自分の霊魂を生かしなさい
(ヨハネの黙示録14:1~5)
神は
永遠な父でおられる
その方が
この世を最後まで愛される(ヨハネ13:1)
人の肉体は殻であるし、
人の霊魂は麦である(マタイ3:12)
脱穀場で殻は火に投げ込まれるし、
麦は倉に納められる
信仰生活は麦になるための生活である
麦と殻は脱穀場で分けられる
人を麦として刈り取るために、
イエス・キリストは十字架で死に、(へブル9:22)
聖霊を遣わし、(ヨハネ14:16)
真理を知らせて信じさせた(ヨハネ14:16)
真理を知って信じる者は
天で選ばれた者であり、額に印を押された者である(黙7:4)
イスラエルの中からは14万4000人、
異邦人の中からは雲のように多くの霊魂が復活する(黙7:9)
神が御子を人の子として遣わされたのは
霊魂を生かすためであった
イエス・キリストとともに天で生かすためであった
◌ イエスと約束したのであれば、最後まで変わってはいけない
わが霊魂よ、イエスとともに歩み、
イエスとともに天で生きよう
◌ この世で信念はだまされたとしても、
天で信仰はだまされることがない
人の子がその約束を見せられた
◌ イエスによって救いを受けた者は
人の子とともに聖くなり、復活に至り、
人の子とともに天に上る
※ わが霊魂よ、天で生きよう
神とともに天で生きよう
信仰の節度を守って天で生きよう
自分の霊魂を生かしなさい (ヨハネの黙示録 14:1~5)
信仰の目的は永遠のいのちを得ること
神は永遠な方でおられます。永遠なる神が私たちに恵みを施し、信仰を与えてくださいました。私たちは永遠なる神から与えられた信仰によって神を迎え入れましたし、永遠なる神から与えられた約束によって神を頼ります。
私たちがイエスを信じるのは永遠のいのちを得るためです。信仰生活をするのも永遠のいのちを得るためです。私たちの信仰はご利益信仰ではありません。私たちの目的はこの地での栄えや幸せではなく、永遠のいのちを得るところにあります。永遠のいのちがないのであれば、イエスを信じる必要がありません。イエスも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)といわれました。永遠のいのちを得る条件は神を知ることです。イエスは「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3) といわれました。神を知ることとイエス・キリストを知ることは別個ではありません。私たちは神を目で見ることができません。しかし、神から遣わされた御子は見ることができます。その方は「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:9~11) といわれました。
イエスの復活によって開かれた、永遠のいのちの道
イエスがなさった働きはどのようなものであったでしょうか? その方は病気も癒されましたし、しるしも現されました。しかし、そのような働きは預言者もしたことがありました。イエスがなさった働きの中でそれ以前にはなかったものがあります。それは何でしょうか? イエスが初めてなさった働きは永遠のいのちの道を開くことでした。
人は必ず死にます。重要なのは死が人にとって終わりではないという点です。人は死んだのちに必ず3つの道の中のいずれかの道に進むようになっています。ある人はイエスを信じることによってパラダイスを経て永遠のいのちに入って行きます。彼らは裁きを受けることがありません。また、ある人は律法の下で善悪を知らせる良心に苦しめられ、そののちにアブラハムとともに裁きを受けます。また、律法も善悪を知る良心もない者、すなわち不信者は底知れぬ所を経て地獄に行きます。この3つの道の中で、私たちは永遠のいのちの道に進まなければなりません。これが私たちがイエス・キリストを信じる理由です。
イエス・キリストを知ってこそ神を知ることができますし、神を知ってこそ永遠のいのちを得ることができます。ある人は教会生活をしながらも神を知ることには関心をもたないで、教理に従って宗教生活をしたり、良心の声に従って修養を積んだりすることにだけ没頭します。そのような人は永遠のいのちとは関係がありません。私たちの望みは主が再臨されるときに復活して空中でその方に会うことです。それゆえ、善悪を知らせる良心の支配から脱け出さなければなりません。イエスを信じるといいながらも続けて良心に従って善悪を分別するのであれば、その人は善悪を分別する裁きを受けるようになります。
息があるものはすべて死にます。一言で言うと、命は使い捨てです。一度、命を失うのであれば、二度と回復することはありません。人々は寿命を延ばすために運動をしたり補薬を飲んだりします。もちろんそのようにして寿命を数年、延ばすこともできますが、結局、死を避けることはできません。ある人は年を取っても顔にしわがなく、若く見えるといわれます。気分がいいかもしれませんが、その人も死を避けることができません。
