最も大きな戒め
(マタイの福音書 22:34~40)
神は
義でおられる
その方が
人類に信仰を与えられたが、(ヨハネ3:16)
その信仰は
神の義を現したものである(マタイ23:23)
神の創造の意図はその方の義にある(ヘブル1:2~3)
それゆえ、
神の義を知るというのが
神を知るということであるし、(ヨハネ17:3)
その方の御言葉にとどまるというのが
義人になるということである(ガラテヤ3:11)
私たちの古い罪はきよめられたので、今は
イエスを着なければならないが、その方の義である(ローマ13:14)
神の義は哲学ではなく、
実践する戒めである(マタイ22:37~38)
戒めの中で最も大きな戒めは愛である(Ⅰコリント13:2)
それゆえ、
戒めを実践するというのは義を求めるということである
イエス・キリストは義人でおられるし、
聖霊の人も義人である
◎信仰がある者は義がある者であり、
義がある者は義を実践する者である
このような人が義人である
◎信仰は多くの罪に勝利する
まことの愛とは
神の中にとどまることである
◎神をまことに愛し、
隣人をまことに愛し、ただ
愛する者だけが義を行う者である
※義の服を着よう
イエスを着よう
神の聖なる聖徒になろう
最も大きな戒め (マタイの福音書 22:34~40)
私たちは神の義によって義人となった
神は義なる方でおられます。目で神を見た者はいません。しかし、神は自分の義をこの世に現されました。神の義はイエス・キリストです。イエス・キリストは神が義でおられるということをこの世に現した義人でおられます。
人は誰でも罪人です。人には原罪もあり、自犯罪もあります。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩51:5)という御言葉通りに、人はこの世に生まれる前から罪人です。生まれてから一度も罪を犯したことがない赤ん坊であってもすでに罪をもっています。一言で言うと、人間は不義です。信仰は不義な人間が神から与えられた義を所有することができる唯一の方法です。私たちが悔い改めるのは不義を脱ぎ捨てて神が私たちに着せようとされる義を受けるためです。
イエスが十字架で死なれたのは私たちの不義のためですし、私たちが義と認められたのはキリストの義によってです。イエスは私たちのために死なれましたし、私たちはイエスによって生きました。私たちは神の義を受けました。これは私たちの行為や労苦に対する代価ではなく、神の賜物です。ローマ人への手紙5章20節は「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」といいました。これは恵みを多く受けるためには罪をさらに多く犯さなければならないという意味ではなく、罪を悟るほど恵みの大きさがさらに大きくなるという意味です。恵みによって私たちは義と認められました。神が義と認められた者は義人です。神は私たちを義人とし、これを保証するために聖霊を遣わしてくださいました。
神は義人に義を実践させた
人に義を実践させるのが戒めです。イエス・キリストを信じたのちに、私たちは教会の外では知らなかった生涯の規則を発見しました。私たちは神が与えられた義に従うために戒め通りに生きます。義人は戒めを守ります。義人でない者は戒めを守りません。
旧約時代には律法の中に戒めがありました。戒めの数は人がそれをすべて守るのが難しいほど多かったです。預言者ひとりひとりが律法を深く解釈したために、戒めの数がどんどん多くなったのです。これは「生い茂った木には幹があり、そこから出て来る太い枝があり、また、さらにそこから出て来る小枝がある。」というのと同じでした。戒めの数がそのように多かったですが、その基本は十戒でした。第一は「神のほかにはどのような神々にも仕えてはいけない。」というものであり、第二は「被造物のかたちを作って、それに仕えてはいけない。」というものであり、第三は「神の御名をみだりに唱えてはいけない。」というものであり、第四は「聖日を守りなさい。」というものでした。これらの戒めが要求するのはすべて神を愛しなさいということでした。
カトリックはこの十戒に変化を加えました。「被造物のかたちを作って、それに仕えてはいけない。」という第二戒をなくして、その代わりに「隣人のものを欲しがってはいけない。」という第十戒を2つに分けました。そのようにしてカトリックは第九戒を「隣人の妻を欲しがってはいけない。」というものに、第十戒を「隣人のものを欲しがってはいけない。」というものに作りました。カトリックではこのような方法によって聖人のかたちを作ってその前で拝む行為を合理化しました。
神が人に戒めを与えられたのはそれを守らせるためです。しかし、人がその多くの戒めをひとつひとつ守るというのは非常に難しいことです。イエスはそのすべての戒めが要求することを一度に担われました。これはまるで木の葉を一枚ずつ切り取ろうとする者のために木全体を切り倒してしまったようなものです。このように私たちのために律法を担われたイエスが私たちに要求される戒めがあります。それは神を愛しなさいというものです。
愛しなさい
神を愛する者が義人です。私たちは過去に不義であったために神を愛しませんでした。 しかし、イエスが来て十字架で死ぬことによって私たちの不義を担ってくださいました。私たちはその方と結びつきました。それゆえ、その方が死なれたというのは私たちが死んだということですし、義なるその方がよみがえられたというのは私たちも義と認められたということです。
神を愛しなさいというのは神の義を求めなさいということです。主は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)といわれました。私たちが神の義を求めるのであれば、すなわち神を愛するのであれば、神は私たちに必要なものをすべて与えてくださいます。神は惜しむことなく自分の御子をすべての人のために差し出されました。そのような方がどうしてすべてのものを私たちに賜物として与えないことがあるでしょうか? それでも神の助けを受けることができないのであれば、それはその人が神の義が自分の中にあるという事実を認めないためです。
