復活の新しい朝
(ルカの福音書 24:1~6)
神は
新しいいのちの父でおられる
その方が
この世のために新しいいのちを与えられたが、すなわち
イエス・キリストでおられる(ヨハネ14:6)
死んだ者にはいのちがないが、
人類には新しいいのちが与えられた(ヨハネ17:3)
これが私たちの信仰である(ヨハネ20:30~31)
私たちは信仰によって新しいいのちを得たが、
これを
神が認められ、
聖霊が印を押された(Ⅱコリント1:21~22)
私たちは
イエス・キリストが再び生き返られたということを信じる
その方の新しいいのちが私たちの信仰にある(Ⅰコリント1:18)
このときから
人間は運命通りに生きるのではなく、
神の賜物である新しいいのちによって生きる
一瞬でも復活の力を忘れるのであれば、
その人は不信者である(ルカ24:6)
不信者には新しいいのちがない
◎新年は新しいいのちによって生き、
新しいいのちの中から出て来る祝福によって
祝福を受けなければならない
◎神はこの世に
イエスを遣わされた
イエスは新しいいのちでおられる
◎私たちが信仰によって
聖霊を頼るのは
新しいいのちが働くためである
※新年は新しいいのちによってはじめよう
神とともに新しいいのちによって生き、
イエスとともに永遠になろう
復活の新しい朝 (ルカの福音書 24:1~6)
私たちは父なる神から新しいいのちを受けた
神は新しいいのちの父でおられます。私たちは神を目で見たことがありません。しかし、神から新しいいのちを受けました。そのいのちが私たちの中にあるということを聖霊が証しされます。私たちは聖霊を受けましたし、また、それによって力が私たちの肉体に現れるのを体験しています。神が遣わしてくださったいのちが私たちの中に入って来て働いているのです。
この世の多くの人が運命を頼ります。ある人は生まれた日時によってその人の運命が決まると信じたりもします。私たちもイエスを知らなかったときにはそのようなものを頼りました。しかし、私たちはイエスの中に入って来たのちに運命を完全に葬りました。私たちはそれ以上、運命の奴隷ではありません。バプテスマを受けて水から上がってきた瞬間、私たちはキリストの復活にあずかった者となりました。
聖書は旧約聖書と新約聖書によって構成されています。旧約聖書には将来、イエス・キリストが来てなさる働きについての預言があります。創世記1章に記録された内容によると、神が「光よ。あれ!」といわれると、光が存在するようになりました。神はその光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられました。太陽が昇ると、昼になりますし、日が沈むと、夜になります。そして、夜が過ぎると、再び朝になります。聖書は昼になり、夜になったときを第一日といわないで、夜になり、朝になったときを第一日といいました。これと同じように、イエスがこの地での生涯を終えて死なれたのは神の働きにおいて終わりではありませんでした。神はその方を死者の中からよみがえらせました。
イエスをよみがえらせた神はイエスと結びついた私たちもよみがえらせます。ローマ人への手紙8章11節は「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」といいました。それゆえ、私たちは必ず聖霊の証しを受けなければなりません。
私たちは聖霊によって呼吸をしている
「聖霊」という言葉には「聖なる呼吸」という意味が含まれています。私たちの肉体は時が来ると、土に帰ります。しかし、私たちの霊は肉体がなくなったのちにも依然としてパラダイスで呼吸をしますし、よみがえったのちには天に入って行って永遠に生きます。
肉体の呼吸は創造されたものです。しかし、私たちがキリストによって得た永遠のいのちは自ら存在しておられる神の中にある、神自身のいのちです。神はそのように貴いいのちを私たちに与えてくださいました。この地で女の体を通して生まれたすべての肉体は呼吸が止まるのと同時に死にます。ところが、神は私たちに永遠な呼吸、すなわち聖霊を与えてくださいました。今、私たちは聖霊によって呼吸をしています。
聖書は聖霊を指して「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊」(ヨハネ7:39)といいました。聖霊はイエス・キリストを信じる者だけが受けることができる呼吸です。私たちの中にあるこの聖なる呼吸を無視してはいけません。私たちがそれを無視するのであれば、神も私たちを無視されます。神が私たちを無視されるのであれば、私たちの肉体が呼吸を止める瞬間、霊魂は絶望に陥るようになります。
