千代にまで至る祝福を受けた教会
(出エジプト記20:4~6)
神は
祝福の根源でおられる
その方は
天に属した祝福を与え、(エペソ1:3)
地に属した祝福を与える方でおられる(申28:2~6)
イエスはこのためにこの地に来て、
罪と不義と滅びと不幸の権勢を制圧し、
平安と従順を教会に命じられた(ヨハネ16:33)
神は
自分の霊魂を聖く守る者、
そして、
仕えるために召されたその方の教会に
体と心を尽くして仕える者には
霊的な祝福だけではなく、地に属した祝福も与えられる(申12:7)
自分の偶像を心に置いた者は
神から捨てられるようになり、(エぜキエル14:3~5)
子孫にまで呪いを受け継がせるようになる(エぜキエル14:9~23)
しかし、
その方の教会を愛して行って助ける者だけが
子孫千代にまで至らせる
祝福を受ける(出20:6)
○私たちの霊的な相続財産である信仰を
教会の成功と幸せのために用い、
それによって神の喜びを得よう
○私たちの霊魂が
聖く守られるように
悪行と惑わされた考えを捨てよう
○子どものために
また、物質と平安のために
祝福を祈るにふさわしい聖徒となろう
※私たちの霊魂を聖く守り、
聖なる心と行いによって
主の教会に仕えよう
【牧師コーナー(松竹岩)】 2017. 2. 5.(主日) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
これまでの生涯の過程を振り返ってみると、よくやったと思えるほどのことはひとつもない。ただ私なりによくやったと思えるのは長い間、耐えてきたことである。これまでの80年間、ただ耐えて、また、耐えながらこの世を生きてきた。80歳になって「あのとき、耐えておいてよかった。」と考えることも多くある。そのように耐えなかったのであれば、今日の私は存在することもなかったであろう。私に残された日は多くないが、これからどれくらい耐えなければならないのかは私にもよくわからない。
ある人が私に「先生の顔からは光が放たれています。」といった。その人に「どのような光が放たれていますか?」と尋ねると、「忍耐の光が放たれています。」と答えた。聖霊の賜物の中には寛容、すなわち忍耐という実がある。おそらく聖霊が私に忍耐の賜物を多く与えてくださったために、その力が現れたのかもしれない。牧会をしてきた55年間、最も大きな役割を果たしたのはただ耐えることであったと記憶する。
教会の働きはとても軽い。鳥の羽のようなものであるために、微風が吹いただけでも揺れるし、小雨が降っただけでも濡れる。しかし、それを克服する力はただ耐えることである。恨みや不満、腹いせはすべて牧師に返ってくる。どうすればいいのか。耐えて耐えるしかない。見当違いな誤解や批判が起こったとしても、耐えるしかない。
精神的に幼い者は母親が耐えながらすべてを受け止めてくれたにもかかわらず、母親が自分のためにどれほど耐えたのかを悟ることができない。そして、他の人が少しでもよくしてくれるのであれば、「その恩を忘れない。」と感動する。私は教会員も知ることができないくらいの多くのことに耐えてきた。悔しい悪口を言われたとしても、何もなかったかのように教会の説教壇に立ってきたが、それは演劇ではなかった。私が生きるために、教会が生きるためにそのようにせざるをえなかったのである。
私は教会員に「私とともに教会のために耐えてほしい。」と願う。悪魔は耐えることができないように惑わし、悔しい思いを込み上げさせて極端な反撃をさせる。しかし、私たちは聖霊によってすべてのことを決心しなければならない。これからは互いに憎まないで、互いの弱さのために祈ろう。どうかこの世で最も悪いものである離間や妨害を絶対にしないようにしよう。
私、視無言は足りない者である。人であるために、修養を十分に収めていないし、神ではないために、完全ではない。しかし、今日まで耐えて働いてきたために、拍手を送ってほしい。そして、「これからは教会が力を合わせて監督を助け、使命を守りますので、安心してください。」と励ましてほしい。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室