イエスの肉と血
(ヨハネの福音書 6:41~59)
神は
生きておられる
その方が
この世に永遠のいのちを与えるために、ひとりお生まれになった
神の御子を遣わされたので、(ヨハネ3:16)
イエスは天から下って来た永遠のいのちである(ヨハネ6:48)
肉体には自然寿命を得させたが、
霊魂には永遠のいのちを得させようとされた(ヨハネ6:63)
私たちは信仰によって
神を見るし、その方の肉と血によって
永遠のいのちを得る(ヨハネ6:53~55)
イエスを見た者は父を見た者である(ヨハネ14:9)
父を見た者はその方のいのちをもち、
その方の力をもち、その方の証人となる(ヨハネ14:17)
宗教と迷信を信じる者は自分の信じるものを
見せることができないが、
神を信じる者は自分の信じるものを
十分に見せることができる(マルコ16:20)
私たちの信仰は実状なので、
聖霊と御言葉と血の力がある
私たちはその方を迎え入れた神殿である(Ⅰコリント3:16~17)
◎神を見て迎え入れなければならない
イエスは父のかたちであり、
神の命令である
◎イエスを信じる者はその方がなさった働きをするし、
その方よりも大きな働きをする
すなわち、地の果てまでその方の証人となる
◎聖餐は実状の働きを覚えるものである
イエスの血は十字架から現在まで、
そして、永遠に働く
※神を見ることができないからといって失望しないで、
イエスを見てその方を迎え入れなければならない
イエスはその方の人の中におられる
イエスの肉と血 (ヨハネの福音書 6:41~59)
私たちに永遠のいのちを与えようとされる神
神は生きておられます。それゆえ、その方は今も私たちに恵みと祝福を与えてくださいますし、栄光と力を施してくださいます。神はこの世を愛してイエス・キリストを遣わされましたし、これを通して神固有の永遠のいのちを私たちに与えてくださいました。多くの人は神を頼ってこの地での生涯を豊かに送ることに関心をもっています。しかし、神がイエス・キリストを通して私たちに施してくださったものの中で最も大きなものは永遠のいのちです。
人間であれ、獣であれ、すべての肉体は自然寿命をもって生まれます。今日は医学が発達することによって人の平均寿命が以前よりも長くなりましたが、どんなに良い食べ物を食べて熱心に運動をしたとしても肉体は120年という自然寿命の限界を脱け出すことができません。それゆえ、肉体は永遠のいのちを担うことができません。今、私たちが永遠のいのちを所有することができるのは神が私たちに霊を注いでくださったためです。
イエスがこの地に来られたのは父の御心を行うためでした。父の御心は御子を信じる者がみな永遠のいのちを得るということでした(ヨハネ6:38~40)。イエスは「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)といわれました。肉体に属した者はイエスが神の御子でおられるという事実を発見することができません。これと同じように、肉体に属した者は永遠のいのちを見ることも受けることもできません。しかし、キリスト者は誰でも永遠のいのちに対する望みをもっています。
ある人は「私に向けられた神の御心が何であるのか、よくわかりません。」といいます。このような人は神の御心について誤解している場合が多いです。いわゆる「神の意図」を知るというのは一幅の絵を見るように神の御心を全面的に知るということです。神の御心を知るためには神がなさったことを全面的に理解しなければなりません。神の御心は私たちがイエス・キリストの中で永遠のいのちを得るということです。
イエスの血と肉
聖餐をするときにぶどう酒を飲むというのは実際にイエスの血を飲むということではありません。人々が毎年、誕生日を祝うのは自分が生まれた日を記念するためです。また、誕生日プレゼントは生きている人のためにするものであって、故人のためにするものではありません。もう一度言うと、誕生日を記念するというのは自分の出生を記念するということですし、また、自分が生きているのを記念するということです。これと同じように、聖餐は神の御子が肉体をもってこの地に来たのちに血を流して死なれたという事実を覚えるものですし、また、これを通して私たちが罪の赦しを受けて罪から脱け出したという事実を認めるものです。
私たちは本来、悪魔の支配を受ける罪人でした。そのような私たちがイエスの血によって罪の赦しを受けて義人という身分を得ました。イエスを信じる者と信じない者の差はイエスの血によって聖くなったのかという点にあります。外見的には何の差がなかったとしても、神の目にははっきりと区別されます。
イエスは「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)といわれました。主の血によって私たちは永遠な死から脱け出すようになりました。今、私たちに重要なのは永遠のいのちを得ることです。永遠のいのちを得るためにはイエスの肉を食べなければなりません(ヨハネ6:54)。イエスは御言葉が肉体となって来られた方です(ヨハネ1:14)。その御言葉は、すなわち永遠のいのちです(ヨハネ12:50)。それゆえ、神がイエスを遣わされたというのは「永遠のいのちを得なさい。」という命令と同じです。イエスの肉を食べるというのはその方の御言葉に従うということです。
コリント人への手紙第二13章5節は「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―」といいました。自分が永遠のいのちを所有した者であるのかは他の人に尋ねてみる必要がありません。自分がイエスの御言葉と関係がある者であるのかは自分がよく知っているためです。
福音伝道と力
私たちはイエスの血を飲んで罪を赦しを受け、イエスの肉を食べて永遠のいのちを得た者です。私たちの中に臨んだ聖霊がこの事実を証しされます(Ⅱコリント1:22)。聖霊は目に見えませんが、信じる者に臨んでその人から自分を現されます(Ⅰコリント12:7)。聖霊を受けた者は異言を語りはじめます。地に種を植えると、まず芽が出て来ますし、それが成長して幹となります。また、そこから花を咲かせ、実を結びます。このように異言によってはじまった聖霊の現れはとどまることなく続けて進歩しなければなりません。残念なのは聖霊を受けた者のほとんどが異言を語ることに満足し、それ以上、先に進むことができないという事実です。
