する信仰によって負う 人間の感情に合わなかったとしても、信じなければならない ◎ 信仰を助けるために保証として 聖霊が与えられた ただ聖霊によって信仰をもたなければならない ※ 信じる者はまず自分を十字架につけなければならない 自分にだけ命じられた働きであっても服従しなければならない 納得がいかないと考えないで、信じて従わなければならない

2023. 02. 05. 見ずに信じる者は幸いである (ヨハネの福音書20:24~29)

見ずに信じる者は幸いである (ヨハネの福音書20章24~29節) 神は 永遠に生きておられる その方が この世に御言葉を遣わされたのは 御言葉を聞いて信じるようにするためであった(ローマ10:17) 信仰は聞くことからはじまらなければならない(マタイ11:15) 見て信じるというのはふさわしくない(ヨハネ20:25) 神が求められる信仰によらなければ、(ヨハネ4:21) 誰も救いを受けることができない(ローマ10:13~15) 神を見た者はいないし、神を見ることもできない(ヨハネ1:18) 神は霊でおられる(ヨハネ4:24) それゆえ、 聞いて知るようにするために御言葉を遣わされた(黙2:7) イエス・キリストは御言葉でおられるし、その御言葉は真理である(ヨハネ1:1) イエス・キリストの人格と活動はすべて御言葉を現す この御言葉を離れ、目で見ることができない方を見ようとして、 さまようのであれば、それは迷信であり、神秘主義である(ルカ24:5) イエスは「見て信じようとしてはいけない、 ただ聞いて信じなさい」といわれた 神の御言葉が来て、見せて聞かせた 主が天に上られたのちには見ることも聞くこともできなくなったが、 聖霊が私たちの心の中に入って来て語られる(使5:32) ◎ 聖霊を受けて聖霊によって伝える者の言葉を信じる これを福音というし、真理という ◎ イエスがよみがえられたのを見た者の言葉を信じなかったために、 イエスはそれを責められた 福音を聞いて、神とイエスを信じる ◎ 現在、私たちが伝えるのは最も正常なことである 目で信じようとしないで、耳で聞いて信じなければならない 真理は見るものではなく、信じるものである ※ 私たちは主日に説教を通して御言葉を聞く それゆえ、「耳のある者は聞きなさい」といわれた 聖霊が語られる御言葉を聞かなければならない

2023. 01. 29. 体でよみがえられた主、体で愛した弟子たち (ヨハネの福音書20:1~10)

体でよみがえられた主、体で愛した弟子たち (ヨハネの福音書20章1~10節) 神は 自分が定めた御心をなされる その方は 神を知る者がこの世に存在する前に、 永遠の前から定められていた御心をなされた(Ⅱペテロ3:2) また、神を知る人類がこの世に存在するようになったのちには、 御心を予め語られた(Ⅱコリント2:7) 御言葉を語る前には何もなさらなかった(ヨハネ10:35) それゆえ、御言葉は私たちが信じることについての知識の初めである(箴1:7) どんなに大きなしるしや力を行ったとしても、聖書で予め 語られていないのであれば、私たちと何の関係もない(エペソ5:6~7) 救い主が来られる前に預言者が来て、(マラキ4:5~6) 主の道をまっすぐにするように預言をもって道を備えた(ヨハネ1:23) それゆえ、 来るべき方がその方であるのかを確認する方法は まず聖書に記録されているのかということであり、(ミカ5:2) 次に聖書と一致しているのかということである イエス・キリストは自ら来られたのではない 預言は 神が永遠の前に定められた御心を語った(詩16:10~11) イエスは聖書に記録された通りに死んだのちに生き返られた(ヨハネ20:9) ○ それゆえ、聖書を廃棄することはできない 御言葉を信じる者は神々と呼ばれる 信じる者は聖書から大きな霊感を得る ○ 死んだ者が生き返ったのは不思議なことではない 聖書が成就したということを知って驚かなければならない 神の御心は必ずなされる ○ 聖書を信じるのであれば、キリストのよみがえりを信じなければならない キリストのよみがえりを待って歓迎しなければならない イエスが律法と預言をすべて成就された ※ 正常な信仰はまず聖書に還る そして、信じるところが聖書と一致しているのかを見る 聖霊によって私たちの中で証しを受ける  

2023. 01. 22. 救いの死で預言を成就される (ヨハネの福音書19:31~37)

