狭い門
(マタイの福音書7:13~14)
神は
いのちの父でおられる
その方が
この世にいのちを与えるために御言葉を与えられた(ヨハネ1:4~5)
その御言葉には創造の力といのちの復活がある(へブル1:2~3)
その御言葉には天使によってモーセと預言者を通して
伝えられた律法とたとえがあるし、(ガラテヤ3:19)
肉体となって人の子としてこの世に
来られた御言葉がある(ヨハネ1:14)
これを真理という(ヨハネ14:12)
真理は
聖霊によってだけ教えられる御言葉であり、いのちである
宗教の門は広いために、そこに入って行く者が多いが、
信仰の門は狭いために、そこに入って行く者が少ない
宗教は肉体の道であるために、その道はやさしいが、
信仰は霊魂の道であるために、その道は険しい
天国は宗教の門によっては入って行くことができない
ただ信仰の門によってだけ入って行くことができる(マタイ5:20)
倫理や道徳によっては天国に入って行くことができない
恵みとその体験によってだけ天国に入って行く
信仰は狭い門である
◌ 肉体の義によって入って行こうとする者が多い
宗教は広い門である
しかし、決して入って行くことができない
◌ 霊が義とされなければならない
信仰によってだけ義とされるので、
信仰によってだけ入って行くことができる
◌ 信仰は狭い門である
自分の義ではなく、
神の義である
※ 肉体の思いや感情によってではなく、
聖霊によって霊だけが入って行くことができる
信仰の狭いの門に入って行こう
狭い門 (マタイの福音書 7:13~14)
信仰の目的は永遠のいのちである
神はいのちの父でおられます。いのちはただ父なる神からだけ出て来ます。父なる神は人類にいのちを分け与えるために御子を義とし、その御子を通して人類にいのちを得させました。心の慰めを探して教会に出て来る者もいますが、イエスを信じるのは永遠のいのちを得るためです。
ヨハネの福音書3章16節は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」といいました。肉体の死は滅びといいません。肉体は時が来れば、当然に死にます。霊魂が地獄に入って行って永遠に刑罰を受けるのが滅びです。人が地獄に行くようになったのはアダムが罪を犯したことによって霊が死んだためです。神は私たちの霊魂を救うために私たちにいのちの綱を与えてくださいました。イエスを義とし、その方を通して私たちに救いを得させたのです。
ある人はイエスに出て来てただ心の平安を得ようとするだけであって、永遠のいのちに関心をもちません。彼らは信仰人ではなく、宗教人に過ぎません。永遠のいのちを知ることもできず、また、願うこともない彼らが永遠のいのちを得るというのは期待するのもむずかしいことです。永遠のいのちはそれを慕い求める者にだけ許されます。永遠のいのちを慕い求める者は神が義とされたイエス・キリストを知って、その方と結びつこうとします。バプテスマはイエス・キリストと結びついてその方が経験されたことを共有するものです。これを拒んでただ宗教生活をしようとする者は自分の霊魂を救うことができません。
狭い門に入って行きなさい
イエスは「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13~14)といわれました。イエス・キリストは 狭い門でおられます。その門を見いだす者は極めて少ないです。ヨハネの黙示録14章4節は「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」といいました。霊的に堕落しない者、そして、イエス・キリストに従ってどこにでも行く者だけが第一の復活に参加することができるというのです。イエス・キリストと結びついた生涯を送るというのはそれこそ極めて狭い門に入って行くということです。
バプテスマはイエス・キリストと結びつくものです。しかし、ある人はバプテスマをキリスト教の入教式と考えます。そのような人は「イエスが私のために死んでよみがえられました。イエスは私の救い主でおられますし、私の神でおられます。」と告白してバプテスマを受けながらも、教会生活が気に入らないという理由で、または、真理の御言葉が自分の思想と異なるという理由で教会生活を中断したりします。そのような人は神の御前で殻として発見されるのです。
「イエスを信じて救いを受けるのであれば、肉体の生涯が栄える。」と考える者もいます。しかし、重要なのは私たちの霊魂が肉体を離れたのちにどのような境遇になるのかということです。ヨハネの黙示録7章13~14節は「長老のひとりが私に話しかけて『白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。』と言った。そこで、私は『主よ。あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。』」といいました。私たちは神の御前で白い衣を着た者、すなわち尊い血の功労を受けた者として発見されなければなりません。
