2022. 05. 22. 何を信仰というのか (ヨハネの福音書3:11~15)

何を信仰というのか
(ヨハネの福音書3:11~15)

神は
まことでおられる
その方が
この世に現された御言葉はまことであり、真理である(ヨハネ14:6)
真理は人の知恵や常識をいうのではなく、
神だけが語ることができる御言葉をいう(ヨハネ8:45~47)
神を見た者はいない
どのようにして神を見て信じることができるであろうか
イエスだけが神を見たし、その方だけが知るのが御言葉である(ヨハネ3:13)
この地にある道理を使ってたとえをもって語ったとしても信じないのに、
どうして天の真理を信じることができるであろうか(ヨハネ3:12)
それゆえ、
信仰は見たり触ったりして知るものではない(ヨハネ20:29)
語られた方を認め、権威を認めてこそ、(マタイ16:16~17)
信仰という正解が出て来る
モーセが荒野で青銅の蛇を木の上につけたのが(民21:8~9)
どうして救いとなるであろうか
これはたとえである(へブル9:9~10)
これが「呪いを受けた罪が木で死んでこそ救いを得る」という
信仰となる(ガラテヤ5:24)
十字架でのイエスの死によって私たちの罪が死んだ
○ 根拠なしにただ自分の信念によって
「信じます」というのは迷信である
神が定められた御心通りになされるのが救いである
○ 神が天でなされた御心を、どのようにしてたとえをもって語ることができるであろうか
モーセを通して荒野でなされた御心を、どのようにしてたとえをもって語ることができるであろうか
信仰によってだけその真理を悟る
○ 私たちが救いを受ける信仰は
神が天で確定したことを土台とするものであり、
それを神がなさる働きとして信じるものである
※ 神がなさる働きを人の知恵によって知ろうとしてはいけない
神がなさる働きが真理である
私たちの霊魂はその真理によってだけ救いを得る

2022. 05. 15. 信仰は証しである (ヨハネの福音書2:23~25)

信仰は証しである
(ヨハネの福音書2:23~25)

神は
生きておられる
その方が
この世に御言葉を与えられたのは信仰を与えるためであった(へブル11:1~3)
信仰は人の信念ではなく、はっきりとした証しである(Ⅱコリント13:5)
イエスが現されたしるしによって、その名が広まった
その名を知る者は多かった(マルコ1:28)
しかし、
救いに至る信仰は
うわさによってはもつことができない
その名を信じて迎え入れた者だけが救いを得る(ヨハネ1:12)
信仰の証しとは
イエスを自分の主人として迎え入れることである(ヨハネ6:68)
しかし、
イエスには自分を預ける者がいなかった
人々には自分を迎え入れる信仰がないということを主は知っておられた(へブル11:6)
信仰がない者が「主よ、主よ」というのは(マタイ6:5)
迷信を信じる者が唱える呪文のようなものである(マタイ6:7)
信仰がない者は主を喜ばせることができない
ただイエスの名にひざまずいて従わなければならない(ピリピ2:10~11)
このような人に証しがある
神は印を押して、保証として
聖霊を心に与えられた(Ⅱコリント1:20~22)
○ 聖霊は私たちが
神の子であるということを証しされる
○ 神が求められる証しは信仰告白である
信仰告白がない者からは何の証しも受けられない
○ イエスの名をうわさによって聞いて知るのではなく、
完全に心を開いて迎え入れなさい
自分の心に主がおられるということを試して確証しなさい
※ 神がこの世に御言葉を与えられたのは
御言葉に従って自分の信仰を確証させるためであった
キリストが自分の主人でおられるということを証ししなければならない

2022. 05. 08. 完全な信仰 (ヨハネの福音書2:1~11)

完全な信仰
(ヨハネの福音書2:1~11)