神を愛するときにはどの程度まで愛さなければならないのでしょうか? 人は他の人から命令を受けなかったとしても誰でも自分の体を愛します。神に対する愛もそれと同じでなければなりません。神を愛するときには自分の体を愛するように心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くして、愛さなければなりません。また、それと同じように隣人を愛さなければなりません。ある律法の専門家がイエスに「先生。律法の中で大切な戒めはどれですか?」と尋ねました。イエスは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」といわれました。
ヨハネの手紙第一4章18節は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」といいました。律法の下にいる者が神に服従したのは神を恐れたためでした。しかし、今、私たちが神の戒めを守るのは神を恐れるためではなく、神を愛するためです。
献金をするときに無理やりにしたり他の人の目を意識してしたりするのは神を愛していないためです。反対に、聖徒が自分の財産を神の国のために喜んで差し出すことができるのは神を愛するためです。神を恐れる心だけをもっているのであれば、まことの献身をすることができません。神の恵みに対して物質によって感謝することができるのは神を愛する者の特権です。教会で受けた職分を担うために身もだえするのも神を愛するためです。
戒めを守って義を実践していこう
聖書には戒めがとても多いです。イエスはすべての戒めの全体、綱領が愛であるといわれました(マタイ22:40、訳者注: 韓国語の聖書では「全体」が「綱領」となっている)。綱領とは何でしょうか? 国会議員が活動する姿を見ながら、国民はしばしば眉をひそめます。与党と野党が互いに対立して攻撃する姿が繰り返されるためです。普段は国民から尊敬を受けている人物もいったん国会議員になると、不思議にもそのような行動を取るようになります。それには理由があります。政党ごとに固有の綱領があり、政党に所属した国会議員はその綱領に従って動かなければならないためです。これと同じように、イエスを信じる者は誰でも戒めを守らなければなりません。その戒めの綱領がまさに愛です。
神を愛して隣人を愛するときには命を尽くさなければなりません。健康な者も一瞬にして交通事故でこの世を離れたりします。私たちもいつこの世を離れるようになるのかはわかりません。私たちがはっきりと知らなければならないのは「この地で生きている時間が神を思う存分に愛することができる機会である。」という点です。イエスは信じる者に互いに愛し合いなさいという新しい戒めを与えられました。そして、その戒めに従うのがすべての戒めを完成させる道であると強調されました。義を愛し、主を愛さなければなりません。主を食べ、飲み、着て、自分を完全に変えなければなりません。信仰がある者は義がある者ですし、義がある者は義を実践するために力を尽くします。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 01. 10.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私はこれまでさまざまな大統領を見てきた。彼らは悪口を言われながら歴史を飾ってきた。大統領は自らなることができるものではなく、天で認められてこそなることができるものである。大統領は個人の資格ではなく、全国民を導く父のような存在であるためである。それゆえ、私たちは聖書を通して「誰でも王に敵対するのであれば、神が裁かれる。」ということを学んだ。運転する者が男であれ、女であれ、しっかりと自分がすべきことをしてこそ車を完全に運転することができるように、この世のことも同じである。
私も以前は大統領を憎んだり、不満を言ったりすることもあった。しかし、これは生意気な考えであった。この世は今も神に悪口を言うし、人類を救うために来られたイエスを迫害する。神を迫害して敵対する者は互いに自分が知恵がある者のように騒いで人々を扇動する。神は誤ったことがない。しかし、この世は無条件に神を嫌う。
私は誰の味方であろうか? 神を愛した方はその御子イエス・キリストしかいない。イエスを認めてイエスの正直な生涯を愛する方は助け主でおられる聖霊だけである。それゆえ、イエスと聖霊を超越するのであれば、真実やいのち、霊魂が呪いを受ける。私はこれを知って、イエスが語られた父なる神について聞いた通りに信頼するだけである。聖霊が知らせてくださったイエス・キリストを知り、そのまま信じ、そのまま証しする。
私が自分の人生を自ら祝うのはたとえ私がこの世から捨てられた者のように疎外され、迫害を多く受けたとしても少しも不愉快ではないためである。彼らは神を知らないでそのようにしたが、私は神と神が遣わされた方をよく知っているためである。それで、私はまことに感謝する。私は神ではないために咎も多いし、それをとても恥ずかしく思う。しかし、私はイエス・キリストだけを頼る。この世から辱めや蔑視を受け、捨てられたとしても天では歓迎を受ける者となるために全身全霊を尽くす。
私はその方が流された血の道を通って聖所を歩き、岩から出て来る新しい水を飲む。この岩はイエス・キリストでおられる。この世に友がいなかったとしても、主おひとりが友となってくださったことに感謝する。この世ですべてを奪われたとしても、その方に行って報いを受けるので、感謝する。今年も私が完全であることができるであろうか? 私がこの世に生きる資格があるのだろうか? 私にはよくわからないが、私にとって毎日が貴いということを実感する。
私の霊魂のために残る歳月を惜しまなければならない。私はその方の大きな戒めを受けたので、その戒めをすべてなすまで私は自分に勝利しなければならないのだが・・・。限りなく感謝する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室