イエスを信じる者はイエスの働きを
(ヨハネの福音書14:9~17)
神は
ひとりの方でおられる
その方が
この世を創造し、
この世にその主人を知らせるために(詩100:3)
御言葉を遣わされた(ヨハネ1:14)
御言葉は自分を造った方を知らせる真理である(ヨハネ8:32)
イエスを信じる者はその方を知って、その方の働きをする(ヨハネ14:12)
イエスがなさった働きをしなければならない(Ⅰコリント11:26)
イエスの働きは救霊、聖さ、柔和、愛である
イエスは他の人の罪過を担ったことはあっても、(Ⅰペテロ2:24)
他の人を罪に定めることはなかったし、
聖徒を最後まで愛された(ヨハネ13:1)
教会はその方の体であるために、その方を愛する者から
大きな愛を受けなければならない(エペソ1:23)
私たちが
イエスを信じる者であるのならば、
イエス・キリストの働きだけをしなければならない(ヨハネ14:12)
これが信者になったというしるしであり、証しである(マルコ16:17~20)
イエスを信じる者が悪魔の働きをするのであれば、どうなるであろうか
イエスの人はその方の働きをしなければならない
◌ それよりも大きな働きをしようとしなければならない
それゆえ、祈り、聖くなり、熱心に
イエスの名を頼らなければならない
◌ イエスが遣わされた賜物を感謝して受け、
聖霊に満たされなければならない
聖霊はイエスの最高の賜物である
◌ 聖霊が一度、働かれるのであれば、永遠におられるし、
信じる者の中で働かれるし、
イエスがなさった働きをさせる
※ 聖霊を受けた者は力をもつ
イエスを知って、その方の働きをすることができる
聖霊に満たされて、その方の働きをしよう
イエスを信じる者はイエスの働きを (ヨハネの福音書 14:9~17)
神の御子が現した父の働きを、今は教会が聖霊によって担わなければならない
神はひとりの方でおられます。父なる神と御子と聖霊はそれぞれ位格をもっていますが、その働きはひとつです。イエスがなさった働きを見たというのは父なる神がなさった働きを見たということです。イエスはその働きをただ聖霊によって進められます。
感動的なのはその聖霊が今日、私たちに臨まれたという事実です。エジプトで奴隷となっていたイスラエルを荒野に導き、エルサレムまで導いたのは天使でした。天使は人の霊魂の中に入って行くことができないために、イスラエルを導くときに彼らの外で働きました。しかし、聖霊は天使と異なり、人の霊魂の中に入って来て導かれます。
イエスが「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16)を遣わすと約束された通りに、私たちは霊魂に臨んで永遠にともにおられる聖霊の導きを受けています。聖霊を受けて喜びに満ちていた者が怠惰な信仰生活をして力を失うと、聖霊が離れてしまったと誤解することがあります。しかし、聖霊は信じる者に一度、臨まれたのであれば、その人の中で妨害を受けて悲しむことはあったとしても、その人から離れることはありません。それゆえ、私たちは自分の弱さに執着しないで、聖霊を働かせなければなりません。
聖霊が私たちの中でなさる働きは新しいものではありません。それは神が定められた御心であり、神の御子を通してなされたことです。今はその働きが聖霊によって、教会を通して現れるのです。
私を信じる者はバプテマを受ける
イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)といいました。果たしてみなさんはイエスを信じる者でしょうか? イエスがみなさんを指して「この人は私を信じる者である!」と証しされるでしょうか?
イエスは「私を信じる者はバプテスマを受ける。」といわれました(マルコ16:16)。それでも、ある人は「私はまだ完全ではないので、バプテスマはあとで受けます。」といいます。これは謙遜ではなく、むしろ高ぶりです。バプテスマのヨハネが授けたのは水で授けるバプテスマでしたが、イエスが命じられたバプテスマは聖霊によって授けるバプテスマです。それを自ら拒むのは結局、聖霊に逆らうことです。
イエスが天に上られたのちに弟子たちはエルサレムで聖霊を受けて福音を伝えましたが、そのとき、どのようなことが起こったでしょうか? その御言葉を聞いて心を刺されて悔い改めた3000人がその日、すぐにバプテスマを受けました。また、宦官であるエチオピヤ人がエルサレムから帰国するときに馬車の上でピリポから福音を聞いて行ったことを考えてみてください。途中で水があるのを見ると、彼はすぐに馬車を止めて、ピリポを通してバプテスマを受けました(使8:26~39)。福音を聞いたとしても自分の足りなさを立ててバプテスマを拒むというのは御子の犠牲を通して施された神の恵みを拒み、善悪を分別させる良心を選ぶということです。これは自分の行為に従って裁きを受けるといって意地を張るのと同じです。
善悪を分別させる基準という点で、良心と同じ役割をするのが律法です。その律法を伝えたのは天使でした。福音を聞いたとしても依然として良心や律法に権威を与えるのであれば、それは天使の前で謙虚なふりをするということと同じです。聖書はすでにそのようにする者は報いをだまし取られると警告しています(コロサイ 2:18)。
