ベレヤ運動
ベレヤ運動は1862年5月、神の意図を悟った金箕東牧師によってはじめられた信仰運動であり、聖書に似る運動、新約教会運動、平信徒指導者運動、神本主義運動をいう。ベレヤ運動は使徒行伝17章11~12節で紹介されたベレヤ人の信仰と精神を模範とし、謙遜な心で神の御言葉を受けて従おうとする運動である。ベレヤ人はパウロがイエス・キリストについての証しをすると、無条件にこれを排斥しないで、果たしてパウロが証しするイエスが聖書で預言された方であるのかを確認するために聖書を調べ、その結果、聖書を通して信仰を得た。ベレヤ運動は新しい教理を押し立てて、それを学んで熟成させようとするものではない。教権や教理、憲法を越えてただ聖書に戻り、それによって教会が聖書に、聖徒が教会に似ようとする運動である。そして、それによって神に喜ばれる、まことの新約教会をこの世に実現しようとする運動である。この運動をもう少し詳細に説明すると、次のように要約することができる。
第一に、聖書に似る運動である。ベレヤ人の謙遜な信仰姿勢に習って日々、聖書を調べ、その御言葉に徹底的に従って聖書に似ようとする運動であり、それによってまことの聖徒になろうとする運動である(使17:11~12)。キリスト者が聖書を神の御言葉として認めて受け入れる際に最も大きな妨害となるのは聖書を超越する態度である。ベレヤ運動は教理ではなく、イエスを証しし、神学よりも聖霊に頼り、教会の憲法よりも聖書に権威を置き、それによってさらに聖書的で、聖霊の導きを受ける信仰を追求する。そのために日々、聖書を調べることを具体的な実践方針として提示する。単に聖書を見ることだけにとどまらず、従って行うことによって聖書に似ることを目標としている。
第二に、新約教会運動である。新約聖書に似た新約教会を追求して新約聖書を聖徒の信仰と生活の模範とし、その特徴を所有した新約聖書的な教会を実現しようとする。イエス・キリストの神癒と聖なるしるしの時代は続いており、イエスは昨日も今日も永遠に変わることがない(ヘブル13:8)。したがって、イエスの体である教会はよみがえられたイエスのいのちと力に満たされて、その特徴が現れなければならない。新約聖書が語っている聖霊の力を今も教会に再現することによって、よみの権勢が勝利することができない、使徒的な力をもった、イエスの教会を追求する。
第三に、平信徒指導者運動である。平信徒には聖書解釈の自由、神学の自由、信仰体験の自由が保障されなければならない。新約教会の聖徒は誰でも自分が悟った御言葉と体験を教える権利をもつ。病気を癒して悪霊を追い出す力は特定の人にだけ与えられた賜物ではなく、信じる者すべてに与えられた普遍的なものである。教会は聖職者中心の権威主義と教権主義を退けて神の権威だけを認め、イエスのまことの弟子である、聖書に似た平信徒指導者を養成する。また、このように発掘された平信徒の力を認め、教会の働きに平信徒を積極的に参加させ、彼らの活動領域や活動範囲を初代教会、さらに新約聖書が提示する水準にまで拡張しようとする。ベレヤ運動は集会を開くときにも多くのキリスト者を参加させて心を熱くさせながら恵みを受けさせる一回性の集会を開くのではなく、100人前後の指導者を参加させてその指導者を根本的に変える集会を開く。
第四に、神本主義信仰運動である。人間中心の聖書解釈から脱け出して神中心の聖書解釈をし、それを信仰生活に適用させようとする神本主義信仰を追求する。それゆえ、ベレヤ運動の核心は神の意図にある。神がどのような方であり、その方の御心が何であるのかを知って従おうとするのがベレヤ運動のはじまりであり、究極的な目標である。また、ベレヤ運動は神の意図を知ることにとどまらず、これを信仰化、生活化、霊力化していくことを追求し、教会成長と世界宣教を追求する。
