神の幸せによって幸せになろう
(マタイの福音書 5:1~12)
神は
祝福を造られた方であり、その祝福を命じられる方である(民23:20)
その方が命じられた祝福はふたつである
ひとつは物質世界での生活のためのものであり、
もうひとつは霊的なもの、すなわち永遠な祝福である(詩133:3)
すべての人間は物質世界での生活のための祝福を受けた(創1:28)
しかし、霊的な祝福は
神の祝福によって幸せな者だけがもつ祝福である
神の幸せによって幸せになるのは
この世が与える幸せとは次元が異なる、
極めて大きな祝福である
キリストのために働くというのは
エジプトの宝にまさる大きな富のようなものである(ヘブル11:25)
神の幸せとは
その方の教会のために自分をささげる霊魂だけが
享受することができる特権である
神は神の幸せがあるところにとどまり、(創2:3)
愛と謙遜と忍耐をもってその方の教会に
仕える者と
ともに、神の幸せによってとどまられる
◎私たちは悔い改めと変えられた姿を通して
神の幸せによってだけ幸せになろうと
決断しなければならない
◎神の幸せは
主の教会を愛する熱心さを現す
心霊の中にとどまるという事実を覚えなければならない
◎新しい戒めは
神の幸せによって私たちを保存するために
与えられた最も大きな命令である
※私たちは
主の体である教会に向けられた愛を実践することによって
私たちのために命じられた神の幸せを
拒まないようにしよう
神の幸せによって幸せになろう (マタイの福音書 5:1~12)
祝福についての概念を変えよう
神は祝福を造った方でおられますし、また、その祝福を命じる方でおられます。神が与えられる祝福は大きく2つに分けることができますが、ひとつは物質的な祝福であり、もうひとつは霊的な祝福です。物質的な祝福は増えて地を従える権利として得えられたものであり、人類全体が受けた普遍的な祝福です(創1:28)。また、霊的な祝福はキリストの中にいる者だけに与えられたさらに特別な祝福です。
イスラエルの歴史の中には神の祝福を受ける方法が含まれています。イスラエルは神が定められた掟通りに神に仕え、節期ごとに恵みに感謝することによって神の祝福を受けました。このような祝福を受ける方法はイスラエルだけではなく、神の御前にいる者すべてに同じように適用されます。
残念ながらも、今日、キリスト者は以前、イスラエルが見せた透徹した信仰精神をなかなか見せることができていません。現代人は何か問題があるときに自分を顧みるよりもまず他の人のせいにするという傾向が強いです。これはキリスト者も例外ではなく、試練にぶつかったときに自分の過ちを悔い改めようとするよりもすぐに神を誤解したりします。もし私たちが以前のイスラエルのように、神とともに歩むことを願ってその方の苦難の中に入って行くことを当然なことと考えるのであれば、神は私たちとともにして、祝福を与えてくださいます。
これからは祝福についての概念を変えなければなりません。祝福といえば、人々はすぐに物質的な豊かさを考えます。たとえば、事業に成功して経済的な利益を得るのであれば、神が祝福を与えてくださったと考えます。しかし、神の関心は将来、消えていくものにあるのではありません。私たちがまことに祝福を受けようとするのであれば、まず神の幸せがどこにあるのかを知らなければなりません。
罪によって神との間で葛藤をもってはいけない
神は6日間、天地万物を造られました。そのとき、神は自分の御言葉通りに造られたものすべてを良しとされましたが、それらを造った6日間のどの日にも休まれませんでした。神が心を置かれたのは7日目でした。神はその日を祝福して聖であるとしたのちに、その日に休まれました。その日は神が自らとどまられた日でしたし、神が幸せを感じられた日でした。これと同じように、この世には多くの人がいますが、その中には特別に神が自らとどまって喜びを感じられる霊魂がいます。
モーセはエジプトの王子として享受することができる喜びをすべて放棄し、キリストのために受ける苦難を貴く考えました。モーセは漠然と未来を見ただけでしたが、信仰によって神とともに歩み、苦痛に耐えながらキリストを備える神の働きを助けました。へブル人への手紙11章にはエノク、ノア、アブラハムなど、モーセのような部類の人々が列挙されていますが、彼らは共通して、キリストのために用いられることを幸せと考えました。
