一番すぐれているのは愛である
(コリント人への手紙第一13:1~13)
神は
愛でおられる
その方が
この世を愛してひとり子を遣わされた(ヨハネ3:16)
イエスは父を愛したようにこの世を愛し、
十字架で血を流して死なれた
愛は寛容であり、親切である
愛は人をねたまない
自慢せず、
高慢にならない
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばず、
真理とともに喜ぶ
すべてを我慢し、
すべてを信じ、
すべてを期待し、
すべてを耐え忍ぶ
そういうわけで、
信仰と希望と愛はいつまでも残るものであるが、
その中で一番すぐれているのは愛である
その中で一番すぐれているのは愛である
その中で一番すぐれているのは愛である
○私たちはすべて聖霊の人である
聖霊の実はすなわち愛である
私たちは互いに愛し合おう
○私たちはすべて
イエスの血の人である
それゆえ、イエスの体である教会をまことに愛そう
○私たちはすべて
神の人である
神に属した者はその方を死ぬほど愛そう
一番すぐれているのは愛である (コリント人への手紙第一13:1~13)
神は愛でおられる
神は愛でおられます。神が現されるものはすべて愛です。その方の御言葉も戒めも義も創造も力もすべて愛です。神の愛には利害関係が適用されません。神の愛は何かの代価を要求するものではありません。神の愛は神の香りであり、神から一方的に出て来る光です。
律法の根本は愛です。律法の戒めは罪人にとって非常に恐ろしいものですが、律法の根本は愛です。福音も同じです。私たちを救おうという神の御心も愛に基づいています。愛という言葉を聞くと、人々はこの世で語られる愛を考えます。しかし、神が私たちに与えてくださった愛は異なります。神は私たちを愛して、自分のものをすべて私たちに与えてくださいました。その方は私たちが神のようになることを願われます。永遠に生きておられる神は私たちも永遠に生きることを願われるのです。
信仰
コリント人への手紙第一13章1~3節は「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」といいました。また、13節は「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」といいました。
イエスの中に入って来る前に、私たちは信念を頼って生きていました。しかし、キリストの中に入って来たのちには信念よりも強力な信仰を頼るようになりました。神の信仰を所有するようになったのです。その信仰がないのであれば、信仰生活をすることができません。祈り、聖書読み、奉仕など、信仰生活のすべては信仰なしに実行することができません。信仰には驚くべき力があります。信仰によって聖書に約束されたしるしを現しますし、信仰によって聖霊の賜物を使用します。私たちが神の助けによって不思議なことを体験することができるのも信仰があるためです。信仰があるために、救いを受けることができますし、この世に勝利することができます。
このように信仰は重要ですが、そうだからと言って、信仰だけをもっていては限界にぶつかるしかありません。もう一度言うと、ご利益信仰に陥るようになります。祝福を受けることを嫌う者はいません。そのために、牧師に「祝福してください。」という者も多いです。車を買うときに「祝福してください。」という者もいますし、味噌を作るときに「祝福してください。」という者もいます。私たちはイエスが再び来られるときに「私はあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け!」と叱られる者となってはいけません。この地でどんなに主の名によって悪霊を追い出し、力を行ったとしてもその信仰がご利益信仰に過ぎないのであれば、主の叱責を避けることはできません。
望み
それゆえ、信仰には必ず希望、望みがなければなりません。望みがない者は信仰生活を熱心にしたとしても商売がうまくいかなくなると、信仰を放棄して教会を離れたりします。一時、信仰をもっていたとしてもその結果が見えないために、失望して倒れてしまうのです。ある人は信仰によって献金をするといいながらも、実際にはそれが再び数倍になって自分に返ってくることを期待します。しかし、それが自分の思い通りにならないと、「献金をしても何の意味もない。」といいます。パウロは「自分の肉体を有益にするすべてのものをちりあくたのように捨てて、復活という目標に向かって進んでいく。」といいました(ピリピ3:7~14)。キリスト者は復活という目標に向かって進んでいく者です。復活がなければ、神の国に入って行くこともできませんし、切に願っていた永遠のいのちを享受することもできません。
私たちは命が絶える瞬間、この地でもっていたものをすべて手放します。そして、主が来られる日までパラダイスで眠るようになります。そこでの時間はこの地での時間とは異なります。そこは1000年が1日のようなところです。主が再び来られる日、私たちは永遠に朽ちない体を着て主に会うようになります。神の御言葉と尊い血と聖霊によって生まれ変わった私たちの霊が骨と肉をもった体に変わり、主を見るようになります。今、私たちがもっている肉体はどんなに健康であったとしても結局、土に帰ります。しかし、私たちの霊魂は朽ちない体に変わり、永遠になくならなくなります。私たちは変えられた体をもって空中で主に会いますし、1000年間、この世で王として支配したのちに天に上って永遠のいのちを享受するようになります。