神は
良い方でおられる
その方が
この世に恵みを施された
神の良さ、喜び、完全さによって(ローマ12:1~2)
救いを得させた(ローマ10:13~15)
イエスはアブラハムとダビデの子孫であり、
ナザレ人であり、母に仕えた(ヨハネ2:1)
イエスは良い働きの第一歩をカナの婚礼で
母の要請によって現された(ヨハネ2:3~5)
その方は自分がこの世に来た御心をなす前に、
一般的なしるしを現すことによって自分を現された
まだ自分の時ではなかったが、(ヨハネ2:4、17:1)
母のために、また、ともにいた弟子たちのために現された
弟子たちは主が現されたしるしを見て、その方を信じた(ヨハネ2:11)
しかし、
しるしを見て信じる信仰は初歩的なものである
それゆえ、成長した信仰に至らなければならない(へブル5:12~14)
成長した信仰は御言葉を聞いて信じる信仰である
信仰は聞くことからはじまり、聞くことは
神の口から出て来た御言葉による(ローマ10:17)
○ しるしを見て信じる信仰には祝福がない
見ないで聞くことによって信じる信仰に祝福がある
主イエスの御言葉を信じなければならない
○ 主イエスの御言葉は聖霊によって証しを受ける
聖霊は真理の霊でおられる
真理は私たちの霊魂を生かす信仰となる
○ イエスが来られたのは霊魂を救うためであった
一般的なしるしは霊魂の救いのためのものではない
かたくなな者のための良い働きである
※ 神は罪人が救いを受け、神に出て来ることを喜ばれる
これがその方が受けられる栄光である
イエスの血の恵みを肉体のために使わないで、霊魂のために使おう

2022. 05. 01. 神の御子を信じなさい (ヨハネの福音書1:43~51)

神の御子を信じなさい
(ヨハネの福音書1:43~51)

神は
三位一体でおられる
その方が
愛する御子をこの世に遣わされた(ヨハネ3:16)
これはこの世に御子を信じさせ、救いを得させるためであった
御子を信じる者はその方が
神の御子、キリストでおられるということを信じなければならない(ヨハネ17:3)
この世の人々は
イエスをナザレ人、大工の息子と知る(マタイ13:55)
その方は確かにアブラハムとダビデの子孫でおられるが、(マタイ1:1~16)
人々はその方を人の子孫と知るために、
救いに至ることができない(マルコ3:21)
救いは
神から与えられた信仰によってなされる(マタイ16:16~17)
神から与えられた信仰は
イエスがキリストでおられるということを信じるものである(ヨハネ17:8)
「メシヤ」とは
へブル人が待ち望んだ、へブル人の救い主という意味である
「キリスト」とは
全人類が待ち望んだ、人類の贖い主という意味である(ヨハネ4:25)
いちじくの木はイスラエルの国樹であるが、
その下にいるというのは律法の預言の下にいるという意味である(ヨハネ1:50)
○ 人の常識や知恵によって信じようとしないで、
主イエスの御言葉を信じ、
自分が罪人であるということを悟りなさい
○ イエスは人類の霊魂を救うために来た、
キリストでおられる
これは神から遣わされた者という意味である
○ 救いは
神から出て来るし、恵みによって受ける
※ イエスは私たちの霊魂を罪から救われる
復活を味わわせ、永遠のいのちを得させる
イエスが神の御子でおられるということを信じなければならない

2022. 04. 24. イエスの名を信じなさい (ヨハネの福音書 1:1~13)

イエスの名を信じなさい
(ヨハネの福音書1:1~13)

神は
永遠の前からおられる
その方の
御言葉も永遠の前から
神とともにあったために、
神でおられる(ヨハネ1:1)
万物は御言葉によって造られた(へブル11:3)
その御言葉はいのちである(ヨハネ6:63)
いのちはこの世の光である(ヨハネ8:12)
その光の名はイエスであり、
この世を死から救う名である(マタイ1:21)
それゆえ、
イエスの名を信じて心に迎え入れれば、(ヨハネ1:12)
神の子となる権勢が与えられる(ローマ8:16~17)
その人は血や人の欲によって生まれたのではなく、
神の御心によって生まれたのである(ヨハネ6:38~40)
神はその人に印を押し、保証として
心に聖霊を与えられる(Ⅱコリント1:21~22)
聖霊は助け主でおられるし、助け主はキリストの霊である(ヨハネ14:16)
キリストは主の職分であり、死と復活と裁きである(ヨハネ10:17~18)
聖霊はその功労に従って働かれる(ヨハネ15:26)
○ 神を信じる者はその御子も信じる
その方は御言葉として現れた
御言葉は神の御心である
○ 神の御言葉の名はイエスである
その名を迎え入れるというのは
神の御心を心に迎え入れるということである
○ 御言葉はいのちの光であり、
霊魂、関節、骨髄まで照らす
その光は栄光であり、癒しの光である
※ 私たちが信じるのはその名である
その名は神が天でなされた御心そのものである
信仰をもつというのは救いを受けるということである

2022. 04. 17. 信じる者にしるしが伴う (マルコの福音書16:17~20)