イエスについての知らせを聞いて信仰をもったのであれば、すぐにバプテスマを受けなければなりません。イエスについて深く知ることができず、聖霊を受けることができなかったとしても、福音を聞いて信じたのであれば、バプテスマを受けることができます。福音とは何でしょうか? 福音はイエスが現れる前には人類が聞いたことがない知らせでした。息があるものはすべて永遠に生きることができないで、最後には死にます。しかし、イエスは例外でした。その方は「私はよみがえりである。いのちである!」といわれましたし、「私を信じる者も復活して、永遠のいのちを享受する。」といわれました。それゆえ、復活を慕い求めるのであれば、自分に足りない点が多かったとしてもすぐにバプテスマを受けなければなりません。
私を信じる者は聖霊を受ける
イエスは「私を信じる者は聖霊を受ける。」といわれました。ヨハネの福音書7章38~39節は「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」といいました。
ガリラヤの海の北側にはヘルモン山があります。その山から流れ出る水は地に吸い込まれて、ガリラヤの海の近くで湧き上がります。ガリラヤの海には常にそのような水が流れ込みます。そして、その水はヨルダン川を通して南に流れて死海に入って行きます。名称とは関係なく、実際にガリラヤの海や死海はすべて湖ですが、ガリラヤの海は常に川を送り出している反面、死海は水を流出させることができないために、生命体が生きることができない死んだ海となっています。
イエスが「わたしを信じる者は聖書が言っている通りにその人の心の奧底から生ける水の川が流れ出るようになる。」といわれた通りに、私たちは聖霊に満たされ、常に神の働きを体験しなければなりません。敬虔な姿に執着しないで、敬虔な力を所有しなければなりません(Ⅱテモテ3:5)。神の国は言葉にではなく、力にあるためです(Ⅰコリント4:20)。
私を信じる者にはしるしが伴う
イエスは「私を信じる者にはしるしが伴う。」といわれました。マルコの福音書16章17~18節は「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」といいました。ある人は神の御言葉を尊重するといいながらも、御言葉に伴う力は否定します。彼らは自分に力がないことを合理化させようとして、イエスが語られたこの御言葉を聖書から削除しようと試みたりもします。
しかし、病人を癒し、死んだ者を生かし、らい病人をきよめ、悪霊を追い出す力はイエスが十二弟子を召されたときから与えられたものでした(マタイ10:8)。彼らはイエスの御言葉に従いました。それで、その御言葉が自分になされるのを体験しました。イエスは「これからはその力が信じる者すべてに現れる。」といわれました。そして、その御言葉は今も私たちになされています。
私を信じる者は私がする働きをする
イエスが「私を信じる者は私がする働きをする。」といわれたので、私たちはまずその方がどのような働きをなさったのかをはっきりと知らなければなりません。今日、人々が主の御前で求める内容を聞いてみると、主が期待されたことと大きく異なるということを知ることができます。「主よ。私たちにもっと広い家を与えてください! 夫を昇進させてください! 息子を就職させてください! 娘が良い夫を得ることができるように助けてください!」。
イエスが母とともに、カナの婚礼に行かれたことがあります(ヨハネ2:1~12)。イエスの母がイエスにぶどう酒がなくなったといったときに、イエスは何といわれたでしょうか?「私と何の関係があるのか。」といわれなかったでしょうか? イエスは「私は多くの人のための贖いの代価としてこの地に来た。」といわれましたし(マタイ20:28)、「これは人間に永遠のいのちを得させるためである。」といわれました(ヨハネ3:16)。
私たちはイエスの体の器官です。教会はイエスの体ですし、私たちはその体を構成している器官です。頭がすることに体が従うのが当然ですし、体がすることのためにすべての器官が動くのは当然です。それゆえ、イエスを信じる者は誰でも教会の体の器官として、イエスの働きに参加しなければなりません。
この地で長い間、教会生活をするというのは私たちの霊魂にとって非常に有益なことです。長い間、教会生活をするというのは主とともに働く時間がその分だけ長いということですし、天で受ける冠を準備する機会がその分だけ多いということです。胎児が元気に生まれるためには胎の中で10ヶ月間、十分に成熟しなければなりません。そのような機会をもつことができないまま6~7ヶ月で生まれた子どもはその分だけ苦労をするようになります。これと同じように、私たちは天で栄光を受けて永遠に生きるために教会生活を通して十分に準備しなければなりません。
主は血を流すためにこの地に来られました。私たちが聖餐をするのはその事実を覚えるためです。コリント人への手紙第一11章26節は「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」といいました。そして、続けて「聖餐の本来の意味を忘れたままパンと杯を飲み食いするのであれば、これは自分の罪を飲み食いすることと同じである。そして、それによって弱い者と病人が多くなり、死ぬ者も多くなる。」と警告しています(Ⅰコリント11:27~30)。