イエスは弟子たちを遣わして福音を伝えさせるときに「病人を癒し、死んだ者を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」といわれましたし(マタイ10:7~8)、天に上る前にも「信じる者には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、病人を癒します。」といわれました(マルコ16:17)。聖霊が私たちの中におられるのであれば、イエスが約束されたこのような働きが今日も私たちに起こらなければなりません。
イエスを信じる者は聖霊がとどまられる神の神殿です。聖書は「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。」(Ⅱコリント6:14~16)といい、また、「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:17)といいました。私たちは自分が聖なる神殿であるという事実をはっきりと認識して、自分の中におられる聖霊を思い通りに働かせなければなりません。
聖霊の証し
聖餐の意味は自分が神の神殿であるということを認めるところにあります。コリント人への手紙第一11章26~27節は「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」といいました。イエスの血を飲んで肉を食べたのであれば、これからはそれを他の人にも伝えなければなりません。これを助けるために聖霊が私たちに臨み、私たちの中で働かれるのです。
キリスト者であれば誰でも力を使うことができます。力が現れないのであれば、それはイエスの御言葉に従っていないためです。神は神殿となった自分の身分を知る者を喜ばれますし、聖霊はそのような人を通して働かれます。聖霊を迎え入れた者はこれ以上、神とこの世の間でうろうろしていてはいけません。エリヤはカルメル山にバアルの預言者たちを集め、イスラエルの民に向かって「お前たちはいつまでどっちつかずにうろうろしているのか? もし主が神であるのならば、それに従い、もしバアルが神であるのならば、それに従いなさい。」と叫びました(Ⅰ列18:21)。それにもかかわらず、続けてバアルの味方をした者はすべて滅びました。
誰かを深く愛するようになるのであれば、他の人には理解することができない行動も躊躇なくするようになります。私たちはイエスを愛する者です。信じない者の目にはイエス・キリストを証しする私たちの努力がおかしく見えることもあります。しかし、神はそのような私たちを喜ばれますし、聖霊はそのような私たちの中で豊かな賜物と力によって私たちとともに働かれます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 05. 01.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
60年、ただひとつの道だけを走ってきた。過ぎ去ったことが昨日のことのようであるが、すでに一生涯を消耗した。初めから神の恵みを多く受けたので、その力によって今日に至った。ただ聖書に似ようという霊的な生活が中心であった。聖書以外には何の目標も見つけることができなかった。ただ聖書にあるひとつの道だけを見つめてきたが、その道はイエス・キリストであった。
私は主の声を聞いて変えられたときから今まで、その道以外の他の道を探さないで、続けて献身しようとしてきた。私の中に情欲があって多くの誘惑に苦しめられたりもしたが、私の霊魂が進んで行かなければならないその道から離れることはなかった。この道で迫害や嘲弄、無視を受けたりこの世から徹底的に排除されたりしたが、それでも曲げることはなかった。これは私の中にいのちの種があったためである。神が私を愛してくださったその大きな愛が川のように私の中で流れていたためである。変わることがない松竹岩の精神が私を守ってくれた。
今は若いときのように力はないし、肉体の正常な機能さえもすべて失われてしまった。医者は医学的な身体機能はただ10%だけ残っているといった。人々は私の外見だけを見て「元気ですね。力に満ちあふれていますね。」と慰めるが、実際には90%の身体機能が失われてしまったし、私が私の体をつかむ力さえもない。これからはゆっくり、いや、熱心にすべてを下ろさなければならない。しかし、私が生涯、注ぎ込んできたひとつの道を後世が忘れてはいけない。
教会は聖書に似なければならないし、聖徒は教会に似なければならない。私たちの教会の説教壇は荒野の岩であるために、その岩から出て来る水をすべてに飲ませなければならない。説教壇はただ主の御顔でなければならないし、力を尽くして切に祈られる主の声でなければならない。教会員が説教壇の前から早く離れようとするときにはすでに霊的に病気にかかっているのである。
祈らなかったとしても力があるふりをするのであれば、裁きを免れることができない。祈りなしに霊力を期待するのは神をあざむくことである。私たちの教会はただ祈って力をもち、この世を支配しようとする悪魔に大胆に敵対する教会でなければならない。全世界の人々が聖楽教会を学ぼうとしなければならない。
「神の意図」神学が活発に起こらなければならない。全世界のどこであっても聖楽教会員は力がある聖徒として認識されなければならない。私たちがすでに世俗化してしまった他の教会と同じようになるのであれば、神の御顔を見ることができない。ねたみ、悪口を言い、つぶやく人々を恐れてはいけない。ただイエスの狭い道が大きな道として見えなければならない。これは私に残っている10%をすべて使うために涙とせわしい呼吸をもって私たちに勧めるところである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室