尊い血といのち
(ヨハネの福音書6:52~59)
神は
人類を救うために
御子をこの世に遣わして血を流させた
神は
人から罪を発見するのであれば、
刑罰を与えなければならないが、
御子の血を発見するのであれば、
恵みを施される(ヘブル13:12)
罪は死と滅びをもたらす
しかし、
血は罪をなくすことができる(レビ17:11)
人間の罪を永遠に洗う力は
ただ
神の御子の血にだけある(ローマ3:25)
キリストはその血によって洗われた者を
教会とし、
その血を伝える使命を担わせる
これは
のちにその栄光をともに享受する私たちに、(ローマ8:17)
父がご覧になるときに、
恥をかかせないためである
◎主の尊い血は
私たちを見ておられる父の目から
私たちの罪を覆っているということを忘れてはいけない
◎尊い血を伝える私たちには
教会のために自分を無にし、犠牲を払い、配慮をし、
牧会者に従うという絶対的、基本的な姿勢がなければならない(ヘブル13:17)
◎天で主の栄光をともに受けるために
この地で栄光を受けなかったとしても
ともに苦難を担おう
※ともに私たちの教会を成長させ、
私たちを導いてくださる主に喜びをささげよう
尊い血といのち (ヨハネの福音書6:52~59)
神のいのちは神の血にある
人々は人間に対する無条件の愛が神の義務であるかのように誤解します。しかし、神は罪人を無条件に愛して受け入れる方ではありません。神は自分の義を自ら捨てることができないためです。神が人間を受け入れるためにはまず人間がもっている罪の重荷をなくさなければなりませんが、それは罪のない神が人間の罪を担われない限り不可能なことでした。神は自分の御子をこの地に遣わして死刑を受けさせ、その血によって人間の罪の価を払わせました。
私たちはイエス・キリストの血によって贖い、すなわち罪の赦しを受けました(エペソ1:7)。人類の罪の価を払う過程は神にとっても決してやさしいものではありませんでした。主はそのようなむずかしい過程を経てまで私たちに神の血を与えてくださいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければあなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)。イエス・キリストの血は天から下って来た血です。その血が私たちにいのちを与えました。
神は血の働きをなすために血の重要性を続けて教えられました。カインのときから血の問題に非常に敏感に反応されましたし、イスラエルには獣の血によってささげるささげ物を命じ、その血によって罪の問題が解決されるということを教えられました。そして、神の御子であるイエス・キリストがこの地に来て血を流されたときに、神が定めて備えられた血の働きが完成しました。
教会はキリストの血の実である
神が流された血の結果として私たちに残されたのは教会です。教会にはキリストの血があります。使徒の働き20章28節が「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」といったように、神は自分の血によって教会を買い取られました。それゆえ、教会は神が無限の価値を付与したところであり、無限の期待を置かれたところです。
創世記からヨハネの黙示録まで、聖書に記録された内容はすべて神の血を中心として展開されています。神の御子が血を流されたのは神が人間のために施された最高の配慮であり、人間のために注がれた極限の努力です。神がこのように力を尽くし、思いを尽くし、心を尽くして私たちのために最高の働きをなさいましたが、果たして私たちはその方の血によって買い取られた教会のために何をしなければならないでしょうか?
今、私たちは恵みの時代に生きています。そうだからと言って、神が無限に恵みだけを与えてくださると断定してはいけません。恵みを当然なものと考え、依然として古い習慣にとどまっていてはいけません。神が耐えておられるのは私たちの中に御子の血があるためです。私たちは御子の血に心と目を合わせておられる神にふさわしい者とならなければなりません。
血によって聖くなった者は血を注ぎかけるという任務を預かった者
私たちには神が期待しておられる生涯があります。幕屋で仕える法はそれが何であるのかを見せています。イスラエルはささげ物をささげるときに、幕屋とその中で使うすべての器具に獣の血を注ぎかけてそれらを聖めました。そして、同じ理由によって幕屋の周辺と祭司の体にも血を注ぎかけました。これについてヘブル人への手紙9章22節は「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」といいました。そのように血を注ぎかけたのはそれがなければ、聖められることがないためであり、聖められなければ、神に用いられることができないためです。
神はイエス・キリストの血によって私たちを聖められました。神の血は象徴や観念ではなく、実状です。私たちにあるイエスの血は神に私たちの罪を見させないようにします。滅びを恐れていた者はその血によって滅びを恐れなくなりますし、挫折していた者はその血によって再び挫折しなくなります。また、その血は私たちに悔い改めの心をもたせます。もう一度言うと、私たちの心を変えさせ、神に出て行こうという意志を与えます。