信じる者にしるしが伴う
(マルコの福音書16:17~20)

神は
生きておられる
その方が
自分が生きているということをさまざまな方法によって知らせた(へブル1:1)
神は全能な方でおられるし、陶器を作る者のようである(ローマ9:21)
この世を創造し、(創1:1)
人を生きた霊とされた(創2:7)
箱舟によって8人を救い、(Ⅰペテロ3:20)
モーセを通してイスラエルを出エジプトさせ、(出7:1~2)
ヨシュアを通して戦争に勝利させ、(ヨシュア1:1~6)
エリヤを通して雨を止ませ、
3年6ヶ月ぶりに雨を降らせた(Ⅰ列18:41~46)
そして、直接、ユダヤの地に生まれ、(マタイ2:1~2)
神とその国を見せ、(ヨハネ14:8~11)
死んだのちによみがえり、(使2:31~32)
聖霊を遣わして、自分が生きているということを証しし、(使1:8)
信じる者に証しのしるしを与えられた
それゆえ、
信じる者にはしるしが伴う(マルコ16:17)
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた
主は彼らとともに働き、
御言葉に伴うしるしをもって
御言葉を確かなものとされた(マルコ16:19~20)
○ 軍人が銃によって武装するように、
信じる者には力としるしが伴う
○ 神の国は言葉ではなく、
力によって語られなければならない
○ 神の国が私たちに臨んだのであれば、
悪霊は当然に離れて行く
力がないというのは誇ることではなく、悲しむことである
※ 聖霊を受けよう
そして、力を受けよう
聖霊の現れが与えられるのは益となるためである

2022. 04. 10. 天国の福音を信じなさい (マルコの福音書16:12~16)

天国の福音を信じなさい
(マルコの福音書16:12~16)

神は
常に生きておられる
その方がこの世のために力を遣わし、
さまざまな力によって自分を現し、(マタイ9:1~8)
関心を示された(ヨハネ3:16)
神の中におられる方は御言葉である(ヨハネ1:1~5)
御言葉は完全な人格、知恵、力である(Ⅰヨハネ1:1~4)
イエス・キリストは力によって天を現し、御心を現された(マルコ9:1)
イエスはその方の御名であり、(マタイ6:9、ピリピ2:10~11)
神の御座の栄光であり、永遠のいのちである
キリストは職分であり、委任された権限である(ヨハネ1:20)
キリストは人として現れ、(マタイ11:2~6)
苦難を受け、力としるしを現された
キリストは十字架で死ぬ権勢、死んだ者の中からよみがえる権勢、
最後に裁く権勢をもつ(マタイ28:18)
万王の王のような職分である(Ⅰテモテ6:15)
神は創造した万有をイエス・キリストの手に預けられた(へブル1:2)
イエス・キリストは神の血によって買い取られた者を救われる
苦難を受けたのちに、その名はパラダイスに行った(ルカ23:43)
キリストは血を流して墓に納められた(ルカ23:50~56)
そののちには助け主の聖霊がキリストの働きをなさる
○ 聖霊がなさる働きはキリストの働きである
キリストは聖霊によってよみがえり、現れ、
この世の終わりまでともにされる
○ 助け主とキリストはひとつである
よみがえったのちには御言葉が働く
助け主、キリストには完全な力がある
○ よみがえった真理がこの世に現れたが、
弟子たちは信じなかった
神はそれを責められた
※ キリストの死はユダの地で起こったが、
復活はこの世の果てまで起こる
どこであってもその方に会えば、バプテスマを受ける

2022. 04. 03. イエスの体 (マルコの福音書15:42~47)

イエスの体
(マルコの福音書15:42~47)

