力を受けなさい
(使徒の働き 1:6~11)
神は
生きておられる
その方が
語られた通りにすべてがなされたので、(ヘブル11:3)
神は唯一のまことの神でおられる(ヨハネ17:3)
神が私たちと契約を結ばれたのは
永遠のいのちを与えるためであり、(ヨハネ3:16)
自分の御心通りに従う者に
報いを与えるためであった(使5:32)
主イエスが願われるのは
「あなたがたは力を受けなさい」ということである(使1:8)
力を与えるために
聖霊を私たちの心に与えてくださったし、
このために「罪の赦しを受けなさい」といわれた(使2:38)
そのようにしてこそ、この地で
イエスの証人となることができるといわれた
これらすべてをなすために
十字架で血を流されたが、
これが真理である(ヨハネ14:6)
神を愛する者であるのならば、
イエスの証人となって隣人を愛さなければならない
◎神の御言葉を信じなさい
イエスは御言葉であり、真理である
聖書はその方の御言葉である
◎イエス・キリストは昨日も今日も
永遠に変わることがない
すべての御言葉は有効である
◎必ず力を受けなければならない
これは十字架で死んだのちに生き返った、
イエスが切に頼まれたことである
※私たちそれぞれに預けられた働きとして、
イエスの証人とならなければならない
この世ですべきことはこれだけである
力を受けなさい (使徒の働き 1:6~11)
神は生きて働かれる
神は生きておられる方です。それゆえ、その方は今も働かれます。神が生きておられるという事実を信じる者はその方が働かれるということを認め、また、その方を休ませないで働かせるために身もだえします(イザヤ62:6~7)。信仰生活は誰かが考えるように立派な人格を備えるために修養を積むものではなく、神を働かせるものです。
神が目に見えないという理由によって、多くの人が今も神が働かれるという事実を認めません。もし神が働かれないのであれば、人は一瞬も完全に生きていることはできません。人が生まれてから死ぬときまで自ら努力しなかったとしても息をすることができるのは神が休まないで働かれるためです。神は私たちが知らない瞬間にも命を維持することができるように呼吸を提供しておられます。
神の働きはイエスを通してなされ、今も聖霊によって進められる
時間が流れたとしても神の働きは変わることなく続きます。今から約4000年前、神はアブラハムと契約を結ばれました。イスラエルはその約束を信じて、メシヤが来られることを待ち望みました。神はアブラハムと契約を結んでから2000年余りが過ぎたときに、イエス・キリストをこの世に遣わされました。イエス・キリストはこの世に来て天に上られました。長い歳月が流れる間、神は続けて自分の働きを進めておられたのです。
イエスの復活と昇天は誰かによって作られた話でなく、事実です。多くの人がイエスの復活と昇天を目撃して、それを証ししました。ルカはイエスの復活と昇天を目撃した者をひとりひとり訪ねて行って証言を聞き、そのようにして得た資料に基づいて「ルカの福音書」を記録しました。私たちはそのような証人の言葉を聞いてイエスの復活と昇天を信じましたし、神はその信仰を保証するために私たちに聖霊を注いでくださいました。
聖霊は今も2000年前と同じようにイエスについての証しを信じる者に臨んでその中で働かれます。今、私たちがあらゆる恵みと力によって特別な信仰を所有しているのも聖霊が私たちの中で働かれるためです。イエスは聖霊によって悪霊を追い出し、それによって神がイエスの中で自分の働きをしておられるということを現されました。これと同じように、今日、私たちも聖霊によって悪霊を追い出し、それによって神が私たちの中で自分の働きをしておられるということを体験しています。このように主の約束は数千年が過ぎたのちにも聖霊を通して続けてなされています。将来、主が来て私たちを天に連れて行かれるということを確信する根拠もここにあります。
その日が来る前に聖霊によって証人とならなければならない
主が再び来られるのであれば、この世は終わりを迎えるようになります。その日がまだ来ていないのはさらに多くの者が聖霊によって印を押される機会を神が与えておられるためです。その日が具体的にいつであるのかは父なる神以外には誰も知りません。弟子たちがその時期を尋ねたときに、イエスは「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。」といわれました。その日にはふたりが畑にいれば、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ユダヤ人はイエスが来たのちに天に上って行かれたということを悟ることができませんでした。私たちはその日を逃さないために目を覚ましていなければなりません。
どのようにしてその日に備えなければならないのかについて、主は「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。あなたがたは聖霊を受けなさい。そうすれば、証人となります。」といわれました(使1:7~8)。主の約束を信じてマルコの家の大広間で切に祈っていた弟子たちは聖霊を受けました。そして、聖霊は今も信じる者に臨まれます。残念なのは今日、多くのキリスト者が聖霊を受けることを過去のことと考えているという点です。神は今も聖霊を遣わして、信じる者を通して自分の働きを進めておられます。
イエスは「父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」(ヨハネ15:26~27)といわれましたし、また、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使1:8)といわれました。木は成長すると、自然と実を結びます。そのように聖霊を受けた者は自然と証人となります。
証人となるためには力がなければなりません。力を受けない者は長い間、教会に通っていたとしてもイエスを証しすることができません。聖書をもって礼拝堂を行ったり来たりしながら修養を積むだけの宗教生活から脱け出すことができません。私たちが信仰をもつのは修養を積むためではありません。主が来られると、私たちはこの世を離れます。私たちの望みは天にあります。私たちを天に入って行かせるのは宗教でも修養でもありません。ただイエスだけが私たちを天に連れて行くことができます。
母性によって隣人を愛さなければならない
