
イエスは神でおられるⅡ
(ヨハネの福音書20:24~29)
神は
永遠に生きている方でおられる
その方が
生きて天地と万物を創造されたが、(創1:1)
この世はその方が創造されたものを見ながらも、
それらを創造された方を見ることができない(ヘブル11:3)
信仰とは?(ヘブル11:1~2)
被造物よりもそれらを創造された方を信じるものである
見て信じるのはまことの信仰ではない(ヨハネ20:27)
見ないで信じるのがまことの信仰である
疑いは
イエスの手とわき腹を突き刺す釘や槍である
イエスの手からは血が出て来たし、(Ⅰヨハネ5:6)
イエスのわき腹からは水が出て来た
疑いのために
イエスを殺したし、教会を殺している
疑う頑なな心霊をどうすればいいであろうか
信仰は
疑いに勝利するものである(Ⅰヨハネ5:7~10)
聖霊は疑いをなくすために臨まれた
聖霊よって信仰生活をしてこそ霊魂が生きる
○ 聖霊によって信仰生活をしよう
すべてのことを信じて従おう
聖霊に従ってこそ霊魂が生きる
○ 聖霊を超越するのであれば、
肉体によって信じようとするし、
霊的な生活に破滅をもたらす
○ イエス・キリストは
神でおられる
私たちの霊魂を生かす方でおられる
※ 聖霊は今も働き、
今も信じる者に信仰を加えられる
神を信じなさい 見なかったとしても信じなさい
イエスは神でおられるⅡ (ヨハネの福音書20:24~29)
生きておられる神
神は生きておられます。神が生きておられるという言葉を頻繁に聞くと、その意味について軽く考えやすいですが、これはとても恐ろしいことです。美しい絵を見て「絵が生きている!」ということがありますが、神が生きておられるという言葉をそのように理解してはいけません。神は実際に生きておられます。人は生きているために、話をしたり動いたりします。そのように神は生きておられるために、今も働いておられます。
生きておられる神は私たちがその方を知ることを願われました。そして、そのために神の御言葉が肉体となって、すなわち人となって私たちの中にとどまりました。それにもかかわらず、「神のように大きな方が果たして私のような小さな存在を覚えられるであろうか?」と疑う者もいます。しかし、神の御言葉が人となられたという事実自体はそのような疑いを十分に解消させます。
神の御言葉が人となったときに、その方は女の胎に宿られるという経験を超越されませんでした。その方はその中から生まれて成長し、人々が経験する蔑視や辱めを経験し、ついに十字架で死んで墓に入られました。神の御言葉が人となられたのはこのように人生を味わうためでした(ヘブル2:9)。このような事実を見ながら私たちが注意しなければならないのはその方が胎に宿られたときから神の関心がその方に集中していたという点です。これは神が天使を通してマリアに「ご覧なさい。あなたは身ごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい!」といわれたことからも確認することができます。
神の御言葉が女の胎に宿られたときから神がその方に関心をもっておられたという点はその方と結びついた私たちにとって一種のメッセージとなります。私たちがどんなに弱い存在であったとしても、神は私たちが胎に宿ったときから私たちに関心をもっておられたのです。これは神がヤコブとエサウが生まれる前から彼らを知っておられたという事実を通しても確認することができます。
神の御言葉が人となってこの地に来て殺されましたが、その方は死んだ者の中からよみがえられました。そのために、その方は天に行って、今も信じる者に聖霊を注いでおられます。このようにその方を死んだ者の中からよみがえらせた方が神です。キリスト者が今日も神に祈って驚くべき方法によって応答を得ることができるのは神が生きておられるためです。また、病人に手を置いて病人を癒すことができるのも神が生きておられるためですし、イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者に按手して聖霊を受けさせるのも神が生きておられるためです。
聖霊は神が生きておられるという事実を証しされます。聖霊を受けていない者が生きておられる神を信じるというのはまるで暗やみの中で針を探すようなものです。その反面、聖霊に満たされた者は電気をつけて人を探すようにはっきりと生きておられる神を体験することができます。生きておられる神についての体験がないのであれば、その人は聖霊に満たされたことがない者です。
恵み
生きておられる神は今日も自分が約束したことを行われます。エゼキエル書34章26節は「わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。 それは祝福の雨となる。」といいました。神の祝福を受け入れる準備さえなされているのであれば、神が雨のように注がれる祝福をいくらでも受けることができます。それにもかかわらず、ある人は「私は祝福のようなものは必要ない!」といいますが、これは神を拒むという愚かな行為です。
神が施されたものの中で最も基本的なものは永遠の滅びからの救いです。人間は誰でも罪によって永遠の刑罰を受けるしかない存在でした。ところが、神がイエス・キリストを通して私たちに救いを施してくださいました。重要なのはその救いが恵みとして私たちに与えられたという事実です。キリスト者はすべて恵みを受けた者です。ある人は信仰生活をしながらも「私は恵みを受けることができませんでした!」といったりもします。もしそれが事実であるのならば、コリント人への手紙第二 13章5節が「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。-あなたがたがそれに不適格であれば別です。-」といったように、その人は救いと関係のない者です。
キリスト者は恵みを受けた者です。恵みを受けるのは個人の功労とは少しも関係がありません。個人の功労がある者はむしろ恵みを受けることができません。ある人は「このように熱心に祈ったので、神は恵みを与えてくださるであろう。」といいます。しかし、祈って応答を受けるのは恵みではなく、約束通りに受ける報いです。そのような意味で「多く奉仕をしたので、多く働いたので、恵みを受けるであろう。」という言葉にも誤解の余地があります。恵みは完全に神の賜物です。