それゆえ、私たちはイエスを信じて、その方の働きをする者とならなければなりません。イエスは「パンを食べ、杯を飲むときには私を覚えてこれを行いなさい。」といわれました(ルカ22:19)。また、聖書は「これを行って、主が来られるときまで主の死を伝えなさい。」といいました(Ⅰコリント11:26)。それゆえ、私たちはイエスが命じられたことを人々に教えて、守らせなければなりません(マタイ28:20)。私たちが自ら尊い血の杯となって、天から下って来たぶどう酒を人々に飲ませなければなりませんし、私たちが自らキリストの肉となって、天から下って来たパンを人々に食べさせなければなりません。これがイエスがなさった働きをするということです。
私を信じる者はさらに大きな働きもする
イエスは「私を信じる者は私がする働きよりもさらに大きな働きをする。」といわれました(ヨハネ14:12)。イエスがなさった働きよりも大きな働きとは何でしょうか? それはバプテスマを授けることです。イエスは十字架で死ぬことによって人々の罪を贖う働きをなさいましたが、人々がその贖いの功労を受け入れることができるようにバプテスマを授けたことはありませんでした。その方が「私には天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」と命じられたのはその方がよみがえられたのちのことでした(マタイ28:19)。イエスの弟子たちがそれ以前に人々にバプテスマを授けたことはありましたが(ヨハネ4:1~2)、それはヨハネのバプテスマと同じように水で授けるバプテスマでした。
バプテスマとは人の霊魂が神と結びつく体験です。私たちがイエスの弟子としてしなければならないのは人の霊魂を救うことですが、このために私たちは人々に福音を伝え、それを信じる者にバプテスマを受けさせなければなりません。
私たちはそれぞれ一粒の種のようなものです。種が地に落ちたとしても死ななければ、時間が流れたとしても一粒だけです。しかし、種が地に落ちて死ぬのであれば、100倍の実を結ぶことができます。どんなに敬虔な生活を熱心にしたとしても、そのような実がないのであれば、すべてが無意味です。
イエスは「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19) といわれました。教会がある人に向かって「今、あなたの罪は赦しを受けました。」と宣言するのであれば、神もそれを認められるというのです。それゆえ、教会は人々に福音を伝えるときに、彼らが信じてバプテスマを受けるように助けなければなりません(マタイ16:16)。
教会はイエスの体です。それゆえ、イエスがこの地でなさった働きを続けなければなりませんし、また、その方がなさった働きよりも大きな働き、すなわち人々にバプテスマを受けさせる働きもしなければなりません。イエスが切実な望みを込めて「私を信じる者」について語られたので、私たちはまことにイエスを信じる者とならなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 4. 8.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
牧会とは「開拓者の霊感と使命の哲学」を意味する。それゆえ、教会に多くの牧師がいたとしても牧会者はただひとりである。いわゆる副牧師は牧会者を助ける助力者である。副牧師の霊感と哲学が頭を上げるのであれば、教会は混乱する。自分の霊感と哲学があるのならば、使命をもって開拓すればいい。すでに他の人が建てた教会で自分の霊感と哲学を現して牧会に挑んではいけない。
牧会と教会は厳然と異なる。教会とはイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、聖なる集会に集まり、聖なる義務を果たす信者の集まりをいう。しかし、牧会とはひとりの人が信仰によって霊感と哲学を受け、それを使命と考え、教会を成長させていくものである。牧会とは担任監督の霊感と哲学を使命として前に進むものである。
今日、ある人は牧会と教会を混同している。牧会は霊感と哲学であるし、教会は罪から救いを受けたキリスト者である。牧会をよくするのであれば、教会はリバイバルするし、そうでなければ、教会はリバイバルしない。それゆえ、牧会者がすべきことがあるし、教会がすべきことがある。
私は牧会者として選ばれた者である。それゆえ、自分が信じ、祈り、主から受けた霊感と自分の人格から出て来る哲学をもって教会を開拓した。そして、生涯、自分の霊感と哲学を集中させ、教会を成長させてきた。他の人の考えと異なる点があったとしても、それはそれぞれの霊感が異なるためである。自分の霊感と哲学を集中させ、立派な教会、満足する教会、神が願われる教会をなすために全身全霊、働いてきた。
私はまことの牧会者でない者たちが教会を騒がせ、羊を盗むのを見た。これは彼らが牧会者ではなかったためである。私たちの教会と同じ教会は存在しない。それぞれの教会で牧会者が存在し、主から受けた霊感と哲学をもって牧会をしているためである。
私たちの教会は昨年、大きな試練を受けたが、私は少しも揺れ動くことがなかった。これは私に与えられた主の賜物である霊感、また、私が祈りながら努力する哲学を使命と考えたためであった。私は再び立ち上がることができる。しかし、教会員を混乱させ、散らばらせた彼らは絶対に牧会することができない。彼らには人の考えがあったとしても霊感がないし、欲があったとしても哲学がなく、使命がない。
牧会は監督ひとりがもつ霊感と哲学である。誰でも自分の牧会をしたいのであれば、それぞれ離れて祈りながら、自分の霊感と哲学を使命として、はじめなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室