
準備しなさい
(ヘブル人への手紙 11:17~40)
神は
報いを与える方でおられる
その方が
この世に信仰を与え、
信仰によって生きるようにされたが、これは
神のまことの義である(ヨハネ3:16、16:10)
宗教は信仰がなかったとしてもただ道徳と倫理によって
十分に完成することができるが、(マタイ5:17~20)
神の義は信仰によらなければ、
得ることができない真理である(ガラテヤ3:11)
・アブラハムの信仰を見なさい(ヘブル11:17~19)
・イサクを見なさい(ヘブル11:20)
・ヤコブを見なさい(ヘブル11:21)
神は自分を彼らの神といわれた(使7:32)
モーセを見なさい(ヘブル11:27~30)
罪の楽しみを受けることよりも
神の民とともに苦難を受けることを選び取り、
キリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる
富と考えたが、これは報いを与えられるということを信じたためである
信仰を見せないために、その栄光を見ることができない
聖霊はただ準備した者を助けるために臨まれた(ローマ8:9)
◎あなたは信仰によって何をささげたのか?
御言葉さえも聞いていないので、
神を失望させている
◎あなたは信仰によって何をしているのか?
この世のことをさらに愛して、
神の国の働きを拒んでいる
◎あなたは信仰によってどのように生きるのか?
まず神の国とその義のために命でも
ささげてこそ、祝福を受ける準備となるのではないか
※神をあざむいてはならない
何を食べて飲んで着るのかを考えないで、
まずその方の国とその義を求めなさい
準備しなさい (ヘブル人への手紙 11:17~40)
報いのために努力しなければならない
神は報いを与える方でおられます。報いは恵みとして受けるものではありません。恵みは功労なしに受ける賜物ですが、報いは労苦を通して受ける代価です。私たちは神が恵みだけでなく、報いも与える方でおられるということを信じなければなりません。このような信仰がなければ、神を喜ばせることができません(ヘブル11:6)。イエスも報いを慕い求めたために、神を喜ばせることができました(マタイ3:17)。
今日、多くの人が信仰生活をしているといいながらも、実際には倫理や道徳を守ることに力を注いでいます。これはすべての宗教人に共通する姿です。人の義は他の人には認められますが、神には認められません。神がご覧になるときに、この世には義人がひとりもいません。それで、神は義人ひとりをこの世に遣わされました。その方がイエス・キリストでおられます。その方はこの地に来て私たちの代わりに死なれましたし、私たちはその方の功労によって救いを受けました。救いは私たちの労苦によって得たものではなく、神が価なしに与えてくださった賜物です。それで、これを恵みといいます。私たちが毎週、教会に行って礼拝をささげることができるのは一週間、罪を犯さなかったためでなく、恵みを受けたためです。
そうかと思えば、報いは神の御言葉に従ったために受けるものです。キリスト者の多くが習慣的に神に「祝福を与えてください。」と祈ります。彼らは「祈りさえすれば、祝福を得ることができる。」と考えます。しかし、祝福は一種の報いです。 私たちは祝福を求める前に果たして自分が神の御前で報いを受けるほどのことをしたのかを顧みなければなりません。
ある人がオリンピックでメダルを獲得したのであれば、それはその人が他の人と比較することができないほどの努力をし、犠牲を払ったということを意味します。幼いときから才能を発揮したとしてもその才能だけではその分野の最高となることはできません。才能をもった子どもが集まって毎日、訓練し、その中から最も立派な子どもだけが学校の代表に選ばれます。その子どもがさらに努力するのであれば、その地域の代表に選ばれます。そこからさらに努力するのであれば、全国の代表に選ばれますし、世界大会に出て行くことができます。そこで止まらないでさらに努力してこそ世界大会でメダルを獲得することができます。神に用いられるのも同じです。立派な資質をもっているからといって、神に用いられるわけではありません。さまざまな努力と犠牲を通して神に用いられる条件を備えなければなりません。
この世の人々も朽ちてなくなる報いを受けるためにそのように努力します。ましてや神から与えられる報いを受けるためにはどんなに努力して訓練しなければならないでしょうか? テモテへの手紙第一4章7~8節は「敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」といいました。ところが、ある人は聖霊を受けて御言葉の力を体験しながらも堕落します。これは芽が土の上に出て来たのちにすぐに枯れてしまうのと異なるところがありません。
報いのために放棄しなければならない
神は私たちに祝福を命じられました。主日を聖く守りなさいという御言葉も神が私たちに命じられた祝福のひとつです。神は聖日を守る者を覚えられます(民10:10)。それゆえ、神の関心を引こうとする者は主日を聖く守ります。ある人はこの世のことを成功させるために主日を無視します。そのようにしながら、どうして神の関心を引くことができるでしょうか? そのような人が突然、神に「祝福を与えてください。」というのであれば、果たして神はその人を認められるでしょうか?