ヘブル人への手紙9章14節は「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」といいました。今日、私たちが神に用いられるのは私たちにキリストの血があるためです。血によって聖められた器具が神殿で聖なる器具として用いられたように、尊い血によって聖められた私たちも神の聖なる任務を担うことができます。
私たちが預かった任務は人々にキリストの血を注ぎかけることであり、血を注ぎかけられた者にその任務を分け与えることです。イエスが私たちを聖めるために苦難を受けられたように、私たちも血を注ぎかけるという任務を担うために当然に労苦を払わなければなりません。
聖なる器官として責任を果たそう
私たちは主の血によって買い取られた教会の器官として教会の重荷をともに負わなければなりません。以前、私たちは罪の奴隷であったために私たちがすることの実はすべて死でした。しかし、今、私たちは罪から解放されて神の聖なる器官となり、聖さに至る実、すなわち永遠のいのちを得るようになりました。私たちは主の体となったために必ずそれに伴う責任を負わなければなりません。「私の血を飲みなさい。」というイエスの御言葉は「贖いの功労を受け入れなさい。」という言葉と同じであり、「私の肉を食べなさい。」という御言葉は「教会に仕えなさい。」という言葉と同じです。主の血を飲むことによっていのちを得た者は教会を導く主に用いられなければなりません。
主は私たちを父なる神の御前で聖くて傷がない、非難されるところのない者として立たせようとされます(コロサイ1:22)。その方は私たちが父の御前に立つときに恥をかかないで、自分が享受する栄光をともに享受することを願われます。今、救いの門が誰にでも開かれているからといって、尊い血の恵みを軽んじてはいけません。尊い血の恵みを受けた者は神に仕える祭司です。私たちに与えられた機会を逃さないで、神が自分の血によって買い取られた教会に仕えなければなりません。
私たちはイエスの血を侮辱したり軽んじたりしてはいけません。主が自分の血によって買い取られた教会を混乱させたり、尊い血を証しする聖霊の働きを妨害したりするのはイエスの血を侮辱することです。また、キリストの尊い血によってキリスト者となった聖徒を苦しめてはいけません。主の救いは教会にあります。教会以外のほかのところでイエスの血を見つけることはできません。私たちは主の血によっていのちと聖さ、力、望みを受けました。これからは神の御心通りに従って用いられる者とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2016. 07. 31.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
晩年を迎えたが、恐れもなく、霊魂に望みがあふれる。この世を離れる日、この世に戻って来たりこの世を振り返ったりする望みが永遠になくなるということ、家族も子孫もこの世では会うことができなくなるということを知るために、ただ前に進む。
私はこれまでの60年間、真理のために命をささげてきた。真理を守るために妥協することなく、まっすぐに走ってきた。名誉やこの世の利益のために卑怯になることなく、自分の名誉も惜しむことなく捨ててきた。これだけを見ても信頼するに値するではないだろうか。伝える御言葉が確信にあふれ、いのちにあふれるということがこれを証ししている。
誰かが大きな名誉を与えるといったとしても拒んできたし、私を慰めようとして良い言葉をかけてきたとしても耳を傾けなかった。友人を失い、弟子を失い、教会員を失いながらも、ひとつの道に固執してきたのは私の性分や性格のためではなく、ただ真理を愛して信じるためであった。それゆえ、真理から現れる力やしるしは常に泉の水のように湧き上がってきた。私が証しする御言葉に真実がなかったのであれば、私に与えられた力も霊魂もすでに取り去られていたであろう。
正直でおられる神は正直な私を助けるということを私は信じる。説教壇で証しすることができる日は多くないが、貴い時間を祝福ある時間として使おうとする。この世はこの世に属した言葉を語り、それを聞き取るが、私たちは神に属しているために、神の御言葉を聞く。
生涯、聖霊によって働き、イエスの名を証しするというのがどんなに幸せなことであろうか! 自分を振り返ってみても、肉体としては称賛を受けるべきものは何もない。しかし、主を乗せるろばとなって、その方が行こうとされる狭い門に進もうとする。賢いろばは主人のむちの影だけを見ても速度と方向を決めることができる。そのように私も賢いろばとなって主を乗せようとする。
「主よ! 私を追いやってください。さらに走るようにむちを打ってください。老いたろばが怠けることがないようにむちを打ってください。さらに走るように、そして、きつかったとしても躊躇うことがないように力を与えてください。これから私が主を乗せていくことができる距離はそれほど残っていません。『私がもう少し若かったのであれば』という愚かな後悔をしないようにしてください。私の体中の力をすべて注いで聖徒を教えてきました。彼らも意志をもっているので、主が命じられたことをします、私たちの中でひとりもこの世の目を意識する者がいないようにしてください。これは主の願いです。」アーメン。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室