このようにベレヤ運動が他の信仰運動と異なる点は聖書を神中心に解釈し、人間中心に解釈して力を失ったキリスト教を、聖霊が働かれる新約教会に戻らせようとするところにある。すなわち、キリスト教の生命力を回復し、イエスがなさったように、真理を教え伝え、しるしによってそれを証ししようとするところにある。聖書をそのまま受け入れるのであれば、御言葉に伴う力の普遍性が保障される。
今日、多くのキリスト者は神を信じるといいながら、神の意図をなすために自分をささげるよりもむしろ自分の意図を成就するために神を利用している。このような者は自分の意図をなすことができないと、「神を信じても何の意味もない。」といいながら神から離れたりもする。彼らは天地を創造された神の意図が何であるのか、イエス・キリストをこの世に遣わされた神の意図が何であるのか、信じる者に聖霊を遣わされた神の意図が何であるのか、聖徒に要求される神の意図が何であるのかについて関心をもたない。キリスト者は今日、自己中心的で人本主義的な信仰をもっている。これは宗教改革以後のキリスト教教理が人類の救いにだけ焦点を当てたまま発展してきたためである。現在もキリスト教会は神の御心を理解することにおいて人間の救いという枠を脱け出すことができていない。今日のキリスト者にとって神はどこまでも「私を愛してくださる神」である。神が天地を創造されたのも、イエス・キリストをこの世に遣わされたのも「私のため」であり、さらには神の存在自体が「私のため」である。これは幼子のような信仰水準にとどまっているのである。
しかし、ヨハネの手紙第一2章12~13節は「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」といった。子どものような水準の信仰は人間の罪の赦しと救いにだけ関心を注ぐが、若者の水準に成長した信仰は悪魔を滅ぼすために来られたイエス・キリストの御心を知ってそれに参加するところに関心を注ぐ。また、父の水準に成長した信仰は神に仕えて献身するところにまで関心を注ぐ。キリスト教会はいつまでも子どものような信仰水準にとどまっていないで、敵と戦う若者の信仰、神を知って仕える父のような信仰に進まなければならない。
ベレヤ・アカデミーは悪魔を滅ぼす働きを強調し、神に対する献身を重視する。これは神の意図を深く知ったためである。聖書は神の意図について語っている。今日の人々は聖書を読んでも神の意図を知らない。これは聖書を読む方法を知らないためである。遠くにあるものは望遠鏡で見なければならないし、微細なものは顕微鏡で見なければならない。このように聖書から神の意図を発見するためには聖書を見る眼鏡がなければならない。金箕東牧師が1976年に設立した「ベレヤ・アカデミー」は人々に聖書を見る眼鏡を教え、これを通して神の意図を見るようにする。ベレヤ・アカデミーを通して神の意図を知った者は霊的な世界を知るようになり、自分の人生を神の御心の成就に完全にささげるようになる。そして、聖書一冊をもって真理の御言葉を滝のように注ぎ出し、イエスが約束されたしるしを現すようになる。
ベレヤ・アカデミーはこれまでに世界の至る所で数多くの霊的な指導者、力ある働き手を輩出してきた。韓国の大型教会の牧師の中にもベレヤ・アカデミーを学んだ者が少なくない。「かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」というガラテヤ人への手紙4章29節の御言葉のように、韓国のキリスト教界においてもまことの主のしもべに対する迫害や異端規定が肉体の情欲に従う者によって無責任に進められているが、神は教理と教権に屈しないで真理のために苦難を担おうとする霊魂を備え、その人とともに働かれる。