聖楽教会はこれまでベレヤ運動を実践するためにあらゆる迫害を受けてきました。迫害する者が最も執拗に攻撃してきたのは不信者の死後の存在が悪霊であるという主張でした。これまでの数十年間、少なくない者がベレヤ運動に参加するといって出て来ましたが、その中の相当数はその言葉を最後まで守ることができませんでした。そのようにベレヤ運動を離れた者は一様に「悪霊が不信者の死後の存在である。」という事実をそれ以上、主張することができませんでした。それによって彼らの働きは容易になったかもしれません。しかし、それよりも重要なのは霊魂が肉体を離れたのちに果たしてどのような姿として発見されるのかということです。
イエス・キリストの中で生きるというのは狭い門に入って行くということです。この地でその門に入って行こうとする者はとても少ないです。その反面、教会に通いながら宗教生活をするのはとてもやさしいです。宗教生活が人本主義に基礎を置いているためです。人本主義者は「人類が罪を犯したために、神がやむを得ず自分の御子をこの世に遣わして死なせた。」といいます。一見、それは神本主義的な視点と類似しているように見えますが、実際にはまったく異なります。ベレヤ運動は神本主義的な立場から神がなさった働きに照明を当てます。「神は御子を相続者として天を造られたが、神の御子は父の御前で自分を低めて死にまで従われた。」という事実に焦点を合わせるのです(ピリピ 2:6~8)。
神本主義信仰の道
ある人は聖楽教会で学んだ御言葉によって成長しながらも、実際にその御言葉による迫害を担わなければならない時期に至ると、むしろその御言葉を否定します。そのようにしながらも自分は続けてベレヤ運動をしていると主張します。「使徒の働き17章11~12節に記録されたベレヤ人のように、自分も毎日、聖書を調べているので、続けてベレヤ運動をしている。」というのです。明らかになるのは彼らはベレヤ運動の意味さえも理解することができていなかったという事実です。
人本主義に染まった者は教会でも民主主義を実現しようとします。彼らは聖霊が監督を立てて教会を牧させたという事実を否認し、執事が多数決によって意思を決定し、教会を運営しようとします。本来、執事は牧師が按手して立てるのですが、むしろ執事が牧師を牛耳ろうとします。彼らが実現しようとする民主主義の実体は人本主義です。
ベレヤ運動は神本主義信仰運動です。信仰生活は神の御心に従わなければなりません。イエスも「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ6:38)といわれました。その方は自分が殺されるのも父から受けた戒めによってであるといわれました。その方は私たちにも「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)といわれました。私たちも神から死ぬ戒めを受けなければならないというのです。
信仰が人本主義に汚染されるのであれば、宗教となってしまいます。 それゆえ、神本主義から逸脱してはいけません。父なる神と御子と聖霊によってだけ支えられるのが私たちの信仰です。人は誰でも宗教心をもっています。家庭で目上の人を敬い、兄弟間の位階を守るのも宗教心によります。宗教があるところには倫理や道徳があります。問題は人々がこの世でもっていた倫理や道徳を教会にもって来て、それを信仰と混同しているという点です。彼らは「牧師があのように牧会をしてはいけない!」といって自分がもっている基準によって神の働きを判断します。私たちがはっきりと知らなければならないのは私たちの信仰は人の常識によるのではなく、父なる神と御子と聖霊によるという事実です。
神は人の良心を義とされません。神はただイエス・キリストだけを義とし、その方を信じる者だけを義と認められます。それゆえ、自分の考え通りに信仰生活をしてはいけません。徹底的に神本主義信仰をもたなければなりません。世論によって教会を運営することができるという錯覚も、個人の行為によって救いに至ることができるという妄想も捨てなければなりません。善と悪を区分することに縛られる宗教人とならないで、神が義とされる信仰を知る者とならなければなりません。
祝福とともに苦難も担わなければならない
私は信仰が何であるのかをはっきりと知っているために、これまでの60年間、ひとつの道を走ってきました。押し寄せてくる霊魂を担うために主日に礼拝を10回もささげながら教会を成長させてきました。そして、他の人に牧会する機会を与えるために多くの礼拝堂を建ててきました。そのような状況でも息子を使命者として養育し、聖楽教会の監督としましたが、ある人は世襲というふさわしくない用語をもってその聖なる働きを非難します。しかし、私は自分の息子であったとしても「私たちの教会の使命を担うにふさわしくない。」と判断し、果敢に息子を解任しました。これは私が彼に教会の働きを預けたのが世襲ではなく、承継であったために可能なことでした。
ベレヤ運動を担わなければならない聖楽教会の監督となるためには自分の十字架を負わなければなりません。イエスは「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを 受けます。」(マルコ10:29~30)といわれました。迫害は拒んで祝福だけを受けるというのであれば、それは承継ではありません。私が願うのは私が受けた迫害を同じように受けることができる者です。
