信仰の実状
(ヨハネの福音書 14:1~17)
神は
生きておられる
その方が
イエス・キリストによって自分をこの世に現し、
私たちに信仰を与えてくださった(ヨハネ3:16)
神を見た者はひとりもいないが、(ヨハネ1:18)
私たちはその方のふところから出て来られた方を見た
イエスはよみがえったのちに天に上り、
神の右の座に着き、(使7:56)
そこで私たちの住まいを備えておられる
時になると、必ず私たちを迎えに来られる
これが信仰であり、望みである(マタイ24:37)
私たちの信仰は宗教ではなく、実状である
イエスが父の中にいることによって(ヨハネ14:11)
力をもっておられるように、誰でも主を信じる者は
主がなさった働きをする(ヨハネ14:12)
このために
「聖霊を受けなさい」といわれた(使1:8)
無能さは信仰ではない(Ⅰコリント4:20)
イエスがなさった働きを私たちも当然に行わなければならない
聖霊は永遠にこれを保証される(ヨハネ14:16)
◎父なる神の中にいる
イエスが父の働きをなさるということを信じなさい
私たちの信仰は実状である
◎イエスを信じてその中にとどまる者は
イエスがなさった働きをする
私たちの信仰は宗教ではなく、実状である
◎イエスを信じる者は
イエスの力をもっている
イエスは昨日も今日も永遠に同じである
※どうして無能さを誇って
それを健全だと考えるのか?
無能さを悔い改めて力を受けなさい
信仰の実状 (ヨハネの福音書 14:1~17)
生きておられる神を知る信仰
神は生きておられます。神は生きているために今も自分の働きをなさいます。この世は神に対して関心をもちませんが、神は自分が定めたときに従って自分の働きをしておられます。ある人はキリストを信じるといいながらも、その方がすぐに来られないことに失望したり信仰に疑念を抱いたりもします。しかし、主がいつ来られるのかを論じる前に私たちがはっきりと知らなければならないことがあります。それはそれぞれこの地で享受することができる寿命があまり長くないという点です。
イスラエルの人々は自分がよく神に仕えていると考えていましたが、結局、イエス・キリストを殺しました。これは彼らがイエス・キリストを知らなかったためでした。イエスがこの地に来られたのは神の御心を行うためでした(ヨハネ6:38~39)。イエス・キリストを知らないというのはその方を遣わされた神の意図を知らないということですし、神の意図を知らないというのは結局、神を知らないということです。神を知らない者は必然的に神を無視する行動をとるしかありません。
イスラエルの人々は神の御言葉に接するときに、主にそれを法という側面から理解しようとしました。法を念頭におきながら生きるというのはその法を守ることができなかったときに伴う刑罰を常に意識して生きるということと同じです。それゆえ、神の御言葉を法と考える者は常に恐れと緊張の中で生きるしかありませんし、法を犯さないために偽善を行うしかありません。
神の御言葉に接するキリスト者の視角はイスラエルの人々の視角を超えます。神の御言葉は私たちにとっていのちです。神の御言葉を受け入れるというのは一定の掟を守るということではなく、神のいのちの供給を受けるということです。私たちが聖書を読むのは宗教の経典を読んで修養を積むためではなく、神がイエス・キリストを通してなさった働きを知ってその功労を受けるためです。
力ある信仰生活
イエスは私たちに力ある信仰生活を願われます。今日、多くのキリスト者は力のない生涯を送りながらもそれを当然なことと考えます。彼らは自分の力のなさを擁護するためにむしろ力ある聖徒を批判したりもします。これはパリサイ人と律法学者の過ちを繰り返すことです。イエスが彼らに「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。」(マタイ23:13)と叱られたのはどうしてでしょうか? それは彼らに敬虔の姿はあったとしても敬虔の力がなかったためでした(Ⅱテモテ3:5)。
パウロは「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(Ⅰコリント4:20)といいましたし、また、「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間で行われた、しるしと不思議と力あるわざです。」(Ⅱコリント12:12)といいました。イエスは「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば、病人はいやされます。」(マルコ16:17~18)といわれました。このように私たちの信仰と力は互いに分離して考えることができません。
イエスが12弟子を選んだのちになさったのは彼らに悪霊を追い出して病気を癒す力を与えることでした。イエスは彼らを遣わしながら「天の御国が近づいたと宣べ伝えなさい。病人を癒し、死んだ者を生き返らせ、らい病に冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたはただで受けたので、ただで与えなさい。」と命じられました(マタイ10:1~8)。果たして今日、キリスト者は主の命令に従っているでしょうか?
