
宝を天にたくわえなさい
(マタイの福音書6:19~20)
神は
天を造った方でおられる
その方が
この世を造られたが、この世にあるものはすべて
天にあるものの模型である(へブル8:5)
人類の文明もすべて天にあるものの模型である
模型や影をもっていないで、(ルカ12:20)
天にある実状を取るのがさらに大きな祝福ではないか
神にささげるものを天にたくわえるのが祝福であるといわれた(Ⅱコリント9:5)
天にある祝福とは何であろうか
地にあるものは天にあるものの模型である
模型によっては自分の霊魂を救うことができないし、(ルカ16:25)
自分の霊魂に祝福を所有させることができない(マルコ6:20)
地にあるものは祝福ではなく、
天にある実状の模型である
地には祝福という模型だけがあり、
その実状は天にある
献金をするたびに(マラキ3:16~18)
天にある実状をその分だけ所有する
それを
神がいのちの書に書き記して記念される
◌ 自分の霊魂のために惜しんではいけない
神にささげるものは天にある自分のものであるために、
天にある実状を永遠に所有しよう
◌ 地で故意に貧しくなるというのは
祝福を天にたくわえたということである
これが信仰である
◌ 地にある模型に執着しないで、
その実状を天にたくわえよう
ささげた献金はなくならないで、天にある
※ 地で模型だけをもっているのであれば、
天にある祝福をもつことができない
神に献身して天にある祝福を確保しよう
宝を天にたくわえなさい (マタイの祝福音書 6:19~21)
この地にあるものは天にあるものの模型である
神は天を造った方でおられます。ここでいう天とは宇宙ではありません。もちろん宇宙も神が造られましたが、天とは宇宙と比較することさえできないほど大きな霊界をいいます。神は天を造ってそこに天使を満たされました。そして、宇宙を造ったのちに、そこに人が生きることができる環境を造り、最後に人を造られました。
人類の科学文明は日々、発展しています。先端技術の発達とともにさまざまな発明品が絶えず注ぎ出されていますが、実際に私たちが知っている「発明」は厳密に言って「発見」です。発明は以前になかったものを新しく作ることですが、発見は以前は知らなかったものを探し出すことです。人類は以前から宇宙の中にあったものを探し出して活用し、それによって文明を発展させているのです。
それならば、さまざまな文明の利器を誕生させたそのアイデアはどこから来たのでしょうか? もちろんそれは人の考えから出て来たものです。人は獣と異なり、想像力や哲学的な思考をもちます。これは人の考えが神の水準にかなり近いということを物語っています。人からアイデアが生まれたというのはすでに天に存在していたものがその人にかすかに輝いたということです。
モーセが荒野で作った幕屋や箱も天にあるものの模型でした。これについてヘブル人への手紙8章5節は「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモ-セが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。『よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。』」といいました。もちろん幕屋は神に仕えるのに必要なものであるために、それが天にあるものの模型であるという事実は自然に受け入れられるかもしれません。しかし、そうでないものも同じです。
文字や本も先に天で存在していました。ヨハネの黙示録20章15節は「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」といいました。人々が文字や本を使うことからアイデアを得て、神が天でそれを作られたのではありません。文字や本が先に天で存在していたために、人々がそれを少しずつ知りながらこの地でそれを作るようになったのです。匂いは目に見えませんが、人々は鼻をかすめていく匂いを分別し、認識し、香水を作ります。これと同じように、人々は天にあるものが自分の霊感をかすめていくときに、それを認識して何かを作り出します。
種というものも先に天で存在していました。聖書によると、御言葉も種ですし、神の御子も種ですし、祝福も種です。神はその種を私たちに植えられました。また、種を植えられた土地も天にあるものの模型です。イエスは「種がきちんと根を下ろすのがむずかしい土地がある反面、種を受け入れて100倍の実を結ぶ良い畑もある。」といわれました。また、私たちがこの地で食べるあらゆる種類の果物も天にあるものの模型です。ヨハネの黙示録2章7節は「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」といいました。
人も同じです。聖書は神が人を造るときに「神のかたちとして、神に似せて」といいました。また、この地にいる獣も天にあるものの模型です。ヨハネの黙示録4章 7節は「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は天飛ぶわしのようであった。」といいました。このように宇宙の中に存在するものはすべて天にあるものをモデルとして造られました。
どこにたくわえるのか?
