私たちの目標は復活である
(コリント人への手紙第一 15:1~11)
神は
いのちの父でおられる
その方が
この世に信仰を与えられたが、すなわち復活である(ヨハネ11:25~26)
私たちは宗教を信じるのではなく、
神から与えられた信仰をもつ(ヨハネ20:27)
イエスは、すなわち復活でおられる
これを信じる者は救いを得る(ヨハネ20:29)
イエスの復活とはその方が予め語られた通りに、(マタイ16:21)
死者の中から生き返られたということである(マタイ28:5~10)
そのような信仰と力が伝えられたが、
これが福音であり、真理である(Ⅰコリント15:15)
私たちが主のように復活に至るためには
主イエスと結びつかなければならない(ローマ6:5)
このためには
まず罪の赦しを受けなければならないし、(使2:32)
この信仰の体験としてバプテスマを受けなければならないし、
聖霊を賜物として受けなければならない(ヨハネ3:5)
聖霊は私たちの死ぬべき体を生かしてくださる(ローマ8:11)
イエスの跡があってこそ
イエスの復活にあずかる
◎すべての肉体は結局、死ぬ
しかし、霊魂は復活に至る
必ず生きた者と死んだ者の復活がある
◎復活なしには
神に会うことができない
復活は、すなわち永遠のいのちである
◎復活の目標に向かって、
必ずこの世に勝利しなければならない
イエス・キリストとともに勝利しなければならない
※聖くなろう
忍耐によって復活を待とう
主イエスは真理でおられる
私たちの目標は復活である (コリント人への手紙第一 15:1~11)
神の遺伝子を受け継いだ私たちは永遠に生きる
神はいのちの父でおられます。ある人は父が財産を十分に与えてくれなかったという理由によって父を無視します。しかし、父が子どもに与えた最大の財産は遺伝子です。獣の遺伝子を受け継ぐのであれば、獣として生まれますし、人の遺伝子を受け継ぐのであれば、人として生まれます。私たちが神を父と呼ぶのは神が私たちを創造されたためでなく、神が私たちにその方の遺伝子を与えてくださったためです。
神は私たちにイエス・キリストと聖霊を遣わしてくださいました。これは神が創造されたものではなく、自分と永遠に分離することができない神固有のものを私たちに施してくださったということです。恵みを受けることができなかった者は神が創造されたものは得ることができたとしても、神固有のものは得ることができません。私たちは神固有のものを得た者です。もう一度言うと、神の遺伝子を得た者です。神が私たちに自分の遺伝子を与えてくださったのは私たちを神のように永遠に生かすためでした。
私たちの信仰の目標は復活である
イエス・キリストは神のふところからひとりお生まれになった神です。その方は女の体を通して人としてお生まれになりました。しかし、その方は人類のひとりではありませんし、アダムの血統とは関係がありません。それゆえ、その方には罪がありません。その方は人類の罪を贖うために十字架で死なれました。しかし、神はその方を三日目によみがえらせました。イエスは殺される前に「わたしは、よみがえりです。」(ヨハネ11:25)といった通りに、死者の中からよみがえられました。弟子たちはよみがえられたイエスをはっきりと見ました。彼らが迫害を受けながらも最後まで信仰を守ることができたのはイエスの復活を体験したためでした。
イエスの復活が重要な意味をもつのは「イエスを信じる者は復活する。」という神の約束があるためです。もし復活がないのであれば、イエスを信じる者こそこの世で最も哀れな者です。コリント人への手紙第一15章14~15節は「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活がないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」といいました。
信仰生活の目的は肉体がうまくいくところにあるのではありません。血肉の体はどんなに律法によって節制して訓練したとしても、天の御国を相続として受けることができません(Ⅰコリント15:50)。イエスを信じたとしても肉体の情欲は消えません。朽ちてなくなる肉体は天の御国を相続として受けることができません。天の御国を受け継ぐことができるのは神の恵みを受けた霊魂だけです。