アブラハムは祝福の根源となるために神に従いました。神はアブラハムに「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を離れなさい。あなたは祝福の根源となる。私はあなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者を呪う。」といわれました(創12:1~3)。彼は神の御言葉に従って故郷を離れ、旅人となりました。結局、祝福の根源となったアブラハムの家庭にイエス・キリストが来られました。神がアブラハムに語られた通りに今日、イエス・キリストを迎え入れる者は祝福を受けますし、拒む者は地獄に行きます。
アブラハムは祝福の根源となるために、100歳のときに得た子どもをささげなさいという神の戒めに従いました。イサクも神に従い、十分の一をささげました。ヤコブはペニエルで身もだえしながら祈って神から祝福を受けました。神は自分を紹介するときに「すべての人の神」といわないで、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」といわれました。これはアブラハムとイサクとヤコブのように従う者だけが祝福を受けることができるためでした。神が祝福を与えてくださらないと恨む前に、まず自分に祝福を受ける資格があるのかを顧みなければなりません。祝福は恵みとして与えられるのではなく、報いとして与えられるものであるということをはっきりと知らなければなりません。
自分の家庭が神に用いられる家庭とならなければなりません。自分自身はもちろん子孫も神に用いられることを慕い求める者とならなければなりません。ある人は自分の子どもの中で、しっかりとした子どもにはこの世のことをさせ、そうではない子どもは神にささげようと考えます。これは誤った考えです。神には良いものをささげなければなりません。
神は祝福を預け、その人を働かせます。しかし、神から与えられる祝福を喜んで担おうとする者が極めて少ないです。ヘブル人への手紙11章24~26節は「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」といいました。その当時、エジプトは世界で最も豊かな国でした。それゆえ、その宝はどんなにすばらしかったでしょうか? それにもかかわらず、モーセはエジプトの王子という地位を放棄して、キリストのために受ける苦難を選択しました。神はモーセのように祝福を担うことができる者を探しておられます。
神が私たちの家庭を訪れて戸を叩かれるときに私たちは遅滞することなく、戸を開けなければなりません(黙3:20)。天使がマリヤに現れ、神の御子をみごもると知らせたときに、マリヤは「本当に私は主のはしためです。どうぞ、あなたの御言葉通りにこの身になりますように。」と御言葉を受け入れました(ルカ1:30~38)。その当時、 処女がみごもるというのは命をかけなければならないことでしたが、マリヤは喜んで自分の家庭を神に差し出しました。このように私たちは家庭を神に差し出すことができなければなりません。
報いのために準備しなければならない
ある人は子孫が神に用いられることを願うといいながらも、そのために何の準備もしません。これは報いを受けるといいながら何の努力もしないということと異なるところがありません。神の働きを担うためには学ばなければならないことが多いです。神が願う者をいつ呼ばれるのかは誰も知ることができません。それゆえ、私たちは子どもが予め準備することができるように案内して、助けなければなりません。
私たちが神に「祝福してください!」と求めるのは「報いを与えてください!」というのと同じです。 私たちは果たして自分に報いを受ける資格があるのかを顧みなければなりません。神に用いられる準備ができているのかを顧みなければなりません。神が用いようとされるときに、資格がなくて、用いられない者となってはいけません。私たちは神の目をもって自分と家庭、そして、子孫を見て、予め準備しなければなりません。
最近は100歳時代といわれています。神に用いられるために自分を準備しなければならないのは若者だけではありません。歳を取った者が神から突然、呼ばれて用いられることもあります。それゆえ、歳を取ったとしても準備しなければなりません。経済的に余裕がなかったとしても準備しなければなりません。
神は私たちに祝福を預けることを願われます。問題は私たちに祝福を受ける資格があるのかということです。神をまことに愛するのであれば、心と思いとまことを尽くして自分を準備し、神から用いられるにふさわしい者とならなければなりません。自分だけでなく、家庭や子孫すべてが神の心をすっきりとさせる働き者となるように準備しなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室