2022. 02. 27. イエスを否認してはいけない(マルコの福音書14:66~72)

イエスを否認してはいけない
(マルコの福音書14:66~72)

神は
アルファであり、オメガでおられる
その方は
アブラハム、イサク、ヤコブが生きているときだけではなく、
その霊魂まで守られる(マルコ12:26)
聖徒の肉体が生きているときだけではなく、
聖徒の肉体が死んだのちにも復活と永遠のいのちのために
霊魂を守られる(ヨハネ11:25~26)
神は最初であり、最後でおられるし、初めであり、終わりでおられる(黙22:13)
私たちの信仰は
この世から復活に至るまで約束を受けた信仰である(Ⅰコリント15:12~19)
私たちはこの地でまいて天で収穫するということを信じるし、
肉体をもってまき、霊魂をもって受けるという永遠な契約を信じる(使7:55~60)
主を否認する者は
のちの世の望みをもたない者である(マタイ10:32~33)
私たちが眠っていたときに、主は苦難を受けられた
私たちが病気にかかっていたときに、主はむち打たれた(Ⅰペテロ2:24)
私たちが満腹であったときに、主は空腹でおられた(マタイ25:41~46)
主がこの世を離れたとしても、その義は私たちとともにする
恵みの御言葉が常に私たちの中にある(ヨハネ6:68)
聖霊が私たちを助け、望みを保証してくださる(ヨハネ14:16~17)
○ 主イエスを否認してはいけない
迫害が恐ろしくて恥ずかしかったとしても、主を否認してはいけない
肉体が滅んだとしても、主を否認してはいけない
○ 神と結んだ永遠な関係を断ち切ってはいけない
この世が主を無視したとしても、否認してはいけない
永遠に主イエスとともに歩もう
○ そのように考えるだけではなく、まことにそのようにしよう
私たちが信じる肉体は衰えていくが、
私たちの霊魂は日々、新たにされなければならない
※ イエスを否認しないで、殉教しよう
殉教者が受ける第一の復活の栄光を慕い求めよう
信じる者がもつ望みをしっかりとつかんで、殉教するために出て行こう

2022. 02. 20. イエスに対して偽証する (マルコの福音書14:53~65)

イエスに対して偽証する
(マルコの福音書14:53~65)

神は
まことでおられる
その方は
義を御座の基とされた(詩89:13~14)
それゆえ、万有はその前で裁きを受ける(へブル10:30~31)
神は唯一の霊でおられる(ヨハネ4:24)
天はその方の本体であり、御座である(へブル1:3)
万有を造った方は白い御座に着かれる
神のほかに神は存在しない(ヨハネ17:3)
万有は白い御座の前で裁きを受ける(黙20:11~14)
誰が罪人であろうか?
イエスをひざまずかせた者であろうか
彼らの前でひざまずいて嘲笑を受けられた方、
柔和なイエスであろうか
イエスを罪に定めた議会が聖いであろうか
白い御座に着く方が聖いであろうか(黙4:2~8)
義と不義は光と暗やみのようにはっきりと区別される
イエスは人類の罪を負われた(Ⅰペテロ2:4)
イエスを否定して信じない者は罪人である(ヨハネ3:17~18)
イエスを迫害して嘲笑する者は呪いを受けた者である
イエスによって義と不義が区別される(ローマ3:4)
○ イエスが罪のない義人でおられるということを証しするのは
イエスを死んだ者の中から生き返らせた、
父なる神でおられる
○ イエスは教会のかしらでおられるし、教会はその方の体である
それゆえ、教会は聖くなければならない
迫害を受けたとしても義によって受けなければならない
○ イエスの名のために迫害を受けるのは
恥ずかしいことではなく、義の冠である
恵みを受けた者は迫害をともに受ける
※ イエスの名にひざまずこう
その名を受け、その名によってイエスに栄光をささげよう
主は私たちの救い主でおられる

2022. 02. 13. イエスを捨ててはいけない (マルコの福音書14:43~52)

イエスを捨ててはいけない
(マルコの福音書14:43~52)

