キリストの麦の粒
(ヨハネの福音書12:20~28)
神は
栄光を受ける方でおられるが、(ローマ11:36)
御子を通して栄光を受けられる
キリストの苦難と死の生涯は
神の栄光を現した(ヨハネ17:4)
キリストは
命を得るために命を捨てるといわれた(ヨハネ10:17)
一粒の麦が地に落ちて死んでこそ実を結ぶように、
自分を捨てることによって
私たちを生かし、天国を与えられた(ヨハネ14:2~3)
キリスト者は
主に仕えるために
自分を惜しまない者であり、
主の教会のためにすべての愛を施す者である
そのようにしてこそ、
父なる神の栄光を現すことができる
主の聖徒は
伝道の実を結ばなければならない、主の体である(Ⅱテモテ4:2)
そのようにして
神に栄光をささげることができる、
この地の唯一のキリストの麦の粒となる
◎一粒の麦のように
教会のための公生涯をもつ、
キリスト者として訓練しよう
◎教会の聖徒を尊重し、
自分を低める者となるために
訓練しよう
◎私たちはすべて伝道する教会となり、
キリストが犠牲を払われた
生涯の実をともに結ぼう
※主が結ばれた麦の粒となり、
キリストの教会に仕えることによって
神に栄光をささげよう
キリストの麦の粒 (ヨハネの福音書12:20~28)
御子を通して栄光を受けられる神
神は栄光を受ける方でおられますし、栄光を受けるにふさわしい方でおられます。人々はイエスがこの地に来て病人を癒したり、しるしを行ったりする姿を見て、驚きながらも自然と神に栄光をささげました。神は御子イエス・キリストをこの地に遣わして、御子を通して神に栄光をささげさせました。聖書には「神の御子に栄光をささげるのであれば、父なる神が栄光を受けられるし、再び御子に栄光を与えられる。」という神と御子の秩序についての内容が数ヶ所、出て来ます。神はすべての栄光がイエスに向けられ、イエスを通して栄光を受けることを願われます。
それゆえ、神に栄光をささげるためには神の御子に栄光をささげなければなりません。「どちらにしても神に栄光をささげればいいのではないか? 私は御子を通さないで神に直接、栄光をささげる。」と考えるのであれば、それは神が願われることではありませんし、イエスがこの地にどうして来られたのかを十分に理解することができていないのです。イエスは「私は父の中にあり、父は私の中におられる。私があなたがたに語る言葉は自ら語るものではなく、父が私の中で語られるものである。私を信じる者は私を信じるのではなく、父を信じるのである。」といわれました。「神の御子に栄光をささげるのであれば、神が嫉妬されないであろうか?」という懸念は杞憂に過ぎません。神はむしろ私たちがそのようにすることを喜ばれます。
イエスを恥じる者は神に栄光ささげることができない
イエスを恥じる者は神に栄光をささげることができません。ペテロはイエスがエルサレムに行って多くの苦しみを受けられるという言葉を聞いたときに、「主よ。神の御恵みがありますように。」といって主を慰留しました。しかし、イエスはペテロに「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と叱られました(マタイ16:21~23)。ペテロではない他の者であったとしてもイエスが自分の死について語られるのを聞いたのであれば、ペテロと同じような反応を見せたでしょう。人間の考えにおいて死は失敗と挫折を意味するためです。ペテロはイエスの死を恥じたのです。
イエスは馬小屋で生まれ、貧しい家で成長されました。その方はその当時、最も卑しい職業のひとつであった大工の仕事をし、罪人たちと近くで過ごされました。その当時、罪人は社会的に最も低い疎外された階層でした。イエスの周辺には罪人だけではなく、取税人、貧しい者、病人、らい病人、遊女も集まっていました。状況がそうであったために、多くの人がイエスを無視しました。イエスがもたれた条件によって見ると、その方が人々から尊敬を受けるというのは不可能に近いことでした。しかし、弟子たちはその方を尊敬しましたし、それによって神は栄光を受けられました。