神の恵みを受けた者はキリストの復活にあずかるためにバプテスマを受けます。バプテスマを受けるというのは教理によって定められた儀式を行うということではなく、真理に従うということですし、イエス・キリストに結びついてその方の復活にあずかるということです。使徒パウロは「私はこの身にイエスの焼き印を帯びている。」といいました(ガラテヤ6:17)。これは体が知覚することができる体験をもったという意味であり、具体的にはバプテスマを指します。バプテスマを受けたというのはイエスの死と復活にあずかったという意味ですし、イエスの死と復活についての証しを自分の体にもったという意味です。
キリスト者の信仰生活にははっきりとした目標があります。それは復活です(ピリピ3:8~14)。ある人は「十字架の目標に向かって進んでいく。」といいます。しかし、キリスト者の目標は十字架ではなく、復活です。十字架が意味するものは死です。私たちが日々、十字架を負って自分を殺すのは私たちに復活という目標があるためです。使徒パウロは「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:11~12)といいました。
復活するためには聖霊によって生きなければならない
最近、人工知能に関する話が話題となっています。少し前には人工知能が小説を書いたという知らせまで耳にしました。それが可能なのは小説がフィクションであるためです。人工知能がどんなに発達したとしても随筆を書くのは不可能です。なぜならば、随筆は作家の経験を基礎とするためです。聖書も文学ジャンルとして見ると、小説よりは随筆に近いです。なぜならば、聖書は神がなさる働きを見て聞いた者の体験を記録したものであるためです。
これからは説教者が人工知能から説教原稿の提供を受けるようになるかもしれません。しかし、人工知能が提供する説教原稿に聖霊の霊感が盛り込まれるでしょうか? 聖書は聖霊を受けた者が神から霊感を受けて記録したものです。霊魂のない人工知能が果たして聖霊を受けることができるでしょうか? 人工知能が作った説教原稿に霊感があるでしょうか? そのような説教原稿は捏造されたフィクションに過ぎません。ヨハネの黙示録8章11節は「この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」といいました。フィクションを神の御言葉として受け入れる者の霊魂は自分でも知らないうちに死んでいきます。
イエスがカペナウム会堂で御言葉を伝えられたときに、ある人から悪霊が現れ、離れて行きました。その姿を見た者は「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」(マルコ1:27)といいました。悪霊を従わせるのは永遠な権勢者でおられる神の口から出て来た御言葉だけです。果たして人工知能が作成した説教に悪霊が服従するでしょうか? 人工知能が提供した説教を聞きながら恵みを受けたと告白する者も出て来るでしょう。しかし、そのような霊魂は死んでいくしかありません。聖霊は神の御言葉があるところでだけ働かれるためです(Ⅰテサロニケ2:13)。
今日、多くの人が信仰生活を霊的にしないで、感情を従ってします。私たちは神本主義の信仰を固守しなければなりません。神本主義の信仰を守るというのは肉体にとってとても大変なことです。しかし、それが霊魂には生ける水となります。人が作った教理に基づいて信仰生活をする者は自然と感情に従うしかありません。そのような者は礼拝をささげながらも、自分の感情を満足させることに関心を置きます。私たちがはっきりと知らなければならないのは「神は霊でおられるために、霊とまことによって礼拝をささげる者を求めておられる。」という点です(ヨハネ4:23~24)。感情に従う者は教会で感情が傷つけられるときに教会を離れたりもします。これはその人自身だけではなく、その子孫にとっても不幸なことです。感情的な問題が生じるたびに教会に離れるのであれば、子どもの信仰がどのようにして根を下ろすことができるでしょうか? 主は私たちに復活を与えるために自分のいのちまで捨てられましたが、私たちは自分の感情に勝利することができないで、子どもの霊魂に害を与えています。これはとても恐ろしいことです。
復活の望みをもって復活に備えなさい
バプテスマを受けた者は単純に水に入って行ったのちに出て来た者ではなく、イエスの死を味わってイエスの復活にあずかった者、すなわちイエスの跡をもった者です。イエスが復活に向かって走っていかれたように、私たちも復活の目標に向かって走っていくバプテスマ人です(Ⅰコリント15:23~24)。キリスト者が主日に集まってイエスの復活を記念するのはそれが私たちにとって大きな約束であるためです。