ガラテヤ人への手紙2章20節は「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」といいました。キリストは私たちにいのちを与えるために来られました。私たちはその方のいのちによって生きる者です。この事実を保証するために聖霊が私たちの中に臨まれました。
私たちは聖霊を受け、聖霊が語らせる通りに異言を語りはじめました。ある人は異言の賜物を受けたとしてもそれを用いません。異言は賜物のはじまりです。聖霊は私たちに豊かな賜物と力をいくらでも現してくださいます。
恵みの中にとどまり、聖霊によって幸せにならなければならない
私たちは未来を準備しなければなりません。以前、私たちは神を知ることができなかったために、情欲に従って生きていました。それが罪人の属性です。イエスを信じるようなった今も私たちは肉体をもっています。しかし、今、私たちは肉体に従って生きないで、聖霊に従って生きます。もう一度言うと、私たちは情欲に従って生きる者でなく、神の恵みによって生きる者です。
みなさんの霊魂は果たして幸せでしょうか? みなさんの肉体の中に聖霊の幸せをねたむ悪霊が入って来ていないでしょうか? 惑わしの霊がみなさんの周りを徘徊していないでしょうか? 空中の権勢をもつ支配者がみなさんを支配していないでしょうか? みなさんは天の幸せを享受することができないで、むしろうつ病で苦しんでいないでしょうか? 霊魂の喜びを回復するためにはこのような敵がみなさんを苦しめることができないようにしなければなりません。
灯火をつけておくと、ガラスに黒い煤が生じて火がどんどん暗くなります。それで、灯火をよく管理しなければなりません。祭司長が宮で仕えるときにも常に灯火を明るく維持するために燃えた芯を頻繁に切らなければなりませんでした。私たちが聖霊を迎え入れ、賜物をもっていたとしても、私たちの中に燃えた芯が生じるのであれば、霊魂が暗くなるしかありません。それゆえ、燃えた芯を切らなければなりません。神の御言葉を聞いて実践し、それによって私たちの霊魂を幸せにしなければなりません。
聖霊が私たちの中におられるというのは復活のいのちが私たちの中に入って来ているということを意味します。私たちは新しいいのちによって生まれ変わりました。それゆえ、これからは新しいいのちによって生きなければなりません。神が与えてくださった恵みによって生きなければなりません。恵みによって生きてこそ信仰生活をよくすることができますし、あらゆる点で栄えることができます。神が私たちを無視されるのであれば、私たちには何の望みもありません。
神は私たちに祝福を与えてくださいました。私たちがしてきたことを考えるのであれば、私たちは祝福を期待することができない者です。祝福はいうまでもなく、当然に刑罰を受けなければなりません。しかし、神は私たちに恵みを施してくださいました。律法の行為によっては神が施してくださるものを受けることができません。律法の前ではどんなに努力したとしても結局、私たちの罪が現れるだけです。それゆえ、私たちは常に恵みを頼らなければなりません。
悪魔は「お前のような者がどのようにして神が与えるものを受けることができるというのか?」といって私たちを倒そうとします。そのようなときに私たちは「私は恵みによって生きている。私はこの世の人々が考える成功は得ることができなかったとしても、神の恵みを受けた。」といって、自分が恵みを受けた者であるということを認めなければなりません。呪いや病気が臨んでから身もだえしないで、予め恵みを頼らなければなりません。
主が先に行って待っておられる
イエスが葬られたのちにイエスの母と女たちが墓に行きました。彼らがイエスの死体を探しているときに天使が現れて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたはそこで、お会いできるということです。」(マタイ28:6~7)といいました。イエスの弟子たちはガリラヤに行ってイエスの復活の知らせを伝えようとしました。ところが、弟子たちがどんなに迅速にエルサレムを離れてガリラヤに到着したとしても、イエスが先にそこに行って待っておられるというのです。