イエスが人気があったときもありました。その方を政治的な人物と考えたときには多くの人がその方に従いました。ある人はイエスに近づいて来て「主よ。あなたが王になるのであれば、私たちのひとりを左側に、ひとりを右側に座るようにしてください。」と求めました。ところが、イエスが罪に定められて十字架につけられると、人々はその方を離れました。しかし、そのような状況の中でもイエスの母と数人の女性はその方を離れないで最後までイエスを顧みました。
私たちの信仰はキリストの母となるものです。らい病人の外見がどんなに醜くかったとしても、らい病人の母親は子どもを捨てません。ハリネズミのとげがどんなに鋭かったとしても、ハリネズミの母親は子どもを胸に抱きます。イエスは最後の日、その右にいる者に「あなたがたは私が空腹であったときに、私に食べる物を与え、私が渇いていたときに、私に飲ませ、私が旅人であったときに、私に宿を貸し、私が裸のときに、私に着る物を与え、私が病気をしたときに、私を見舞い、私が牢にいたときに、私を訪ねてくれました。」といわれます(マタイ25:34~36)。子どもがそのような窮地に追い込まれたときに助けるのは母親です。私たちがキリストの母となるのであれば、その方が悔しい状況におられるときや苦難を受けられるときに常にその方とともにいるのです。
イエスが私たちの中で聖霊によって働いておられる今も、その方には母が必要です。イエスが悔しさや苦難を経験されたのはその方が自ら願って選択されたわけではありません。その方は聖なる働きをなすために神の戒めに服従されました。信仰とは神の戒めに従ってキリストの母の役割を担うものです。私たちがそのようにすることによってキリストに栄光をささげるときに、神は初めて栄光を受けられます。
主の使命を負担に感じるのは主を恥じることである
イエスが天の御座に上って栄光を受けておられる現在、キリスト者の中で主のそのような姿を恥じる者はいません。その方が以前、貧しく暮らし、また、卑しい職業をもち、病人とともにし、苦難を受けられたという事実も今となってはその方を恥じる条件ではなく、むしろ尊敬する理由となりました。それゆえ、キリスト者が今日、「私は主を恥じません。」ということには特に意味がありません。その代わりに人々が恥じるものがあります。それは主から預けられた使命です。主から預けられた使命を恥じるというのは実際に主を恥じるということです。主はこのような人によって恥をかいておられます。
ある人は教会に仕えることはおろか、むしろ教会が自分に仕えなければならないと考えます。そして、教会に仕える者をむしろ愚かな者と考えます。このような人は教会を治めて導かれる方が聖霊でおられるという事実を忘れているのです。ある人は主に栄光をささげるといいますが、実際には自分の栄光のために教会を利用します。そのようにして自分の思い通りにならないと、教会を捨てて離れたりもします。もしその人が母であったのならば、そのようにすることはできなかったはずです。子どもが気に入らないという理由によって子どもを捨てる母親はいません。私たちは自分の栄光を求める者ではなく、自分を捨てたとしても主の御名を守らなければならない者です。キリストの苦難が神に栄光となったということを覚えて、キリストの苦しみにあずからなければなりません。
主のように麦の粒となって実を結び、神に栄光をささげよう
一粒の麦が地に落ちて死んでこそ実が結ばれるというのは天の法則です。その法則通りにキリストは一粒の麦のように死なれ、私たちはその実となりました。主は私たちもその方に従って一粒の麦となることを願われます。私たちが地に落ちて死ぬことによって実を結ぶと、キリストが栄光を受けられますし、結局、それによって父なる神が栄光を受けられます。自分の栄光に執着する者は自分も知らないうちに主が受けられる栄光を横取りします。そのような人は歳月が流れて過去を振り返ったときに、自分が生涯、神に栄光をささげたことがないという事実を発見するかもしれません。