私たちの信仰はこの地にいる間に、私たちの所有物を天にたくわえるものです。主は私たちに「良い家をこの地ではなく、天に建てなさい。財産をこの地の倉庫ではなく、天の倉庫にたくわえなさい。祝福をこの地の畑ではなく、天の畑に植えなさい。」といわれます。ある金持ちはこの地で生きている間に毎日、祝宴を開き、ぜいたくに遊び暮らしていましたが、この世を離れたのちには誰の助けも受けることができないで、結局、生前に自分の家の前で物乞いをしていた貧しい者に「指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてほしい。」と哀願する立場になりました。彼がそのような状況を体験するようになったのは天にたくわえたものがなかったためです。この地でどんなに貧しく生きていたとしてもイエス・キリストの中にいるのであれば、祝福がある者です。なぜならば、天国にその人の土地があり、その人が植えておいた祝福があるためです。天に祝福を植えておくのであれば、将来、天に入って行って永遠にそれを享受することができますし、また、この地にいる間にもある程度、それを使うことができます。その祝福を少しだけ使ったとしても驚くべき栄えを経験することができます。
財産を天にたくわえないでこの地にたくわえておく者に、主は「愚か者。お前の魂は今夜、お前から取り去られる。そうしたら、お前が用意した物はいったい誰のものになるのか。」と警告されましたし、「自分のためにたくわえても神の御前に富まない者はこの通りです。」と強調されました(ルカ12:16~21)。
聖楽教会を開拓したときに、私にはお金がありませんでした。それで、先に借金をし、のちに働きながらそれを返済していきました。私は教会が一定の規模に成長したのちにも楽な牧会に安住しないで、数十の地域礼拝堂を建てました。その過程で私は数十年間、他の人が考えることさえもできないほどの多額の献金をしましたが、今までこれについて後悔したことがありません。
天に祝福があってこそこの地でそれを享受することができる
私がこのような信仰をもつようになったのには理由があります。私が信仰生活をはじめたときには家に食べるものがなく、家族が何日も飢えなければならないほど貧しかったです。私の家には木一本を植える土地もなかったために、どんなに熱心に働いたとしても貧しさを免れるのがむずかしかったです。ところが、イエスを信じたのちに、私は霊的に豊かな者となることができるということを悟りました。「天には私が願った通りに木を植えることができる土地があるし、そこに木を植えるのであれば、その果実を続けて食べることができる。」ということを知りました。そして、「財産を天にたくわえておくのであれば、この地で必要なときにそれを使うことができる。」という事実も発見しました。
イエスは「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19~21)といわれました。私たちの心が本当に天にあるのならば、誰かが命じなかったとしても財産を天にたくわえようとするでしょう。
コリント人への手紙第二9章5節は「そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。」といいました。原語を調べてみると、ここで使われた「献金」という単語には「祝福」という意味があります。献金をささげるというのは神を救済するということではなく、祝福を天にある自分の畑に植えるということですし、天にある自分の倉庫にたくわえるということです。
私たちが天に祝福をたくわえておくのであれば、その恵みは私たちの子孫にも臨みます。神がアブラハムに息子をいけにえとしてささげるように指示されたときに、アブラハムは神に指示されたところに行き、刀を取って自分の息子をほふろうとしました。神は驚いてその子に手を下させないようにし、「あなたがこのことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったので、私は確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を天の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。あなたの子孫はその敵の門を勝ち取るであろう。」と約束されました(創22:1~19)。アブラハムが自分にあるものを神にささげた瞬間、神がそれを受けられましたし、それによってアブラハムの子孫まで祝福を享受するようになりました。
私が極限の貧しさの中でも力を尽くして献金をささげたのはこのように「天に祝福があってこそ、この地でもそれを享受することができる。」という事実を悟ったためです。私は礼山(イェサン)メソジスト教会にいるときに建築献金をささげることにしましたが、それを実行する前にさらに2回、建築献金をささげることにしました。それをささげるために私の家族はとどまるところもなく、散り散りにならなければなりませんでした。暗澹とした状況でしたが、神は私を召して天にあるものを使わせ、驚くべきことをなしてくださいました。
天に祝福を植えよう
献金を惜しんではいけません。箴言20章25節は「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。」といいました。アナニアとサッピラは神にささげるつもりで土地を売りましたが、その代金の一部を隠し、結局、2人とも死んでしまいました。これは律法時代に起こったことではなく、新約教会のモデルということができるエルサレム教会で起こったことでした。
この地に生きる間に、宝を天にたくわえておかなければなりません。ある人は教会で数十年間、奉仕をしてきたとしても、ある瞬間、試みにあってすべてを投げ捨てて教会を離れます。自分が植えておいたものから永遠に実を得ることができますが、どうして続けて水を与えて育てないのでしょうか? 私たちの献身や奉仕は決してむなしいものではありません。神がすでにそれを受けられました。
ハガイ書2章8節は「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。―万軍の主の御告げ―」といいました。この地で何をもっていたとしても、それは神にささげるときに初めて私たちのものとなります。それを自分のものと錯覚して、神を無視してはいけません。神が吹き飛ばしてしまうのであれば、果たして何が完全に立つことができるでしょうか?