神は
公義でおられる
その方は
自存者でおられるし、最初であり、最後でおられる(黙21:6~7)
それゆえ、神には隠れるところも
逃げるところもない
神は自分を否定することができない唯一の方でおられる
それゆえ、
自分が語ったことのために自分を指して誓う、(へブル6:13)
完全無欠な方でおられる
イエスは父の本体のまことのかたちでおられる(Ⅱコリント4:4)
神と人間が別れるのは人間が離れてしまうためである(創3:9~13)
人間はどんなに弱くて忌まわしいであろうか
それゆえ、神は信仰という真理を知らせた(ヨハネ8:32)
「主よ。私から離れないでください」というのは矛盾である
人間が自ら離れるのであって、
神は常にその場におられる(ヨハネ14:16)
その場とは天であるし、天とは本体、御座である(詩89:13~14)
「甘ければ、口に入れるし、苦ければ、吐き出す」というのは人間の属性である
神を恨むのは自分が堕落したためである
聖霊は私たちとともにおられるし、御言葉も御名もともにおられる(ヨハネ1:12)
○ イスカリオテ・ユダは悪魔であり、その手先であった
他の弟子たちは背いた者であり、愚かな者であった
イエスを捨てて離れれば、悪魔と死が歓迎する
○ 死ぬときに主のふところの中で死んでこそ、救いを受ける
聖霊はその人を永遠に守られる
恐れと卑屈は悪魔の属性である
○ 若いときにも、大人になっても、年老いても、主の中で生きるために
イエスの中にとどまっていなさい
悪魔は離間者であり、私たちが主人を捨てるように離間する
※ 離れてはいけないし、試みに陥ってはいけない
神は永遠にその場におられる
心や考えにおいても堕落してはいけないし、(松竹岩ソンチュグァム)のようでなければならない

2022. 02. 06. 目を覚まして祈りなさい (マルコの福音書14:32~42)

目を覚まして祈りなさい
(マルコの福音書14:32~42)

神は
常に耳を傾けておられる
その方が
この世を造って、この世と交わろうとされる(イザヤ62:6~7)
神は霊でおられるし、この世は物質、すなわち肉体である
神の霊と肉体が交わる道はただひとつ、(マタイ6:33)
祈りである
祈りは神が知恵をもって定められたものである
神を知るのが知恵の初めである(箴1:7)
神の民と神の子が祈れば、(Ⅱ歴6:18~21)
神は常に耳を傾けて聞かれる(Ⅱ歴6:24~27)
祈りが神に受け入れられないのは
試みに陥ったためである(マタイ26:41)
それゆえ、試みに陥らないように目を覚まして祈らなければならない
試みは試みる者である悪魔によって支配されることである(ルカ22:31)
悪魔の惑わしに陥らないで、祈らなければならない
神は常に聞いて、応答を与えられる(Ⅰヨハネ5:14~15)
聖霊も祈って、とりなされる
天使も祈る者を力によって助ける(黙8:3~4)
聖霊によって祈る者が自分の霊魂を守る(ローマ8:26~27)
○ ゲッセマネでのイエスの祈りによって
神の御心がなされた
イエスはこの世の考えに勝利された
○ イエスが切に祈られたときに、汗が血のしずくのように地に落ちた
このとき、天使も主の祈りを助けた
目を覚まして祈ることによってだけ、自分の信仰を守ることができる
○ 応答を受けるときまで続けて祈らなければならない
落胆しなければ、祈りが届く
自分の要求通りになされなかったとしても、応答は受けた
神の御心通りになされた
※ 祈りによって生活しなければならない
試みに陥らないように教会も家庭も祈ろう、祈ろう!

2022. 01. 30. イエスの御言葉を聞きなさい (マルコの福音書14:27~31)

イエスの御言葉を聞きなさい
(マルコの福音書14:27~31)