私たちが神の安息について語るときに、はっきりと知らなければならないことがあります。それは罪があるところでは神が休むことができないという事実です。聖書が語っている罪は大きく3つに分けることができます。第一はアダムとエバが悪魔の惑わしを受けて善悪の知識の木の実を食べることによって犯した原罪ですし、第二は神の関心を無視して肉体の欲に従って行った結果ですし、第三は肉体の欲に従おうという心の属性です。それは他の言葉では情欲ともいいますが、常に神の御心と葛藤を引き起こします。もし私たちがこのようなものによってしばしば神の御心と葛藤をもつのであれば、神とともに歩むことによって与えられる神の幸せを享受することができなくなります。
仕えられたイエスの模範に従おう
イエスは山に上り、祝福を受けた者、すなわち神の幸せによって幸せになった者について語られました(マタイ5:1~12)。祝福を受けた者とは神の幸せによって幸せになった者をいいます。神の幸せによって幸せになった者は、すなわち心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渴いている者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、そして、義のために迫害されている者です。このようなさまざまな特徴が指しているものは他ならぬ今日のキリスト教会の聖徒です。イエスが祝福を受けた者について語られたのは未来に現れるキリスト者についての青写真を予め見せるためであり、その方がともに歩もうとされる者の基準を提示するためでした。
イエスは祝福を受けた者について、この世の人々がやさしく受け入れることができない概念を提示されました。イエスが語られた祝福を受けた者は一見すると、この世で常に損をするように見えますが、神はこのような人の中に自分の幸せを発見して、報いを与えると約束されました。それゆえ、私たちは教会の働きをなすためにこの世で損をして苦難を受けたとしても、そのすべてに永遠な報いがあるということを知らなければなりません。
新しい戒めを守って、神の幸せを享受しよう
私たちは悔い改めと変えられた姿を通して、神の幸せによってだけ幸せになろうと決断しなければなりません。私たちの信仰は悔い改めを通してはじまります。悔い改めてバプテスマを受けた霊魂に聖霊が臨まれますし、そのときから私たちの生涯は変えられます。イエスを信じる前の生涯とイエスを信じたのちの生涯は異ならなければなりません。以前は傲慢で、利己的であったとしても、イエスを信じたのちには謙遜な者、犠牲を払う者とならなければなりません。
私たちの品性が古い人を捨てることができないのであれば、神の働きが妨害を受けるしかありません。キリスト者となったのであれば、過去にもっていた鋭利な性格を捨てなければなりません。怒りやすい姿、自己中心的な姿を捨てて、平和をつくる者とならなければなりません。教会で他の聖徒を尊重して親切を施さなければなりません。このように変わるために私たちは続けて努力しなければなりません。
神の幸せは主の教会を愛する霊魂の中にとどまります。それぞれが自分よりも教会を考え、他の聖徒を尊重し、この世に勝利するために力を集めようとする器官とならなければなりませんし、また、そのような意識をもって教会生活をしなければなりません。教会で周りを顧みようとするのであれば、私たちが関心をもたなければならない領域は多いです。私たちは教会の器官として教会の重荷をともに負うために努力しなければなりません。
新しい戒めは私たちを神の幸せによって保つために主が与えられた最も大きな命令です。 新しい戒めはこの世が終わるまで教会が必ず守るように、イエスが自ら語られたものであり、弟子たちが初代教会以来、続けて教えてきた大きな戒めです。新しい戒めにとどまらない者は神を体験することもできませんし、天国の報いや慰めを期待することもできません。私たちは必ず新しい戒めを守らなければなりません。主の体である教会を愛することによって、神が私たちに命じられた幸せを享受しなければなりません。
神は私たちが神の幸せによって幸せになることを願われます。この世は私たちの苦難を知ることができませんが、私たちは神の幸せを得るために苦痛と犠牲を甘受しなければなりません。神が喜ばれる働きをする過程で多くの苦難を受けることもあります。しかし、私たちの永遠な幸せは神の幸せの中にあるということを覚えなければなりません。神が私たちの中で幸せにおられるときに、私たちも神が感じられる幸せをともに享受するようになります。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室