人が死ぬという事実は創世以来、一度も変わったことがありません。神の御子さえも肉体をもったのちには死ぬしかありませんでした。ヘブル人への手紙2章9節はその方が肉体をもって来られたのは死を味わうためであったといいました。アブラハムも死にましたし、ダビデも死にました。彼らが死んだのちには誰も再び彼らを見ることができませんでした。死んだのちに生き返った者が存在しないためです。
ところが、イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)といわれました。私たちが信じるところはとてもやさしいです。私たちはイエスがよみがえられたという事実を信じます。イエスは人々によって殺されましたが、神はその方を生き返らせました。イエスがよみがえって弟子たちに現れたときに、弟子たちはその方を幽霊と考えました。イエスはそのような誤解をなくすために「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)といわれました。弟子たちはイエスが息をするのも、魚を焼いて食べるのも見ました。このように復活とは体を再び回復することです。
イエスの復活と結びついた者
イエスの中にいる私たちも将来、復活します。ただし、私たちはイエスの場合とは異なり、死んだ体が回復するのではありません。私たちの体は土から来たために土に帰り、神の御言葉によって養育された私たちの霊が体に変わるようになります。それゆえ、死んだ肉体が火葬場で灰に変わったとしても、復活するのには何の問題もありません。
復活には第一の復活と第二の復活があります。律法の下にいた者は裁きを受けるために復活します(ヨハネ5:29)。これが第二の復活です。イエス・キリストと結びついて裁きを受けない者は第一の復活に参加します。イエスはこれについて「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)といわれました。
どれほど多くの者が第一の復活に参加することができるでしょうか? ヨハネの黙示録7章4節は「それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」といいました。これまで長い間、この地に存在してきた多くのイスラエル人の中から、第一の復活に参加する者はわずか14万4000人です。その反面、異邦人の中からは数え切れないほどの多くの人が第一の復活に参加します。これについて9~10節は「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と子羊との前に立っていた。彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」といいました。
私たちがイエスを信じることによって接するようになった最も衝撃的な知らせは人が復活して永遠に生きることができるということでした。以前、私たちは「肉体の寿命が尽きると、人はそれ以上、存在することができない。」と信じていました。しかし、イエスを通して今は人には復活というものがあるという事実を知るようになりました。一言で言うと、私たちの信仰は「私はよみがえりである。あなたはこれを信じるのか?」というイエスの問いかけに答えるものです。
復活の知らせを最初にこの世に伝えた方はイエス・キリストでした。私たちがよく使う「福音」という言葉には「喜びの知らせ」という意味もありますが、その本質をさらに明確に説明する定義は「初めて聞く知らせ」です。マタイの福音書4章17節は「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」といいました。人類にとって福音はイエス・キリストによって「初めて聞く知らせ」です。
イエスは私たちに「私はよみがえりである。あなたが私を信じるのであれば、あなたも復活する。私とともに復活する!」といわれます。その方は私たちを呼んでバプテスマを受けさせました。イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける者は水の中に入って行くことによって自分の霊が死んだという事実を認めますし、水から上がることによってイエス・キリストの復活と結びつきます。バプテスマとは復活に対する信仰を体験するものです。
聖霊に満たされて第一の復活に参加しよう
よみがえられたイエスを数百人が見ましたし、その中にはイエスが天に上って行かれるのを見た者もいました。イエスは彼らに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使1:4) といわれました。イエスが命じられた通りに彼らは聖霊を受けるために切に祈り、五旬節の日にマルコの家の大広間で聖霊を受けました。これによって祭りの終わりの大いなる日、すなわち五旬節にイエスが「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)といわれた内容が成就されました。