神は
永遠に生きておられる
その方が
ふところにおられた御子をこの世に遣わして、
人類が受ける刑罰を代わりに受けさせた(ローマ6:8~10)
それゆえ、御子は十字架で
血を流して死なれた(ローマ6:11~13)
その方が死なれたのちに、
弟子のひとりであるヨセフがピラトに
イエスの体の下げ渡しを願った
その体は死体ではなく、「ソマ」であった
それは王の死んだ体という意味であり、生きている者のように呼ばれた(マタイ27:57~61)
ヨセフはピラトの許しを受け、イエスの体を亜麻布に包み、
自分の墓に納めた
主は死なれたが、ヨセフは生きている者のように迎え入れた
これは偉大な福音であった
神の御子は死なれたが、その名は生きていて、(マタイ28:6~7)
私たちの霊魂に迎え入れられている
イエスはよみがられた
これは真理である(ヨハネ20:19~20)
これと同じように、聖霊が私たちを生かす
○ 人間の霊魂は墓である
死が支配している墓に誰を迎え入れるのか
イエスの名は死体ではなく、体である
○ その方は十字架で死なれたが、生き返られた
その名は生きているし、御言葉は生きている
イエスの体を十字架につけておかないで、迎え入れよう
○ 聖霊によって迎え入れ、信仰によって迎え入れよう
死んだ者ではなく、生きているいのちを迎え入れよう
その方は私たちの中でよみがえられる
※ まことの聖徒は主を迎え入れる
死体ではなく、体を迎え入れる
その方は永遠に生きておられる

2022. 03. 27. 裂けた神殿の幕 (マルコの福音書15:33~41)

裂けた神殿の幕
(マルコの福音書15:33~41)

神は
聖なる方でおられる
その方が
宇宙万物を造って大空に置かれた(創1:7)
天(霊界)とは異なり、大空には何もなかった(創1:2)
神の天と被造物の空間の間には
上の水という限界がある
その限界を超越して天(霊界)に入って行く者は誰もいない
人類が堕落したのちに
血なしには入って行くことができないところを至聖所と呼んだ(へブル9:1~3)
至聖所と聖所の間には幕があった
至聖所には一年に一回、大祭司だけが入って行った
それと同じように、イエスによって幕が開けられ、
神の聖所と人がとどまる聖所がひとつとなった(エペソ4:6~10)
それゆえ、
神がこの世に入って来られるし、(ヨハネ15:26)
救いを受けた人類が天(霊界)に入って行く(ヨハネ14:1~3)
これが「あなたがたが私の中に、私があなたがたの中に」ということである(ヨハネ14:20)
ふさいでいた壁に穴を開けるためにイエスが十字架で血を流された
神殿の幕はイエスの肉体である
これによってイエスは天に入って行かれたし、(へブル10:19~22)
聖霊は天から下りて来られた(ヨハネ16:7~14)
○ 至聖所と聖所の間にある幕は私たちの罪である
しかし、イエスが罪を贖われた瞬間、幕は裂けた
○ イエスは血によって買い取られた聖徒の代わりに天に入って行かれた
聖霊は天の代わりに私たちの中に入って来られた
ゴルゴタの丘でなされたことは真理であった
○ 聖霊が私たちの心に入って来られたのは
私たちの救い主が天におられるということを意味する
これによって神と私たちはひとつとなった
※ 私たちは宗教と哲学をもって生きる者ではなく、
イエスの血、福音、
聖霊を頼る信仰人である

2022. 03. 06. イエスは何も答えられなかった (マルコの福音書15:1~15)

イエスは何も答えられなかった
(マルコの福音書15:1~15)

神は
自存者でおられる
その方の
義は永遠である(Ⅰヨハネ2:1)
天下にその方を判断することができる者は誰もいない
しかし、人間は神を恨んで判断する
それゆえ、
神の御前では義人がいないし、聖なる者もいない
イエスが義人であり、判断する方でおられる(ローマ11:33)
判断する主を、この世が判断する
長老や祭司長は宗教的に判断したし、(マタイ27:22~23)
ローマやピラトは道徳的に判断した
宗教人は主を金で買って罪に定めたし、
道徳的な者は群集心理を利用して罪に定めた(マルコ15:15)
これに対して
イエスは何も答えられなかったが、これはすでに判断されたのである(詩94:2)
この世では義人が裁きを受ける
イエスを十字架につけたのは
十字架が呪いの木であり、忘れさせる道具であったためである
それによって
イエスを永遠に忘れさせようとしたのである
○ 主を罪に定め、十字架によって永遠に忘れさせようとしたが、
神がその方を生かして思い出させた
聖霊はその方を証しされる
○ イエスの人はイエスの血によっていのちを得たが、
聖霊による証しを受けなければ、証人になることはできない
何も答えられなかった主のために私たちが口を開かなければならない
○ 主イエスを認める者が救いを得る
それゆえ、その名によってバプテスマを受ける
バプテスマを受ける者はイエスと結びつき、義とされる
※ 主は自分の弁明を聖徒に預けられた
この世で虐待を受ける義を誰が弁護するのか
その方の義を受け、その方の証人とならなければならない