キリスト教会がはじまった日
(使徒の働き2:1~13)
神は
この世を愛された
この世のために罪を贖い、
自分の御子に血を流させた(ヨハネ3:14~16)
その血を信じる者すべてを広間に集め、
聖霊によって感動を与え、
異言を語らせた(使2:2~4)
これがキリスト教会の初めである
聖霊は
教会のすべての人々に異言を語らせ、それによって
古い人を新しい人、すなわち自分の人として造られる
異言は聖霊によって感動を受けた者が
霊によって霊の真実を神に語るものである(Ⅰコリント14:2)
異言はそれぞれ個人が神の子になったという
証しを現す機会である
また、自分がキリストのための存在であるということを
神に現す方法である
人の舌は本来、制するのがむずかしいが、(ヤコブ3:8)
異言を語り出したのちには
言葉と考えと行動が変えられるし、
初めて主の教会で
聖霊の導きを受けることができるようになる
◎聖霊に満たされて、
私たちの舌を
神にゆだねよう(ヤコブ3:6)
◎聖霊に満たされて、
私たちの全人格を
変えよう
◎聖徒に向けられた愛と配慮は
異言を語る聖徒の基本的な義務である
※聖霊に満たされて、
教会を養育される主に
忠誠を尽くそう
キリスト教会がはじまった日 (使徒の働き 2:1~13)
異言の意味を考察しよう
異言を語るというのはその人が神と近い関係にあるということを意味します。それは神から大きな特権を得たということです。そのような特権をもった者が教会に集まってともに異言で祈るというのはさらに貴いことです。教会の本質はひとつになることにあります。異言によってともに祈った教会がひとつになることができないで、互いに非難したり党派を作ったりしてはいけません。異言を語る者は神からそれを与えられた意味をはっきりと知らなければなりません。
異言は個人が神の子となったということを確認する機会
異言を語ることにはふたつの意味があります。第一に、異言を語る者はそれを通して自分が神の子であるという事実を確認することができます。主はこの地に来て死ぬことによって私たちを救ってくださいました。しかし、もし主が死んでよみがえられなかったのであれば、私たちは救いを受けたとしても天国に入って行くときまで導きを受けることができなかったでしょう。主は死ぬことによって私たちを救ってくださっただけでなく、よみがえって私たちに神の子となる権勢を与えてくださいました。ヨハネの福音書1章12節は「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」といいました。神の子となるためにはイエスの名を信じなければなりません。イエスの名を信じるというのはイエスを迎え入れるということですし、イエスを迎え入れるというのは主をキリストとして受け入れるということです。また、これはイエスが血を流して私たちの罪を贖ってくださったという事実を信じて受け入れるということです。聖霊はイエスを自分の主と認めてその方に従おうと決心した者に臨み、その人が神の子になったという事実を証しされます。もう一度言うと、異言を語るというのは私たちが神の子になったという事実について聖霊の証しを受けるということです。
異言は自分がキリストのしもべであるということを現すもの
異言を語ることの第二の意味は異言を語る者がキリストのための存在、すなわちキリストのしもべであるという事実を神の御前に現すということです。異言を語るというのは神がその人の舌を制御されるということです。舌を制御するというのは結局、その人のすべてを制御するという意味です。舌は欲望を実現する出発点であり、欲望をさらに活性化させる触媒であり、欲望が出入りする窓口であり、欲望の願いを成就する道具であり、武器です。この世で最も制御しにくいものが舌です。この世のどのようなものも人によって制御されますが、舌はそうではありません。舌の力はすごいです。海を航海する大きな船もひとつの小さな舵によって操縦することができるように、舌は小さな器官ですが、体全体を左右する威力をもっています。山全体を燃やす火も最初は小さな炎からはじまるように、舌は人生全体を燃やす火です(ヤコブ3:6)。舌は人を殺す毒に満ちています(ヤコブ3:8)。舌は人がどんなに制御しようとしたとしても思い通りにならない悪の種です。ところが、神は異言を通して人の舌を瞬間的に制御されます。
神の御子はこのように危険な要素をもっている人間のためにこの地に来て血を流されました。神は主の血を信じる者がばらばらに散らばっている状態でそれぞれ異言を語らせるのではなく、彼らをひとつのところに集まらせたのちにともに異言を語らせました。マルコの家の大広間に集まって心を尽くして祈っていた弟子たちに聖霊が臨むと、そこに集まった者すべてが同時に異言を語りはじめました。そのようにしてキリストの教会は誕生しました。キリストの教会はすべての者がともに異言を語ることによってはじまったのです。このように教会の存在はその初めから統一性が前提となっています。聖霊は特定の個人の成功のために働かないで、必ず人の群れを通して神の働きを成就するために働かれます。イエスがこの地に再び来られるのも個人の生涯をそれぞれ助けるためではなく、イエスの道を歩んでいる人々を救うためです。
神が私たちに異言を語らせたというのは私たちの言語を制限し、神の言語を語らせるように舌を支配されたということです。舌を支配されたというのは舌だけではなく、私たちの考え、主張、そして、全身にくつわをかけたということです。これは公式的に私たちを神の霊的なしもべとしたということです。私たちは異言を語るたびに「私はキリストのしもべです。」と神の御前で自分の身分を確認します。