私は以前、全国のさまざまな地域を巡りながら伝道集会を導きました。そのとき、私がはっきりと体験したのは行く先々で主が予め行って準備しておられたという事実です。私たちがイエスを伝えるために他の人の家を訪れるときにも、主はその家に先に行って働いておられます。私たちが主日に教会に行って礼拝をささげるときにも、主が先に行って私たちを待っておられます。私たちが教会で奉仕をするときにも、主は私たちよりも先に行って待っておられますし、私たちが何かを求めるときにも、主は祈りの応答をもって私たちよりも先に行って待っておられます。
新しく明けた今年一年を主は私たちよりも先に行って準備しておられます。願う職場を得ることができなかったとしても落胆する必要はありません。主は私たちよりも先に行ってさらによいものを準備しておられます。復活のいのちが私たちの中にあるために、私たちは落胆しないで、根気強く待たなければなりません。どのような状況であっても「主が私よりも先に行って待っておられる。」と認めなければなりません。そのようにさえするのであれば、私たちの歩みはどのような状況にあっても決してむなしいものとなりません。
主は私たちが行かなければならない道です。その道が私たちにとって一度も行ってみたことがない、不慣れな道であるかもしれません。それでも、恐れてはいけません。主が先に行って私たちを待っておられるという事実を忘れてはいけません。どんなに緊急な事態が私たちを襲ったとしても、主は光よりも早い方でおられるということを覚えなければなりません。私たちの前に大きなことが山のように立ちはだかることもあります。どのようにしてそれを解決しなければならないのかと茫然とすることもあります。しかし、私たちははっきりと知らなければなりません。主は私たちよりも先に行って待っておられます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 01. 01.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は今、この文章を書くために祈りながらこれまでの半世紀を追憶している。誰も信じようとしないであろうが、これは父なる神も認め、主イエスも認め、聖霊も認められることである。それゆえ、私の霊魂は聖霊の御前でまことを語ろうとする。
私がもし偽りを平気で言うことができるのであれば、これまで三位の神が私を助けてくださることはなかったであろうし、むしろ捨てられたであろう。しかし、神は私を手の中にしっかりとつかんで自分の働きに用いてくださったので、まことに感謝する。
光時での体験をした日から私は物質に対する欲をもたなかった。もちろん私がしている主の働きに必要なものに対しては善なる欲を抱いてきた。私はその欲については捨てないで、これまでの半世紀を変わらずに生きてきた。しかし、私の肉体や家族のためには欲をすべて捨てた。いや、聖霊が私の心をそのように変えてくださったようである。
それゆえ、私のためのものであるのならば、徹底的に排除してきた。一度も自分がお金を払って服を買ったこともないし、何かを買ったこともない。ただ記念として外国に行ったときにキーホルダーやスプーン、小さな箱などを少し買っただけである。妻や息子へのプレゼントをひとつも購入したことがない。足が痛かったとしても思い通りに靴を買い替えたこともない。誰かが高価なものを買ってくるのであれば、家に帰ってその人を恨んだり残念に考えたりもした。私にはむしろ現金が必要であった。
「ちりも積もれば、山となる」ということわざがあるように、少額のお金を集めて大きなものを作り、それによって生涯、喜びをもって主の働きをしてきた。生活が苦しかったとしても、私を助けようとする心で私に与えてくれるものであれば、遠慮せずに受けた。そのような少額のお金を集めて、山のような働きをしたかったためである。
私が結婚して新婚生活をするときに、妻は一日中、立ちっぱなしで働き、田舎の家の一間を得ようとした。しかし、私は妻を説得してそのお金を受け、ソウルの清渓川に行って軍用の天幕を購入し、田舎の教会の建築にすべて使った。そのようにしながらもお腹を空かせて倒れる寸前であったが、うどん一杯も買って食べることができなかった。私はそのような昔の追憶を忘れることができない。
これは現在も変わりがない。私がこの世を離れるそのときまで変わることがないであろう。私が物質に勝利したことだけでも本当に幸いであると考え、感謝して祈る。そのようにしながら、これは本当に自分の力ではなかったということをもう一度、認めたい。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室