
聖霊に逆らってはいけない
(マタイの福音書 12:31~37)
キリストは
神の御心を成就するために
死ぬまで苦難を受けられた
神の御心はこれほど大きくて貴重なものである
その方が天に上り、
助け主の聖霊をこの世に遣わされたが、(ヨハネ15:26)
そのようにされたのも
神の御心を成就するためであった
天の働きは神がなさる
キリストは死ぬまで神の働きをなさったし、
聖霊もこの世の終わりまで
神の働きをなさる(マタイ28:19~20)
しかし、聖霊の働きは
聖徒の霊魂によって制限を受けるし、強制的ではない
それゆえ、聖徒が聖霊に従うのであれば、
神の御心を成就することができるが、
聖霊に逆らうのであれば、
神の御心を制限するようになる
聖徒は必ず
聖霊によって感動を受けなければならない
◎私たちは絶えることがない悔い改めと謙遜を通して、
受けた恵みに対する
感謝の心を守らなければならない
◎私たちは礼拝と公的な集会を通して
聖霊の感動をともに受ける教会となるように
最善を尽くさなければならない
◎私たちは聖霊によって感動を受け、霊魂の救いと
教会成長のために
まことに奉仕する教会とならなければならない
※私たちがひとつになってこそ、
聖霊の働きにあずかることができる
個人の思いを聖霊の前で屈服させなければならない
私たちはひとつになって聖霊に従おう
聖霊に逆らってはいけない (マタイの福音書 12:31~37)
神の御心
神の御心はあらゆるところに存在します。神の御心は人類が存在する前、この世が存在する前から存在しました。それゆえ、神の御心は何よりも優先されなければなりません。神はその御心を必ず成就されます。その御心に反対するというのは神の働きを妨害するということです。神は人間が悟ることができない間にも続けてその御心を成就されます。
神の御心はすべてのものの存在根拠ですし、今もすべてを導いています。人間が神の御心に背いてはいけない理由がここにあります。しかも、キリスト者は神をよく知っているためにさらに神の御心を歓迎しなければなりません。神はその御心によって私たちを救い、永遠な国に導いてくださいます。神の御心は私たちが避けなければならない対象ではありません。神は私たちの永遠な望みです。
イエス・キリストと神の御心
イエス・キリストは神の御心がこの地でどのような待遇を受けなければならないのかをはっきりと見せられました。その方は神の御心を成就するために自分の命を捨てられました。神の御心を成就するためには神が愛する御子さえも殺されなければなりませんでした。これを通して私たちは神の御心がどんなに大きいのかを知ることができます。
イエス・キリストは父の戒めに従って死を迎える前にゲッセマネで祈られました。その方がこの地の過酷な環境を体験しながらもたれた心は神の御心と衝突しました。しかし、その方は神の御心に反対されませんでした。その方は自分の考えを神の御前で明らかにして「できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。」と告白されましたが、結局は「私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」と祈られました(マタイ26:39)。
イエスが神の御心に従われたのは第一に、その方がキリストという職分をもっておられたためでした。キリストがしなければならなかったのは神の御心を成就することでした。また、イエスが神の御心に従われたのは第二に、その方が神の御子でおられたためでした。神と御子の関係はこの世に存在する父子関係の原型です。父の心に従うという義務をもっているのが子という身分です。
神の御心の前で私たちが置かれた状況もこれと異なるところがありません。私たちも主と同じ職分をもっています。私たちがもっている共通の職分はイエスの名をもつ者という職分です。神が私たちにイエスの名を与えてくださったのはその名によって神の働きを成就して神に栄光を帰すためでした。また、私たちがもっているもうひとつの、主と同じ条件は神の子という条件です。
聖霊と神の御心
イエスは天に上る前に、この地で続けて自分の働きをすることができる装置を私たちに残されました。その方は弟子たちに「エルサレムを離れてはいけない。聖霊を受けるときまで待ちなさい。」といわれました(使1:4~5)。この部分は教会が誕生する重要な場面です。人々が集まって熱く祈り、切に待っていたところに聖霊が臨まれましたし、これによって教会が誕生しました。ヨハネの手紙第一4章13節は「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」といいました。主は聖霊を通して教会を導かれます。私たちは自分の中におられる主の働きが成功するように助けなければなりません。
今日、神の御心は危機に追い込まれています。以前、イエスが人々に苦しみを受けられたように、今は神の御心が人々から拒まれています。聖霊を妨害する者はこの世の人々ではなく、聖徒です。この世の人々は聖霊を受けることも知ることもできないために、聖霊に逆らうこともできません。しかし、聖徒は一日に何度も神の御心と衝突します。
旧約時代には神がその御心を拒む者から神の霊を取り去られましたが、インマヌエルを約束された今日は聖霊が離れて行かない代わりに、その人の中から聖霊の働きが次第に消えていきます(Ⅰテサロニケ5:19)。主が私たちに聖霊を遣わしてくださったのは私たちを聖霊に従わせるためです(ヨハネ 16:13)。多くの人が聖霊を自分の協力者と考えていますが、主は私たちが聖霊に協力することを願われます(詩23:3)。
私たちはしばしば神の御心を自分の主張に合わせようとして歪曲します。そのようなことを繰り返したのちに神の御心と反対のことをしながらも、それを正当化することもあります。それは神を試みることです。神の御心に逆らったときに神が果たして呪いを下されるのかと試みるのは愚かなことです。イエスは「聖霊に逆らうことを言う者は、だれであってもこの世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:32)と警告されました。