神は
唯一の父でおられる
その方が
天(霊界)と宇宙の中に霊と物質を創造された
その方はそれらの上にいる方であり、
唯一の神でおられる
それゆえ、その方は語った御言葉を変えることなく、
すべて成就する、絶対不変な神でおられる(民23:19~20)
神の御言葉は天地万物にとって抑圧ではなく、
豊かに与えようとする約束である(詩105:5~6)
神が偽りを言うのではないか、約束を破るのではないか
と疑うのはサタン的である
サタンの属性は神を疑うことである(マタイ4:7)
神が私たちの中におられ、私たちがその中にいるのであれば、
私たちもその方のように永遠であり、完全である(ローマ12:1~2)
イエス・キリストを、神から遣わされた神の御子と(ヨハネ20:30~31)
知るのであれば、その方との交わりをもつし、
その信仰が変わることはない
そうすれば、神も私たちを信頼して、ともにされる(マタイ28:20)
神と私たちの関係は信仰と信頼である
聖霊はこの永遠な関係を保存するために来られた(ヨハネ14:15~17)
○ 人間は一晩のうちに何回も変わってしまう
神との関係が試みにあう
私たちが受けた力とは信仰と信頼の証しである(マルコ16:20)
○ 人にとって誓うというのはだまされるということである
どのような誓いも信頼することができない
神を信じなさい、永遠に信じなければならない
○ 神を失望させないためには
人の信念よりも霊と真理によって仕えなければならない(ヨハネ4:23~24)
聖霊によってだけそのようにすることができる
※ 聖霊によって生まれ変わる前にはどの肉体も信頼することができない(ヨハネ3:3)
徹底的に悔い改め、
聖霊の力を受けて信仰生活をしよう

2022. 01. 23. イエスの晩餐 (マルコの福音書14:22~26)

イエスの晩餐
(マルコの福音書14:22~26)

神は
永遠でおられる
その方が
イエス・キリストをこの世に与えられた(ヨハネ17:3)
イエスがこの世に来られたのは仕えられるためではなく、
むしろ命を与えて仕えるためであった(マタイ20:28)
それは永遠の前から定められていたが、(エペソ1:9)
ついに御言葉が肉体となって現れた(ヨハネ1:14)
預言者の口を通して伝えられたその契約の御言葉が(ルカ1:70~75)
ついにインマヌエルとしてこの世に現れた(マタイ1:23)
その方は30年間、この世を体験された(ルカ3:23)
そして、公生涯をもつ間に続けて語った通りに
十字架につけられて死なれた(マタイ16:21)
このときまで
この世に存在するものはすべてその方のために備えられていた(詩100:3)
それゆえ、主が食べたり飲んだり乗ったりしたものはすべて
このとき、別れを迎えた
主は愛する弟子たちと晩餐をもちながら、
「ぶどうの実で造られた物を飲むことはない」といわれた(マルコ14:25)
ただ天で新しいものを飲むと預言された
これは聖霊によってよみがえるという意味であった
○ イエスには霊的な食物があった
これはなすべき戒めとして与えられた、
神の御心であった(ヨハネ4:34)
○ イエスは聖霊によってよみがえり、永遠な息を吹きかけ、(ヨハネ20:21~22)
弟子たちにも同じ霊的な食物を勧め、
「聖霊を受けなさい」といわれた
○ 聖霊充満とはこの地の食物ではなく、
永遠な食物として、永遠のいのちのために
神の御心をなすことである(ヨハネ7:37~39)
※ 晩餐は夜の食事である
主はこの世の食事を終え、暗い夜が過ぎた早朝に聖霊によってよみがえられた
私たちも主とともにしよう

2022. 01. 16. 生まれなかったほうがよかった者 (マルコの福音書14:10~21)

生まれなかったほうがよかった者
(マルコの福音書14:10~21)

神は
私たちの父でおられる
その方が
この地の上に人を造られた(創1:26~27)
自分のかたちとして造り、「生めよ、増えよ、地を満たせ」といって
祝福を与えられた(創1:28)
これは
将来、人の子を遣わして悪魔の働きを滅ぼすためであった(Ⅰヨハネ3:8)
また、人の子を愛する者を、人の子を通して(ヨハネ6:37~39)
天に連れて行き、人の子とともに
相続者の栄光を受けさせるためであった(ローマ8:16~17)
そして、
まず御言葉が来たが、裏切られた(創2:16~17)
神の約束が与えられたが、それさえも排斥された(使7:53)
御言葉が肉体となって来られたが、十字架で殺された(ルカ23:21)
十字架はこの世の呪いの中で第一である(ガラテヤ3:13)
このとき、天と地の間で最も大きな罪を犯した者が生まれた
その人はむしろ生まれなかったほうがよかった者、
呪いを受けた者であり、(マルコ14:21)
イエスのそばにいながらもへつらう者であった
その人が神を売ったイスカリオテ・ユダであった(マルコ14:10~11)
○ 神を売るのは罪の中で最も大きな罪悪である
最も大きな罪悪とは永遠に赦しを受けることができない罪である
すべての罪は悔い改めることができるが、この罪は悔い改めることができない
○ すべての罪は主に犯したものであるが、
信仰をもって悔い改め、赦しを受けた
しかし、神を売る罪は悔い改めることができないし、いけにえも残されていない
○ 私たちが受けた最も大きな恵みは悔い改めの機会である
悔い改めなしには真理が入って来ないし、
バプテスマを受けたとしても聖霊が入って来られない
※ 悪魔から指令を受ければ、自分の信念となる
敵がいない者は中立を守る者であり、宗教人となってしまう
信じない者とともにしてはいけないし、不法と妥協してはいけない