救いの死で預言を成就される (ヨハネの福音書19章31~37節) 神は 完全でおられる その方が 語られる御言葉は完全であり、すべてなされる(ヨハネ1:1~2) 神の御言葉は神の御心である(ヨハネ6:39)| その御心は必ずすべてなされる(へブル4:12~13) 神は誰も見ることができないし、(ヨハネ1:18) イエスも天に行くことによって見ることができなくなった(ヨハネ16:16~17) 聖霊も私たちの中に入って来られたが、見ることができない(ヨハネ14:16~17) しかし、父と御子がともにする御言葉は(ヨハネ1:1) 聖霊もともにするために、真理である(ヨハネ16:13) 真理は必ずすべてなされる 神は自分の御心を真理として語られるし、 御言葉によって来た方はそれをすべてなされた(ヨハネ19:30) 聖霊はこれを証しされる(ヨハネ16:14、15:26) 御言葉によって万有が造られたということを信じるのが私たちの信仰である 天地を創造するときもただ御言葉によって すべてがなされた(創2:1) 神の御言葉は天で定められ、 この地ですべてなされた(マタイ6:10) イエスは天に行かれたが、御言葉はこの世に残って、 聖霊によってすべてなされる(マタイ28:20、マルコ16:20) ○ イエスが十字架の上で「完了した」といって死なれたが、 それによって聖書が成就された ○ イエスが死なれたのちに、兵士たちはすねを折らなかった それによって聖書が成就された(出12:46) 神の御言葉はすべてなされる ○ 「神が語られた御言葉は御子によってなされたし、 聖霊によって続けてなされる」という信仰をもって生きる なされるのを信じることによって望みをもつ ※ それゆえ、神の御言葉の書によって 主がなさることと神の御心を確認し、 聖霊がなさることを信じなければならない

2023. 01. 15. 弟子たちが聖められるように願い求められる (ヨハネの福音書17:15~26)

弟子たちが聖められるように願い求められる (ヨハネの福音書17章15~26節) 神は 聖なるひとりの方でおられる その方が 御子をこの世に現されたが、(ヨハネ1:18) 御子は「父と私はひとつである」と主張された(ヨハネ10:30) 「父は私の中におられるし、私も父の中にいる」ということを 真理として伝えられた(ヨハネ14:10) 御子は父に遣わされて、この世に来られた(ヨハネ14:11~12) 父が命じられた御言葉だけを語られた(ヨハネ12:49) 父が命じられた働きだけをなさった 父が御子を愛されたように、(ヨハネ15:9) 御子もこの世を愛された このように父と御子は別々ではなく、ひとつである イエスが父を排除してひとりでいるということは絶対にない 父と御子がひとつであるというのが真理である 父が聖いように、御子も聖いし、 御子が聖いように、その中にいる者も聖い 御子も「真理によって聖めてください」といわれた(ヨハネ17:17~19) 父が御子をこの世に遣わされたということを知るのが 永遠のいのちである(ヨハネ6:38~40) 唯一の父の中ですべてがひとつとなる(ヨハネ17:11) ○ イエスが真理について語られた 父と御子がひとつであるというのが真理である それゆえ、「真理によって聖めてください」といわれた ○ 「私が父によって聖いように、 私の中にいる者も父と私の中にあって 同じように聖めてください」といわれた ○ 聖さは父のものである 御子が父に属して聖いように、 この世にいるイエスのものも聖い ※ このようなイエスの主張は真理である 真理を悟り、真理によって聖くなり、 御子が父の喜びであるように、真理によってひとつとならなければならない

2023. 01. 08. 従順で神の栄光を現わされるイエス (ヨハネの福音書17:1~8)

従順で神の栄光を現わされるイエス (ヨハネの福音書17章1~8節) 神は 父でおられる その方が 愛する御子をこの世に遣わされた(ヨハネ7:28) これはそれくらいこの世を愛されたためである(ヨハネ3:16) 父は御子を愛されるし、(マタイ17:5) 御子は父を愛される 父は神の御子によって救いを受けた者を 愛される(Ⅰヨハネ4:9) 御子のものを御子と同じように愛される(ヨハネ17:10) 私たちが永遠のいのちを得るためには 父と御子の関係を知って信じなければならない(ヨハネ17:3)| 父と御子の関係は愛である(Ⅰヨハネ4:8) それゆえ、父なる神と御子がひとつであるということを信じなければならない(ヨハネ10:30) 父を愛するといいながらも(ヨハネ5:23) 御子を敬わない者は父を愛さない者であるし、(マルコ7:11) 御子を愛するといいながらも 父を敬わない者は御子を愛さない者である 父の御心は御子の御心であるし、(ヨハネ6:39~40) 御子の御心は父の御心である 聖霊は父と御子の間から出て来られる(ヨハネ15:26) ○ イエスが「私は私を遣わした方の子である」といわれたのは 父と同じように御子を信じさせるためである 御子を信じるように父を信じなければならない ○ 聖霊は御子を証しするように父も証しされる 御子と父が等しいということを証しされる 聖霊の証しが真理である ○ この真理を信じるのが永遠のいのちである 父と御子を信じるように 聖霊を信じなければならない ※ 聖霊に逆らえば、三位一体に逆らう その罪が軽いということはできない この世でも次に来る世でも赦しを受けることができないために、聖霊に逆らうのは恐ろしいことである