私たちは教会のために麦の粒のような存在にならなければなりません。教会はそのような少数の人々によって支えられています。教会がすべき働きは多いですが、その中でも基本となるのは伝道と養育です。聖徒であるのならば誰でも霊魂に福音を伝え、彼らを教会に導かなければなりません。そして、教会に結びつけられた霊魂をよく養育して教会に定着するように顧みなければなりません。伝道と養育は互いに切り離すことができない関係にあります。どんなに多くの霊魂を教会に連れて来たとしても適切な養育が行われていないのであれば、彼らは再びこの世に戻るようになります。母の心をもって弱い霊魂を愛して顧みるというのは伝道と同じくらいに重要なことです。
教会の聖徒が熱心に互いに愛し合って奉仕するときに、神は栄光を受けられます。イエス・キリストとともに死ぬのが私たちの信仰です。その方は私たちに信仰の原理を教えるために、互いに愛し合いなさいという新しい戒めを与えられました。私たちが教会に集まってともに礼拝をささげるのはそれぞれが神に会うためではなく、ともに神に会うためです。神は聖徒が互いに愛し合ってともに神の御前に出て行くことを喜ばれます。キリストの中にいる者が互いに愛し合うときに、イエス・キリストに栄光をささげることができますし、それによって神が栄光を受けられます。一粒の麦となって、教会のための公生涯をもたなければなりません。聖徒を尊重して自分を低めなければなりません。霊魂を教会に導き、彼らを顧みて養育することによってキリストが払われた犠牲の実を結ばなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 07. 03.日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
いつの間にか80歳を目の前にしている。子どものときには「60歳まで生きることができるのであれば、十分だ。」と考えた。私の祖父は40代に亡くなったし、伯父と父親も50歳を過ぎて戦争中に亡くなった。叔父もやはり50歳になる前にすべて亡くなった。それゆえ、私が60歳になるというのは長寿であると考えた。しかし、母親が80歳に亡くなり、そののちに姉たちもほとんど80歳を過ぎて亡くなった。この時代がいっているように、100歳時代になったということを実感する。
私が期待していた寿命を20年も超過した。これはどんなに大きな祝福であろうか?「牧会者として50年だけでも働くことができるのであれば・・・」と望んできたが、幸いにも50年、働くことができた。「50年、働いたら、すべてを下ろそう。」と決心したときから50年になるときまではまことに大変であり、緊張した時間であった。
これは私が完ぺきな人間ではなかったためであり、訓練を受けていない足りない私の人格に苦しんだためであった。老いた父の前でさらに学び、学校に行って体系的に人間教育や道徳的な教育をさらに受けて訓練を受けなければならなかったが、歯が抜けるように自分を訓練する時間が多く抜け落ちていった。人格の根をまともに下ろすことができず、性格もよくなく、品性も穏やかではなく、それゆえ、欠点も多くなるしかなかった。
常に人間的なむなしさをもち、孤児や旅人のように孤独を感じる欠落した人性を抱えて生きてきた。このようなものは私の人格に光沢を出さないし、さびをつける。それゆえ、気が散ったり、無益な欲を出したり、利己的で強情なやぎのように行動に多くの問題を露出させたりしてきた。偽善や失敗も多かった。これは私の生涯を通して洗いきよめることができない傷となった。
もちろんイエス・キリストを信じる信仰によって神から義とされ、聖くなったという印を受けたが、人々からはそのようではなかった。それゆえ、心の片隅には常に恥ずかしさや不安があった。私はイエス・キリストから赦しを受けながらも人々からは赦しを受けることができない半端な者である。
今は担任監督という公職を離れて引退した者であり、元老の道を歩んでいるが、まだ私が公人であるということを否認することができない。公人は公人としての社会的な責任を担わなければならないし、また、自分のためにも責任を担わなければならない。すでにひびが入ってしまったガラスにお湯をかければ、割れてしまう。そのように私がパラダイスに行く日まで無事であるのかと緊張する。しかし、私は神の御前で忠誠を尽くそうとする。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室