イエスは「私が行ってあなたがたのために場所を備えたのであれば、再び来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私のいる所にあなたがたをもおらせるためです。」と約束したのちに、「もしあなたがたが私を愛するのであれば、あなたがたは私の戒めを守るはずです。私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。この世はその方を受け入れることができません。この世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」といわれました(ヨハネ14:2~17)。その御言葉通りに聖霊が私たちに臨まれました。これからは主の約束を疑わないで、神と隣人を愛しなさいという主の新しい戒めを守らなければなりません。
主が天に上られたのちに、弟子たちが天を見つめていると、天使が現れて「なぜ天を見上げて立っているのですか?」といいました。主の復活や昇天を信じる者がしなければならないのは漠然と天を見上げることではなく、この地にいる間、神に向けられた愛によってイエスを証しすることです。最後の日が近づいてきていますが、人々は依然としてこの地に望みを置いています(ルカ17:27~28)。天に望みを置いた者であるのならば、主の戒めを守るために力を尽くします。
神を愛し、隣人を愛するときには自分の体を愛するように愛さなければなりません(マタイ22:37~39)。自分の体を愛するように愛しなさいというのは母性によって愛しなさいという意味です。母は自分の体を愛するように子どもを愛します。イエスは「私の母とは誰ですか? 天におられる私の父の御心を行う者は誰でも私の母です。」といわれました(マタイ12:48~50)。キリスト者は母性によって神を愛さなければなりません。
イエスの母は神の御子を10ヶ月間、抱いていたのちに産み、その方が成人になるときまで養育し、その方が十字架で死ぬ現場までその方に従いました。彼女は子どもを愛する母の愛によって神を愛したのです。礼拝は神に向けられた愛によって満たされなければなりません。イエスは「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)といわれました。献金も神に向けられた愛をもってささげなければなりません。奉仕も同じです。神に仕える働きには母性がなければなりません。
隣人を愛するときにも自分の体を愛するように愛さなければなりません。子どもを愛するように隣人に接するのであれば、伝道の実は自然と結ばれます。エゼキエル書33章6節は「しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。」といいました。証人の生涯は義務感によって無理やりになされるものではなく、神を愛する者から現れる自然な結果です。
ヨハネの黙示録22章20節は「アーメン。主イエスよ、来てください。」といいました。聖書の内容を簡単に要約すると、「イエスが来られた。天に上られたその方が将来、再び来て私を天に連れて行かれる。アーメン。主イエスよ、来てください!」ということになります。これは主を愛する者だけがすることができる告白です。聖霊が私たちに臨まれたので、神に仕える力と隣人を愛する力を受けなければなりません。神が与えられた力によって新しい戒めを守らなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 02. 07.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
時速80キロで走ってきて、再び新年を迎えた。これから進んで行く道がどのようになっているのかは私にもわからないが、非常に短いようなので、感謝する。高い山の頂上に上り、私が通って来た道を振り返ってみる。後悔や恥ずかしさ、未練が本当に多い。今は肉体の力も、時間的な余裕も、社会的な資格もない。私は再び何かをすることができる者でもない。それでも、私が息をする日までは私を守らなければならないし、私に与えられた霊的な責任を負わなければならない。それゆえ、悩んでいる。
ひとつひとつ整理しながら、私がしようとしてきたこと、しがみつこうとしてきた文学を楽しみたい。そのためにも私に積まれた知識がなければならないが、私は自分が本当に無知であるということを悟って慌てているし、また、恥じている。知識には師匠がいなければならないし、師匠から学んだ根本と理論、体系がなければならない。しかし、私はまことに無知であるということを否認することができない。
生涯、勉強してきたといっても、それはでたらめであった。まともに勉強したことがないし、それゆえ、まともに知っていることがない。得ようと努力してきたが、すでに固まってしまった脳や精神、肉体によってひとつも実践することができなかった。私にはまことな師匠がいなかったし、私の骨に刻んでおくほどの名もなかった。これは私が勉強に興味がなかったためである。
それだけではなく、私には知らなければならない常識さえも足りない。最近は賢い電話機をもつことによっていくらでも立派な常識を得ることができるが、私はそれさえももっていないために、この世をむなしく生きる盲人である。田舎で農業を営む者もインターネットをすることができるというが、私はそれさえもすることができない。私は空き缶に過ぎない。これが恥ずかしい。
ただ、早くから神に会って聖書を知るようになったのは幸いなことであった。私は聖書に現れた神とその方が遣わされたイエス・キリスト、イエスが遣わされた弁護者でおられる聖霊について、誰よりもよく知って信じてきた。誰かが生意気であり、高ぶっていると悪口を言ったとしても、これははっきりとしたことである。
神を知る知識と知恵はこの世の知識に無知であり、知恵が足りない私の生涯にとって大きな祝福である。私はこの世をすべて失ったとしても神を失うことができない。この世で知ることがなかったとしても私はイエスを知っている。そのために、神がまだ私を説教壇に立たせているのではないだろうか。
私は「私のような馬鹿が再び出て来てほしい。この世では無知であり、足りなかったとしても、神をよく知る天才が何人か出て来てほしい。」と願っている。私はこの世で多くのほこりを浴び、垢にまみれ、多くの罪過も負ってきたが、イエスの尊い血を知って信じるために生きているし、聖さを悟る。私にとっては歳月が矢のようではなく、光のように走っている。短い私の生涯を自ら祝う。感謝する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室