神が私たちに職分を与えてくださるのも私たちの望みのためです。職分に忠誠を尽くしたとしてもこの世で栄えることはありません。むしろこの世のことに時間や物質を十分に使うことができないこともあります。職分に対する報いはこの地ではなく、天で受けます。教会にはさまざまな職分がありますが、その中であるものは尊く、あるものは比較的に尊くないということはありません。どのような職分であったしても、私たちはそれが神から預けられたものであるということを知り、望みをもって担わなければなりません。
神は私たちに報いを約束してくださいました。ペテロの手紙第一5章4節は「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」といいました。望みをもっている者は職分に忠誠を尽くすでしょう。残念なのは多くの人が職分を受けたのちにそれを尊く考えることができないで疎かにしているという事実です。社会でどんなに認められた者であったとしても、教会で自分に与えられた職分に忠誠を尽くさないのであれば、主は将来、その人に向かって「私はあなたを知らない。」といわれます。私たちは「職分を捨てるというのは望みを捨てるということである。」ということを知り、神が自分に与えられた職分を守ることに続けて忠誠を尽くさなればなりません。
愛
望みをなすために必ず必要なものがあります。それは愛です。愛はすぐに放棄したり、断罪したりしないで、寛容です。愛は乱暴にふるまわないで、親切です。愛はねたまないで、かえって他の人がうまくいくことを喜びます。愛は自慢しません。
以前、ある国の将軍が戦争を勝利に導きました。王は彼に大きな褒美を授けましたし、民は彼を称賛しました。民が彼を英雄として待遇したときに、彼は部下を率いて城から出て行って、どこかに向かいました。将軍とその部下たちが到着したところは田舎の農場でした。農場の中には古びた木製の倉庫がありました。将軍はその中に入って行き、ひざまずいてしばらくの間、泣きました。そののちに倉庫の外に出て来た将軍に部下たちはその理由を尋ねました。将軍は「以前、ここでしもべとして暮らしていたが、将軍となったのちにも心はいつもここにあった。」といいました。その将軍は大きな権勢をもった者でしたが、それを自慢するよりも自分の卑賤な過去を覚えて自分を低めました。
愛は礼儀に反することをしません。それゆえ、教会の器官の間ではこのためにさらに注意しなければなりません。器官ごとに教会から預けられた職分が異なるために、それをむやみに判断しないで、他の人の信仰と経験を尊重しなければなりません。特に、教会の秩序と権威を特別に尊重しなければなりませんし、むやみにそれを毀損することがないようにしなければなりません。聖書を深く知っている者ほどこのような面で模範を示さなければなりません
愛は自分の利益を求めません。愛は怒りません。愛は悪を思わないで、常に良い方向に考えようと努力します。愛は不正を喜ばないで、真理とともに喜びます。愛はすべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。母親は夢多き少女でしたが、母親となったのちには自分のことをすべて後回しにして、自分の生涯を家庭の中に注ぎ込みます。生活に疲れて家を離れたいときも、死にたいときもありますが、子どもを考えながら耐え忍びます。これが母性であり、愛です。
教会の中にはさまざまな部類の人がいます。それぞれ出身が異なり、品性が異なり、力が異なります。それゆえ、教会の中では互いに尊重しなければなりません。教会はイエスの体です。教会の中ですべての人はイエスの体をなす器官です。へブル人への手紙10章24~25節は「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」といいました。ひとつの体の器官であるのならば、互いに勧め合って愛によって励まさなければなりません。
ある人は「教会の中に愛がない。」と不平を言います。しかし、誰かが教会の中で足りない姿を発見したのであれば、他の人ではなく、自分がまず愛を実践しなければなりません。愛が足りないのであれば、それはその人にとって不幸です。他の人からそのような姿が見えるのであれば、それを批判しようとしないで、自分がその足りないところを満たさなければなりません。主が流された血によって買い取られた教会が揺らいだり困難な目に遭ったりしてはいけません。
キリスト者にとって信仰は必須の要素です。信仰には望みがなければなりませんし、望みには愛がなければなりません。愛の働きは聖霊によってだけすることができます。たとえ愛を実践するために努力したとしても、聖霊の働きがないのであれば、その努力には限界があります。主が私たちに聖霊を遣わし、私たちを聖霊によって生まれ変わらせ、聖霊によって働きなさいと命じられた理由がここにあります。愛は聖霊の花です。喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、これらの聖霊の実はすべて愛という花からはじまります。
私たちは心を尽くし、品性を尽くし、力を尽くし、命を尽くして愛さなければなりません。そのように主を愛しなさいというのが第一の戒めですし、また、そのように主の体の器官を愛しなさいというのが新しい戒めです。新しい戒めの中にいないというのは律法の下にいるということです。愛しましょう。主の体である教会を愛しましょう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室