ベレヤ運動は真理とともに苦難を受けながらも世界的な信仰運動に発展してきたが、これは神の意図を悟った者に聖霊の力としるしが普遍的に伴ったためである。ベレヤ運動は「力の普遍性」を主張する。この世では驚くべき神癒の働きを現して人々に多くの衝撃を与える主の働き手が現れては消えていく。このような状況でベレヤ運動は「力は特定の人だけが独占する特別な賜物ではなく、神の意図を知って従う者であれば誰でも使うことができる神の約束である。」と主張する。そして、全世界のベレヤ人を通してこれが事実であるということを証明する。金箕東牧師はこれまで力を多く現してきたが、今日、金箕東牧師と直接会ったこともない者がベレヤ・アカデミーや著書を通して霊的な世界を悟り、金箕東牧師が体験したことをそのまま体験している。ひとりの経験が普遍化されるためにはそのような経験を可能にする原理が必要であり、また、その原理を実践する者すべてが同じ経験をする必要がある。ベレヤ・アカデミーは神の意図という、普遍的に力を現す原理を知らせ、霊的な指導者の養成に力を注ぐ。
「ベレヤ・アカデミー」は52講義で構成されており、4学期2年の課程として構成されている。その中で1、2学期は「聖書を見る眼鏡」、3学期は「神の意図」、4学期は「福音仲裁」を扱う。
ベレヤ・アカデミー 講義目次
第1講義 聖書は神の御言葉がある本
第2講義 聖書は神の聖なる御言葉
第3講義 聖書は4単元で構成されている/律法と福音1
第4講義 律法と福音2(旧約と新約)
第5講義 律法と福音3(天使が伝えた律法とイエスが伝えた福音)
第6講義 律法と福音の権威/聖書は一幅の絵のようである
第7講義 アブラハムからイエスまでの聖書の歴史
第8講義 聖書に現れた3つの霊的存在(神)
第9講義 聖書に現れた3つの霊的存在(霊界/天使)
第10講義 聖書に現れた3つの霊的存在(天使)
第11講義 聖書に現れた3つの霊的存在(堕落した天使)
第12講義 聖書に現れた3つの霊的存在(惑わしの霊)
第13講義 聖書に現れた3つの霊的存在(人間)
第14講義 聖書に現れた3つの霊的存在(人間/悪霊)
【聖書を見る眼鏡2】
第15講義 真理は神を知る内視鏡
第16講義 真理/イエスの血と肉
第17講義 神は霊でおられる
第18講義 聖書と神の御名
第19講義 イエスの名の権勢と力(権能)
第20講義 聖書が語る救いと選び
第21講義 弁護者である助け主の聖霊
第22講義 のがれの町(生の愛着)
第23講義 善悪を知る木の実を通したいのちと死
第24講義 聖書で教える祈り
【神の意図】
第25講義 神の意図を知る道
第26講義 神は自分を最も愛される
第27講義 父のふところにおられる、ひとり子なる神
第28講義 御子が天に入って行くまで天使を置かれる
第29講義 主の使いと天使の堕落
第30講義 よみは堕落した天使を閉じ込めた永遠なる束縛
第31講義 御子は人の子として天に上られる
第32講義 神の御子がよみに来られた理由
第33講義 最初の霊的な人アダム
第34講義 原罪と自犯罪
第35講義 アダムと助け手
第36講義 アダムの死とイエスの死
第37講義 証しを受けた者と約束を受けた者
第38講義 律法からの解放
第39講義 第一の復活に預かる者
第40講義 再び来られるキリスト
【福音仲裁】
第41講義 神を知る真理
第42講義 福音仲裁としての礼拝
第43講義 福音仲裁としての儀式(バプテスマ)
第44講義 福音仲裁としての儀式(聖餐)/福音仲裁としての祭り
第45講義 福音仲裁としての人物
第46講義 福音仲裁としての霊感
第47講義 福音仲裁としての神癒
第48講義 福音仲裁としてのしるし(異跡)
第49講義 福音仲裁としての記録
第50講義 福音仲裁としての血/福音仲裁としての言語
第51講義 主の祈り
第52講義 おおいを取り除いた顔でお会いしなければならない方