この世はイエスを迫害しますが、私たちはその方の御言葉を聞かなければなりません。律法は恐れながらも、どうしてイエスの御言葉は無視するのでしょうか? イエスが私たちに勧められるのは私たちをだますためではなく、私たちに天の栄光を享受させるためです。私たちがまことにイエスの弟子であるのならば、その方の御言葉を熱心に学んで実践しなければなりません。天に祝福を植えましょう! そして、永遠にその実を食べましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 3. 11.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
これまで送ってきた60年間の信仰生活を振り返ってみると、教会を愛してきたこと、主だけを頼って生きてきたことははっきりとしているが、この世から受けた待遇はただ迫害だけであった。韓国人として私ほど迫害を受けた者はいなかったであろう。私が愚かであったために迫害を受けたのであろうか。私が賢くなかったために迫害を受けたのであろうか。私は迫害を受ける者であったために、顔を出すこともできなかったし、名刺を差し出すこともできなかった。名刺を受ける者が驚いて気絶するかもしれなかったためである。
このようなこともあった。栄えある席に「来てください」と招待状まで出しておきながら、私がその場に出て来るのではないかと考えて急いで取り消し、他の人を通して「出席しないでください」という電話までかけてきた。それでも、その場にあえて行ってみると、その人は私を見た瞬間、気絶するかのように驚いた。このようなことが3回もあった。
排斥や無視、いじめを受けながらも、忍耐して耐える。十字架につけられた主イエスの残酷な姿を思い浮かべながら「私が受ける悲しみは何でもない。私はまだ殺されていないではないか。まだ生きて、肉体が動いているではないか。何年かだけ、何十年かだけ、このように耐えるのであれば、私は栄光を見る。忍耐して耐えよう。」と考えた。
その中で私を慰めるかのようにした者がどんなに多くの物質を奪っていったであろうか? 私は恐ろしいためではなく、彼らとともにするという意味で参加したりその言葉を受け入れたりした。しかし、この世で迫害を受けるという私の弱点を利用しようとする汚い言動はいちいち言葉にすることができないほど多い。
私が通って来た道は沼地であり、ジャングルであり、猛獣が徘徊する荒野であった。しかし、私が歩んで来た道は誰も歩むことができない険しい道であったために、私が担うべき十字架であったと考える。それにもかかわらず、私は福音を仲裁する働き手として聖書を離れないで、むしろさらに深く聖書を似ようとして、死ぬほど力を尽くしてきた。
肉体としては誇ることができないことがあったとしても、心霊は神のために生きてきたし、迫害に耐えてきた。私が迫害を恐れ、証しするのをやめ、他の人のようにこの世の話などを多くし、力なしに普通の牧会をしたのであれば、そして、政治的な牧会をしたのであれば、私は有名な者としてこの世からいじめを受けることはなかったであろう。
しかし、まことに感謝する。私に残された日を指で数えてみることもできるようであり、さらに感謝する。私の前には祝福があるし、報いがある。それゆえ、私はそれだけを目標として前だけを見て、走っていく。60年を主とともに歩んできたことに感謝する。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室