異言を語るのは教会の本質的な性格です。異言を語る者は自分の言動や考えを制御しなければなりません。異言を語るというのはユニフォームを着るようなものです。警察の制服を着ている者が道で唾を吐いたり、むやみに振舞ったりしてはいけないように、私たちにはキリストのしもべという身分にふさわしい言葉と行動をしなければならないという義務があります。異言を語るというのは私たちがそれ以上、以前のように自分の考えや方法通りに行動しないようにするために神が私たちの最も重要な部分を制御されるということです。私たちは本来、歩んでいた道と反対の道を歩んでいます。過去と異なる、慣れていない道を歩むというのは肉体としてはそれほど面白いことではありません。しかし、私たちは永遠に栄光を受けられる神の働きを教会とともにしているのです。
この世の理念を物差しとして教会の働きを判断してはいけません。神の国は人それぞれが自分の考えを主張する民主主義ではなく、主が王として治める君主主義です。ユダの手紙18~19節は「彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」といいました。教会とひとつになることができないで党派を作るというのは避けなければなりません。聖霊に逆らってはいけません。むしろ聖霊の働きを助け、栄光の働きに参加しなければなりません。
聖徒はともに集まって異言を語り、それによって互いに自分が主からくつわをかけられた神のしもべであるという事実を確認しなければなりません。異言を語る者は聖霊に満たされて、人格も変わらなければなりません。恵みを受けたといいながらも口から出て来る毒によって教会を困難に陥らせ、神の働きを妨げる者となってはいけません。自分が異言を語るという事実を誇りとし、聖なるくつわをかけられた者として品性と行動を変えるために努力しなければなりません。他の人に向けられた配慮と教会に向けられた信義をもっている者は教会とともに神の働きをする主のしもべとして最小限の人格を備えていると見ることができます。配慮と信義は異言を語る者がもたなければならない基本的な義務です。
異言を語る者は教会を代弁する者
異言を語るというのはその人が神の関心を受けているというしるしであり、教会を代弁する資格を備えているというしるしです。私たちは神の子として成功した生涯を送らなければなりませんし、キリストのしもべとしても成功した生涯を送らなければなりません。他の人を警戒しながら競争していたこの世での生き方を教会にもちこんで教会員に鋭い態度で接してはいけません。愛をもって他の人よりも先に犠牲を払って施す者とならなければなりません。自分の有益を先に考えることによって教会を困難に陥る者とならないで、教会の成長と有益を求める者とならなければなりません。キリストとともに相続人として栄光を受けるためには今、この地で主のように苦難をともに受けなければなりません。神は自分のことをあきらめて先に教会のために働く者を助けられます。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016.06.19.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧
詩は文学の種であり、小説は文学の花であり、随筆は文学の実である。それゆえ、良い種があってこそ、美しい花を咲かせることができるし、そのようにしてこそ、良い実を結ぶことができる。私は生涯、このように信じて生きてきた。
私の肉体と感情と体験は私を文学の世界に導いた。しかし、私は文学の花といわれる小説を一回も書いたことがない。映画のシナリオとして小説を書いたことはあったが、それも当時の軍事クーデターによって水の泡となった。その後、私は新しい覚悟をもって詩をはじめた。詩は随筆を哲学的に扱ったものである。これを文学という。文学は哲学である。信仰ではない。多くの人がこれを混同するために、詩らしい詩が出て来ないで、信仰告白や教理を擁護する大衆的ではない文章が出て来る。これが現実である。
詩人になろうというのは紙に文章を書いていこうということではなく、人生のまことの種をまこうということである。たとえば、花の種はそれぞれ節度をもっている。赤い花の種が他の色の花の種とともにあったとしても、その色が永遠に変わることはない。もちろん人が人為的に接つ木をしてその色を改良し、遺伝子を変質させることはあるが、これは自然が毀損されたのである。
文学は良い種のようなものであって、太陽の下の真理ということができる。それゆえ、詩という種は赤い花の種であるのか、黄色い花の種であるのか、白い花の種であるのかという節操をもち、節度を守る花の種のようなものである。それゆえ、10回、植え替えたとしても、その花の色が変わることはない。
花は虚構である。長い間、咲いていることもできないし、台風や寒さに耐えることができない。しばらくの間、満開となったのちに散るだけである。小説は文学の花として美しいし、派手である。そのために文人は花を見ることを願う。私は花を知りながらも花を咲かせて見せることができないのが残念ではあるが、かといって、まったく花がないわけではない。いちじくの木には花がないように見えるが、その実の中に花がある。外見としては見ることができなかったとしても、その実の中には花が満ちあふれている。
聖書はまるでいちじくの木のようなものであり、外見は派手ではないが、その中に花が入っている。それゆえ、聖書文学はこの世の人々が見ることができない花を豊かにもっている。いちじくの木は種、すなわち根や実だけが見え、花を見ることができないために、人の心を引くことができない。聖書は虚構を見せない。聖書は心霊と霊魂の霊感であり、随筆である。それで、私は詩と随筆を書く。しかし、花がないのではなく、いちじくの木のように中に花が咲く。その実である随筆を書いている。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室