主が再び来られるときまで私たちは復活に備える生涯を送らなければなりません。ヨハネの黙示録 19章7~8節は「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の 時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」といいました。聖徒の正しい行いをもつための前提条件は復活の望みをもつことです。復活の望みに満ちた者は自分がもった望みのために命を失う瞬間が訪れたとしても喜びによってそれを担います。
悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者に、神は聖霊を遣わされます。聖霊が私たちの中におられるために、神は私たちの死ぬべき体も生かしてくださるのです(ローマ8:11)。宗教は人に復活を与えることができません。ただ聖霊の証しを受ける者だけが復活にあずかることができます。それゆえ、私たちは聖霊と交わりをもたなければなりません。聖霊を消さないで、聖霊によって生きなければなりません。
人工知能の力は遠からず人間を凌駕します。聖霊の助けを受けることができない者はそのような時代を勝ち抜くことができません。イエスは「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)といわれました。教会には常に聖霊の働きが現れなければなりません。神の国の喜びの知らせが常に鳴り響いていかなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 03. 27.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
人間は母胎ですべての器官が作られ、10ヶ月後に完全な人間として生まれる。そして、人間らしい人格を備えるために生まれてからこの世を学ぶ。勉強をしたり、名誉を得たり、お金を稼いで金持ちになったりする。しかし、肉体という物理的な限界にぶつかって、ある日、この世を離れる。これを「生涯」といったりもする。
しかし、肉体が得たものをもって、また、その人格だけをもって永遠のいのちに入って行くことはできない。肉体と霊魂が分離されるときに、肉体に属したすべてのものを捨てるようになる。また、霊魂は神が定められた通りに裁きを受けなければならないし、その罪の価を受けなければならない。神はこのような道理を予め知っておられたために、人間を憐れんで生かすために御子をこの世に遣わされた。
御子がこの世に遣わされたのは父なる神の御心をなすためであった。イエスがこの世に来られたのは神がこの世に与えようとされた信仰を与えるためであった。イエスは、すなわち信仰である。その信仰の価値は神のひとり子と同じである。それゆえ、信仰をもつ者は神の御子をもつ者であるし、神の御子、すなわち信仰をもつ者は神の御子の価値を得た者である。それゆえ、神を父と呼ぶことができるし、神の子としての栄光を受ける。
この信仰は肉体にあるのではなく、霊魂にある。それゆえ、肉体はなくなったとしても、信仰は永遠になくなることなく、霊魂が行く「パラダイス」にともに行き、「神の国」、すなわち永遠に生きるところまで行き、永遠にともにするようになる。信仰は一時的にもったのちに捨てるものではなく、永遠にもつものである。この世の名誉はパラダイスにもっていくことができないし、物質も、知識ももっていくことができない。しかし、信仰はもっていくことができる。信仰の価値は永遠にもっていくことができる。
神が私にこの信仰を与えてくださったために、私は大きな価値をもっている。指にはめる宝石の指輪がどんなに高価であったとしても、天下よりは小さいし、また、決して天にもっていくことができない。天に行くときにはっきりともっていくことができるのはただ信仰だけである。信仰という価値は神のひとり子と等しい。信仰が神の御子であるように、私の霊魂の価値は神の子としての栄光を受けるものである。天にいる天使も否認することができないし、律法も否認することができない。ましてや悪魔も否認することができない。私が信仰によって悪魔と悪霊に勝利するのは彼らの力によっては信仰を否認することができないためである。
「神が私に信仰を与えてくださったために、私の中に信仰がある。」という事実が聖霊によって認められ、印を押されなければならない。ああ! どのような財産よりも大きな価値、「信仰」。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室