教会と神の御心
聖霊が教会を通して神の御心をなそうとされるときに、私たちは教会がすることに対してどのような態度を取るのか、特に注意を払わなければなりません。自分でも知らない間に聖霊を試みることがないようにしなければなりません。ひとりひとり考え方が異なるというのは当然なことです。そのような人々がひとつになって働くというのは聖霊によらなければ、不可能なことです。聖霊は神の血によって買い取られた教会を導くために監督者を用いられます。これは神が定められた方法であるために、誰もそれに対して正しい、悪いということはできません。
神は聖徒が集まってともにささげる礼拝を貴く考え、その中で特別に働かれます。末世が近づくほど、人々は信仰生活においても個人主義的な性向を強く現します。彼らは神が信者をそれぞれ導かれると考えるだけであって、それが教会を通して、そして、監督者を通して成就されるとは考えません。教会がすることに従うというのは聖徒が生涯、担わなければならない義務です。聖徒の存在目的は聖霊が働かれるときに自分をささげるというところにあります。
イエスが私たちに聖霊を遣わしながら心配されたのは「私は苦難や蔑視を受けたが、聖霊はそのような待遇を受けてはいけない。」ということでした。再び過去のような蔑視を受けないために主は「私は聖徒の中でだけ働く。それゆえ、あなたがたは聖霊に従って行いなさい。」といわれました。しかし、残念なことに聖霊は聖徒の中で妨害を受けておられます。
私たちはこの地にとどまる短い間、神の御心を成就する聖なる道具とならなければなりません。私たちは永遠な国を見る者です。主は「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 」(ヨハネ17:24)と祈られました。主の栄光をともに見るという事実を考えるだけでも、私たちは十分に自分を捨てることができます。現在の苦難は将来、私たちに現れる栄光に比べれば、取るに足りないものです(ローマ8:18~21)。
私たちは自分が救いを受けたと安心しないで、教会がもった「霊魂の救い」という任務を遂行しなければなりません。これからは他の人を救うために自分を変えなければなりません。イエスが与えられた新しい戒めを実践することによって、神が自分の働きを成就されることにおいて不便でないようにしなければなりません。聖霊の働きを妨げないように自分を戒める訓練をしなければなりません。
聖徒が互いに助け合うのはイエスが与えられた新しい戒めを実践する道です。神が私たちを集めて教会として建ててともに信仰生活をさせるのは互いに励まし合わせるためです。この世の苦難と敵に勝利する力が足りない者がいるのであれば、その人が勝利することができるように助けなければなりません。教会の神、私たちを養育される真理の聖霊が私たちを通して思い通りに神の御心を広げられるようにしなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 04. 17.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私は幸せが何であるのかを知っている。これは私が自由であるためである。自由は「放縦」をいうのではなく、すべての抑圧を克服することができる「信仰」をいう。神は自由でおられる。その方は天と地、どこででも制限を受けられない。人々がその方を無視して拒んだとしてもその方には関係がない。その方にだけ最後の勝利があるし、その方だけが永遠でおられる。
私は私の霊魂が願うものが何であるのかを知っている。私の霊魂は神が許された真理を頼る。肉体の働きは霊魂を妨害するが、神の真理は霊魂を自由にする。神のすべての御言葉と力が私の霊魂に幸せを与える。
御言葉の霊感、尊い血の霊感、聖霊の霊感は私の霊魂に慰めと力と満足を与える。肉体は肉体の道を行くが、霊魂は霊の道を行く。今、私は肉体に属しているのであろうか? あるいは、霊魂に属しているのであろうか? 実は2つすべてに属している。それゆえ、「肉体通りに生きるのであれば、必ず死ぬが、霊魂のために生きるのであれば、永遠に生きる。」ということを疑わない。
説教壇で神の御言葉と神の国について伝えるときに、私の霊魂は幸せを感じる。幸せに満ちる。私は疑わないために幸せである。私の霊魂を支配する勢力は何もない。私は霊魂が願うことであるのならば、何であっても同意する。
野花は背が高かったとしても、低かったとしても関係がない。ただ自分の季節に自分の姿を現しているのが自由である。信者でありながらも信仰を通して幸せを得ることができないのであれば、自由がない。私の霊魂が願うものは神が知っておられるし、イエス・キリストによってすべて許された。私の霊魂に力がないのであれば、私は不幸である。
霊魂が喜ぶのであれば、神に献身しようとする。説教したり文章を書いたりするのは私の霊魂を休ませないためであり、怠けさせないためである。それが私の自由である。神に仕える喜びは私の霊魂の自由である。私が私のすべてを神にささげるのは私の霊魂の自由である。肉体のためにすべてを犠牲したとしても、限界がある。生涯、肉体のために働いてきたのは老いてこれ以上、耐えることがむずかしい弱い体である。しかし、霊魂のために生きてきた生活は日々、その光に近づきながら、霊魂が豊かに受けた栄光を喜ぶ。
外なる人は衰えて、力と意欲を失っている。しかし、霊魂は日々、新しくなり、力に満ちる。肉体によるのであれば、霊魂はつまづく。しかし、霊魂を愛するのが私の自由であるために、私は自由を享受しようとする。私は自由である。私は神のために、霊魂のために生きる。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室