恵みとは異なり、報いは種をまいた通りに刈り取ります。報いを受けるところには恵みがありません。働いてこそ報いを受けることができます。報いにはこの地で享受する栄えの祝福もありますし、天で受ける報いもあります。旧約時代に律法の下にいた者は神の戒めを守ることによって肉体の生涯が栄えるという祝福を享受しました。しかし、さらに重要なのは私たちが将来、復活して永遠の天で受ける報いです。恵みを受けたとしても神の国のために働かないのであれば、報いを受けることはできません。そのような人は救いを受けたとしても火災現場からようやく体だけが助かった者のようにみすぼらしい救いを受けるようになります(Ⅰコリント3:10~15)。
草で家を建てる者ではなく、金や銀で家を建てる者のように信仰生活をするためにはこの地にいる間に神の国のためにさらに犠牲を払って自分の人生を投資しなければなりません。キリスト者が教会生活をしながら献金をささげたり奉仕をしたりするのは人に見せるためではなく、自分の霊魂が報いを受けるために貯金するようなものです。ある人は信仰生活をしながらも、神が命じられた十分の一をささげません。マラキ書3章8~9節は「人は神のものを盜むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」といいました。神のものを盗み、呪いを受けたのであれば、どんなに神がその人に祝福を注がれたとしても、その人から祝福が芽を出すことがあるでしょうか? この地で栄え、天で永遠の報いを受けるためにはこの地での行為を完全にしなければなりません。
罪の贖いの功労を受けたという証し
しかし、それよりも基礎的なことは恵みを受けることです。恵みを受ける方法はただ信仰しかありません。ここで信仰とは神が生きておられることを抽象的に認める信仰ではなく、神から遣わされたイエスが神でおられることを知る信仰です。イエスは人々によって罪に定められて殺されましたが、その方は罪のない方でおられました。そのために、神はその方を生かされました。罪のないその方がどうして罪人のように死刑を受けられたのでしょうか? それは罪を犯した人間の代わりに罪の価を払うためでした。キリスト者が恵みを受けたというのはイエスが人間のために罪を贖われた功労を賜物として受けたということを意味します。
私たちは自分が罪の贖いの功労を受けた者であるのかをはっきりと知ることができます。もしみなさんの目に他の人の目にあるちりが続けて見えるのであれば、それはみなさんが恵みを受けることができていないという証拠です。以前、私たちは何の望みもない罪人でしたが、イエス・キリストの御前に出て来て救いを受けました。しかし、もし他の人が罪の赦しを受けたという事実を認めないのであれば、それはその人のために罪を贖われたキリストの血を否定するということと同じです。キリストの血を否定する者が果たして罪の赦しを受けることができるでしょうか? 本当に罪の赦しを受けた者であるのならば、他の人の罪に関心をもつことはありません。
牧会は恵みを受けた者だけがすることができます。恵みを受けてこそ他の人を罪人と見ないで、キリストの尊い血を受けた義人と見ることができるためです。もしある人が教会で他の人を罪に定めるのであれば、それは自分が罪の贖いの功労を受けることができていないということを現すのです。あの人をきよくした血がこの人もきよくするのに、他の人の罪をきよくした血を認めない者がどうして「その血が私の罪をきよくした。」と認めることができるでしょうか? 教会ですべての聖徒がともに聖餐をするのは「私たちはすべて主の恵みによって罪の赦しを受けた者です!」と告白することです。
みなさんが恵みを受けた者であるのならば、生涯、他の人の目にあるちりを見ないと決心してください。神がなさることを疑わないと決心してください。疑う者は人々がイエスの名を呼んだとしても疑いますし、人々がイエスを神といったとしても疑います。イエスは疑うトマスに向かって「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」といわれました。そして、ようやく「私の主。私の神 !」と告白したトマスに向かって「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」といわれました。何でも理性によって判断しようとする者は客観的に確認したことだけを認めます。それは信仰ではありません。信仰生活は理性ではなく、信仰によってしなければなりません。
イエスは疑うトマスに向かって「あなたの指を私の手のひらにある釘の跡につけなさい。あなたの手を私の脇にある槍の傷跡に差し入れなさい。」といわれました。これは「神が行われたことを疑うのは神の御子をもう一度、槍で突き、釘で打つことと同じである。」ということを物語っています。イエスが私たちの罪を贖うために苦難を受けられましたが、再びその方の傷を槍で突き、釘で打つというのはどんなに悪いことでしょうか? そのようなことを行わないためには疑わないで信仰をもってください! 信仰によって恵みを受けてください! 自分の罪を贖ってくださったキリストの尊い血が他の兄弟の罪も贖われたという事実を認めてください! 他の人の目のちりを探そうとしないでください!
続けて他の人の目にあるちりを探そうとする者はそれにとどまらないで、続けて自分を判断しようとします。そのようにしながら自分の行為に過度に執着すると、最終的に神の約束さえも忘れることがあります。そのような疑いをなくすために神が私たちに聖霊を遣わしてくださいました。聖霊を受けて異言を語ったということに満足していてはいけません。聖霊は私たちから疑いをなくし、神が私たちとともにおられるという証しを得させてくださいます。それゆえ、聖霊に満たされなければなりません。信じましょう! 恵みを受けましょう! 聖霊に満たされましょう! 神が生きておられるのを認めましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室