あなたの隣人をあなた自身のように
(マタイの福音書22:34~40)
神は
父でおられる
その方が
御子を愛したように(マタイ3:17)
この世を愛されたが、この世の霊魂を愛されたのである(ヨハネ3:16)
このように
この世に戒めを与えられたが、律法の全体である(マタイ22:40)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じられた
「あなた自身のように」というのは
「親が子を愛するように」ということであり、「自分自身のように」ということである
天下万民の天性である(マタイ7:11)
それゆえ、
隣人を自分自身のように、すなわち自分の子を愛するように
愛さないのであれば、戒めを犯したのである
律法は肉体の規定であるが、(マタイ5:17~)
戒めは根本なので、永遠に廃棄されない(黙示12:17)
イエスが自分自身を惜しまれなかったので、
聖霊が私たちの心に深く入って来ておられるし、(Ⅰヨハネ4:13)
いのちが霊魂にある
まことの信仰生活には
いのちがなければならない(ヨハネ14:6)
○愛は標語ではない
母性として
天心でなければならない
○愛があれば、偽りがない
母性には偽りがない
神の愛も同じである
○恵みを受けた者はまことの愛を知る者である
それゆえ、愛する者である
信仰生活は愛の実践である
※愛そう
隣人を自分自身のように愛そう
これが自分の霊魂の冠である
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 12. 11.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
秋が来ると、昔のことが思い出され、目頭が熱くなる。野原では黄金の稲穂が波のように揺れ、高い秋の空の下では山川が趣深く真っ赤に染まっていた。しかし、私は一寸先も見えない絶望の中で泣きながら、この世を離れることばかりを考えていた。母と2人の弟は空腹でまともに立ち上がることもできなかった。
私はそのとき、何人かの友人を訪ねて行きながら食べ物をもらって食べ、それなりに耐えていた。しかし、友人を訪ねて行ったのは別れるためであった。死のうと決心したのちにはむしろ平安になった。すでにこの世とは関係がなかった。この世はこのように悲しいところなのであろうか。悲しいこの世に母と2人の弟を残して離れようとした。
家から出て来て道を歩きはじめたときに、突然、教会から鐘の音が鳴り響いてきた。その音は耳を切り裂くようであった。ほぼ毎日、聞いていた音であったが、その日に聞こえてきた鐘の音はまるで雷のようであった。私の家から100メートルくらい離れたカトリック教会からも鐘の音が聞こえてきた。しかし、その日、800メートルくらい離れたメソジスト教会の鐘の音は耳を切り裂くように大きく聞こえてきた。
私はそちらを見て心の中で「果たして神はおられるのであろうか? おられるのであれば、私が誰であるのかを尋ねてみたい。」とつぶやいた。私はそのようにつぶやきながら、メソジスト教会の前に行って立った。その教会は友人が通う教会であった。その友人から何回か伝道を受けたことがあったために、まるで常に通っている教会に至ったかのように平安になった。そのときから信仰生活をしはじめて、60年が過ぎた。
召してくださった主の御前でこれまで何をしてきたのであろうか。これまで神が自分の働き手としてくださったことを限りなく感謝する。激しい風のように走ってきた歳月が目の前にちらつく。一時も緊張や熱心さを捨てたことがなかった。人々が歓迎しなかったとしても関係がなかった。ただかき分けて入って行って神の御言葉を伝えるために死ぬほど働いてきた。そのように苦労したことをすべて下ろして、これからは神が私の霊魂を召されるその日だけを待ち望むだけである。
最後に教会員が、愛する教会員が、涙を流しながら養育した兄弟姉妹が私の自叙伝である『突然、吹き出した激しい風のように』という本を読んでくれることを願う。私の息子も、孫も読んでくれることを願う。口だけで愛するというのではなく、私を読んでくれることを願う。まことに。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室