神がこの世に御子を遣わされたのは御子にこの地で富貴栄華を享受させるためではありませんでした。御子もこの地に来て富貴栄華を享受しようとされませんでしたし、十字架で死ぬまで父の御心に従われました。聖楽教会の監督の座を「富貴栄華を享受する座」と考える者は世襲であると批判します。しかし、この座は迫害を受け、神本主義信仰運動を承継しなければならない座です。神本主義信仰を守るというのは狭い門に入って行くということと同じです。霊魂に関心がない者は宗教という広い門に入って行って楽な生涯を送ろうとしますが、ベレヤ運動の使命者は狭い門に入って行って、死ぬ日まで苦難を担わなければなりません。
聖霊によって神本主義信仰を守ろう
だまされないでください! 蛇がエバを惑わしたときに使った餌は善悪を分別させることでした(創3:5)。善悪を分別するようになるというのは宗教人となるということですが、エバはその惑わしを受け入れ、それによってすべての人類に呪いと刑罰をもたらしました。
狡猾な信者とならないでください。ある人は「妥協して仲良くしましょう。」という言葉によって人々を惑わします。しかし、神の御心に敵対する者と妥協するというのは神の御心をあきらめるということと異なるところがありません。神の御心に敵対することであるのならば、私たちは命を差し出して阻止しなくてはいけません。狭い門に入って行ってください。妥協しないでください。私たちはこれからさらに恐ろしい日を担わなければならない者です。
真理は常識に合うものではありません。神をどうして父と子に区分することができるでしょうか? 御言葉がどうして肉体となるでしょうか? 人がどうしてイエスの肉を食べ、血を飲むことができるでしょうか? これらを常識によって消化しようとするのであれば、霊魂が行き詰まるしかありません。自分の理論や考えをキリストに従わせなければなりません(Ⅱコリント10:4~5)。聖霊なしにも宗教をもつことができますが、真理を担うことはできません(Ⅰコリント12:3)。聖霊によってはじめたのちに、肉体によって完成させようとしてはいけません。恵みによってはじめたのちに、良心に戻ってはいけません。信仰によってはじめたのちに、宗教に変質させてはいけません。聖霊によって神本主義信仰を守らなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 2. 11.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
神が恵みとして与えてくださるものをすべて受けてこそ生きることができるということを悟っている。この世にいる多くのしもべは生まれつきの知恵やこの世で熱心に集めた知識によって神の働きを十分に担うことができるが、私はそのようにすることができなかった。何の準備もなされていない者であった。ただ無学や貧しさ、寂しさ、苦しみしかない者であった。
神はそのような私を自分のふところに引き寄せ、空いていた私の頭と心に神の御言葉を注いでくださった。そして、聖霊を満たしてくださった。そののちに私は主の働きをする働き手となり、その道だけを生涯、走ってきた。それゆえ、私が知っているものはこの世の知識ではない、神を知る知識であるし、この世の知恵ではない、聖霊の知恵である。私はただそれによって生きている。
老いていきながらさらに悟るようになったのは私があまりにも足りないということであった。それゆえ、その足りない空欄をただ神から与えられる恵みによって満たそうとしてきたし、また、聖霊の賜物によって、神の真理によって満たそうとしてきた。神から与えられるものには良いものから人間が担うのがむずかしいものまであるが、私は主の説教壇だけでなく、十字架を負わなければならないという大きな重荷を拒まないことにした。肉体の欲に従わないで、霊魂が慕い求めるものを探して行こうとする。
力を与えられたが、さらに与えられることを切に慕い求める。御言葉を与えられたが、神が天で備えられたその真理だけを伝えることができるようにさらに多くの霊感を与えてくださいと切に求める。この歳にこの世のことをさらに知ろうとしたとしても無理であるし、また、あまり必要がない。ただ天で神が願って求められるものを受けることを願う。
神は私の父であり、私の主人でおられる。主が私を用いようとされたとしても、私がその働きを担うことができないのであれば、用いられることはない。神が願われる働きをするためには神から許しを受けなければならない。この世のものが足りないのではなく、神から与えられるものをすべて担うことができていないのである。私はまだ霊感に満たされていない。それゆえ、さらに満たされることを願うし、御言葉を続けて慕い求める。それゆえ、さらに御言葉を与えてくださいと求める。私には力がまだ足りない。それゆえ、さらに大きな力をもつことを慕い求める。
オリンピックに出場する選手は数十年間、ひとつにだけ専念して磨く。私たちはすべてそのようなプロ精神をもたなければならない。私は神の御前でさらに期待して求める。しもべを死に至るまで用いようとされるのであれば、そのように働くことができるように力を与えてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室