2022. 01. 09. 主をまことに愛しなさい (マルコの福音書14:1~9)

主をまことに愛しなさい
(マルコの福音書14:1~9)

神は
愛でおられる
その方が
この世を愛されたのはこの世から愛を受けるのを
願われたためである
私たちの信仰の基本は愛である(Ⅰヨハネ4:8)
神を愛し、また、神から愛を受ける(ヨハネ14:23)
神はまず私たちを愛された(ヨハネ15:16)
ひとり子を差し出された(ヨハネ14:24)
それゆえ、私たちはその愛を知り、信じ、愛し、
イエスを心に迎え入れる(ヨハネ14:15~17)
宗教は自分の徳を積む
ただ自分のために徳を積む(マルコ10:17~21)
キリスト教の信仰は自分の義を捨てて葬り、
神だけを愛する(マタイ16:24)
ある女が高価な油の入ったつぼをもってきて、
その油をイエスの頭に注いだ
それをねたんだ者はその女を迫害した
貧しい者に施すことと
神に仕えることを混同していたためである
聖霊の人の信仰は愛である(ガラテヤ5:22~23)
○ キリスト教会の信仰は博愛主義ではなく、
神本主義である
貧しい者を助けるのは信仰ではなく、行いである
○ イエスを愛することと人を愛することは別個である
隣人を愛する者は称賛を受けるし、
イエスを愛する者は救いを受ける
○ 主イエスは命を捨てて父を愛し、父に従われた
それによって私たちは救いを得た
主を愛するというのはその方を待ち望むということである
※ 神のものによってその方をまず愛しなさい
そして、自分のものを貧しい者のために使いなさい
神に対する信仰と救済を混同してはいけない

2022. 01. 02. 目を覚ましていなさい (マルコの福音書13:24~37)

目を覚ましていなさい
(マルコの福音書13:24~37)

神は
働く方でおられる
その方が
この世で自分の働きをし、
その働きをしもべに預けられた(マタイ24:44~51)
私たちの主人は目に見えない霊でおられる(ヨハネ4:24)
その方がその働きを、目に見える世を見ることができる者に預けられた(創2:7~15)
それゆえ、
主のしもべは主人の真理に従って霊をもって仕えなければならない
この世は目に見える肉体を扱い、目に見えるものをもって仕える(マタイ6:19~24)
目に見えない方と目に見える者の間を(ヨハネ1:18)
イエスがとりなされた(Ⅰテモテ2:5~6)
イエスはインマヌエルとして来た人であり、
神の御子でおられる(マタイ1:23)
神と人が調和をなして協力するのは
神の御心をなすためである(へブル9:5)
今、私たちは預けられた働きをする
神はイエスが突然、来られるときに私たちが忠実であることを願われる(Ⅰコリント4:1)
しかし、
それがいつ、どのようなときであるのかは誰も知らない(使1:7)
それが父なる神の権限に置かれているためである(マタイ24:36)
○ いつ、どのようなときであるのかというのは宇宙の中にだけ存在する秩序である
神は時空間を超越して、御心通りに働かれる
神に権限があるし、その方だけが知っておられる
○ キリスト教会の信仰はいつ、どのようなときであるのかについて預言しない
神がなさる働きを信じて従う
いつ、どのようなときであるのかについて語るのは偽預言者の属性である
○ 私たちの心には
聖霊がおられるので、その方の霊感を受けて従おう
聖霊の働きにはいつ、どのようなときであるのかということが定められていない
※ それゆえ、「いつも目を覚ましていなさい」といった
これは神を信じて待ちなさいということである(黙22:20~21)
機会を生かして、預けられた信仰生活を忠実にしよう