敵の前で受ける食事
人々が主の御言葉に従わないのは神の功労によって得るものと個人の功労によって得るものを区分することができないためです。恵みは神の義、すなわちイエス・キリストの功労によって得るものです。これは神が与えられる賜物であるために、私たちの功労や代価は必要がありません。私たちは罪人であり、死ななければならない者であり、悪魔の子であり、地獄の火に入らなければならない者でした。ところが、主が私たちの代わりに血を流して死なれ、神によってよみがえられ、私たちにいのちを与えてくださいました。主が私たちにいのちを与えてくださったのは恵みとしてです。聖霊も恵みとして与えられましたし、真理も恵みとして与えられましたし、御言葉の霊感も恵みとして与えられましたし、尊い血の霊感も恵みとして与えられましたし、聖霊の霊感も恵みとして与えられましたし、イエスの名も恵みとして与えられました。恵みは労苦がなかったとしても、無知であったとしても、貧しかったとしても、すべての者に与えられるものです。誰でも受け入れさえすれば、得ることができるものです。
その反面 、個人の義があってこそ得ることができるものがあります。恵みとして与えられたいのちや聖霊、信仰に満たされていたとしても自分の功労がないのであれば、この地で食事を受けることができません。詩篇23篇5節は「私の敵の前であなたは私のために食事をととのえ、」といわれましたが、この「食事」とは天で冠を受けるという意味ではなく、王がすべての人の前で食べ物を準備してともに食事をするという意味です。その食事は敵が存在するこの地で享受することができるものです。人々がこの食事を受けることができないのは神との約束を守らないためです。神の御前で約束したのであれば、遅滞しないで必ずそれを守らなければなりません(申23:21)。
神を恨まないで求めなさい
ある人は自分が計画することがうまくいかないときに、親が自分を助けなかったためであるといいながら、親を恨みます。しかし、成熟した者はどのような状況であっても親を恨む代わりに、自分を元気に育ててくれたという事実だけをもって親の恵みに感謝します。このような態度は神の御前でも同じように守らなければなりません。神から与えられたものをすべて忘れたまま「教会に出て来たとしてもなされることはひとつもない。」、「神は私の祈りを聞いてくださらない。」と神を恨んではいけません。神は私たちにすでに祈りの権利を与えてくださいました。求めないで、叩かないで、自ら努力をしないで神のせいにしてはいけません。
神から与えられた聖霊の賜物と力を生涯の中で現すためには私たち自身が神との約束を守らなければなりません。祈りを怠ける者に力がないのは当然なことです。従わない者、自暴自棄な者、体面を守るために御言葉に従わない者にしるしが現れないのは当然なことです。それゆえ、計画することがなされないときには神を恨むのではなく、自分の怠惰と不従順を悔い改めなければなりません。どのような状況であっても神の恵みを無視してはいけません。人がこの地で自分の功労によって得たものはそれがどんなに良いものであったとしても天にもって行くことができません。しかし、神が恵みとして与えられたものは永遠です。いのちも真理も永遠ですし、聖霊も永遠に私たちの中におられます。
信仰は実状です。私たちは宗教人にならないで、力がある聖徒にならなければなりません。主が要求される通りに力を得なければなりません。自分だけでなく、子孫たちも神の働きを現す者とならなければなりません。力がない自分の姿を発見したのであれば、悔い改めなければなりません。聖霊の力を豊かに所有することによって信仰の実状を現さなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 04. 10.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
いつの間にか私にも晩年が近づいてきた。この地で働くことができる時間は多くない。いつでも主が召されるのであれば、手にしていたことをすべて置いて、すぐに離れなければならない。私にはその日を準備する心が満ちている。
私はこの世にとどまっていた多くの日に何の価値があったのかをじっくりと考える。肉体はこの世に従いながらも、霊魂は神を愛する心によって生涯を送ってきた。私の前にはただ主が与えてくださる報いだけがあるために、一方では恐れ、もう一方では喜ぶ。私がこれまで熱心に教えてきたのは主から受けたものであるために、肉体に何も残さないで、すべてをこの世に注いで行こうとする。
ある人は「金箕東牧師は突然変異のような特別な存在である。」というが、これは不信仰であり、神の御言葉を信じない者の言い訳である。平凡な者が神の力と恵みを受けて働いただけであるが、これを認めようとしない。このようにして自分の無能さと怠惰を正当化しようとするのではないだろうか。
私は生涯、自分を誇らないで、ただ主だけを語ってきた。これは主から受けたものであったためである。それゆえ、教会員だけではなく、私に来て学んだ者にも「視無言は特別な人ではなく、極めて平凡な者であり、ただ神を信じて神に従う者である。」ということを再度、強調したい。私にあるものを誇るために説教するのではなく、すべての人が私のように神の力と恵みを受けてともに働くことができるという信仰を伝えたい。
私には大きな悩みがある。それはこのままでは視無言は伝説の存在となってしまうのではないかという悩みである。私たちの教会が力を失い、視無言がした働きを続けないのであれば、視無言は結局、伝説の存在となってしまう。そのようになれば、私たちに何の益があるだろうか? 私に来て学ぶ者も巧妙な用語だけを聞いてそれをただ引用する愚かな者とならないで、私のように純粋に信じて狂った者のように実践するのであれば、誰でも力をもつ。しかし、祈らないで怠けようとする者は視無言を伝説の存在と考える。
私は伝説の存在ではない。主の御言葉は常に生きていて続けて催促する。主は「私が父なる神の中にいることによってその方の働きをするように、あなたがたも私の中にいることによって私がした働きをするし、また、それよりも大きな働きもする。」といわれる。そして、「私を信じる者は私の名によって悪霊を追い出し、力を行う。」といわれる。
視無言を伝説の存在にしないで、イエスの中で力ある信仰をもちましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室