ヨハネの福音書7章39節は「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」といいました。聖霊の降臨はイエスが栄光を受けてこそ可能なことです。これについてイエスも自ら「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)といわれました。それゆえ、信じる者が聖霊を受けはじめたというのはイエスがすでに天に上られたという事実を証ししているのです。
聖霊は神の霊でおられます。ローマ人への手紙8章11節は「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」といいました。イエスがよみがえられたのは聖霊がその方の中におられたためです。将来、私たちが復活することができるのも聖霊が私たちの中におられるためです。
神はイエスの復活を信じてその復活と結びついた者に印を押し、保証として聖霊を与えられます (Ⅱコリント1:22)。聖霊はイエスを信じる者を集めて教会を建てられますし、監督を立てて教会を牧させます(使20:28)。今、イエスは天におられますが、その名を呼ぶ者に聖霊を遣わして、イエスの働きをさせます。それゆえ、聖霊を受けた私たちがしなければならないのはイエスを現すことであり、イエスの力を現すことであり、イエスのいのちを現すことです。
聖霊に逆らってはいけません。主は「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:31~32)と警告されました。聖霊を悲しませ、聖霊の働きを消すのであれば、どのようにして第一の復活に参加することができるでしょうか?
主が再び来られる瞬間、復活に参加することができないで遅れて目をこすりながら起きる者となってはいけません。自分の霊魂が必ず第一の復活に参加することができるように聖霊に満たされなければなりません。良いことをしようとしたとしても聖霊に満たされないのであれば、することができません。偽らないようにしようとしたとしても聖霊に満たされないのであれば、まことの言葉を語ることができません。聖霊に満たされて自分の霊魂を第一の復活に参加させましょう!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 4. 1.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
「ベレヤ」とはベレヤ人の信仰を手本として、その信仰の精神をもとうとするものである。ベレヤとはただ御言葉を伝えるものである。聖書を解釈することも研究することもしないで、ただ信じるものである。
ベレヤ運動は神本主義信仰運動である。神本主義は神の御心を義と認める。第一の義は御子のために働くことである。第二の義は御子によって悪魔の働きを滅ぼすことである。第三の義はイエス・キリストの血の功労によって人類を救い、永遠のいのちを得させることである。それゆえ、神の御心が天でなされたように御子を通してこの地でなされたのである。
悪霊を追い出し、病気を癒し、異言を語るのはイエスを信じる者の普遍的な体験であるが、イエスを信じ、教え、伝えるのは神が喜ばれる御心である。私たちはイエスの中にとどまる。イエスが父の中にとどまられるように、私たちも主とともに神の中にとどまる。これによって神が喜んで愛される者となる。
私たちが伝えるのは人を喜ばせるためではなく、イエス・キリストが苦難を受けられたように血を流すまで罪と戦わせて勝利させるためである。主の福音は「主が私たちの罪を担って贖ってくださった。主に出て来て、その羽の下で注がれた血とともにし、これを信じて義とされなさい。」というものである。それゆえ、主が義とされた者を誰が罪に定めるのか? 誰がその愛から引き離すのか?
信仰は愛である。第一に「神を愛しなさい」といわれたので、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、品性を尽くし、命を尽くして神を愛する。「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」(Ⅰヨハネ4:6)という御言葉を肝に銘じなければならない。
私たちは信仰を人の知恵によってではなく、聖霊の助けによってもつ。牧会も人の知恵によってするのではなく、神の知恵によってする。神の知恵は聖書に記録された真理の御言葉である。
私は弱いので、主イエスの尊い血の力を信じる。知識がないので、聖書の御言葉だけを頼る。知恵がないので、聖霊の知恵を完全に頼る。これを否認するのであれば、その人は私を否認するのではなく、主イエスを否認するのである。主イエスは血と御言葉と聖霊を私たちの霊魂に与えてくださった。
ベレヤ人はただ聖書の前で謙遜な者である。私たちはベレヤ人となって、まことに教会を愛そう。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室