
主の声を聞くことができる耳
(ヨハネの黙示録3:14~22)
神は
公義の主でおられる
その方は
この世を治めるときに、公義によって治められる(詩89:14)
これが神の愛である(Ⅰヨハネ4:8)
神の公義は私たちにとっていのちである(ハバクク2:4)
誰でも生きるためには公義に従わなければならない
しかし、すでに堕落してしまったために、公義が裁き、
死として現れたのである(ローマ6:23)
これが律法である(Ⅰコリント15:56)
私たちの信仰は熱いものでなければならない
熱いものであってこそ、神の愛を知って受ける
生ぬるいものは不信仰である
神の愛を知らない者である
神の愛を知らないのであれば、捨てられる(黙3:16)
主の声を聞きなさい(黙3:20)
聖霊が語られる御言葉を聞いてこそ、信仰である
聖霊の御言葉は真理である(黙3:22)
真理はイエス・キリストであり、恵みの御言葉である
偽りにだまされないで、まことの言葉を聞かなければならない
真理だけがまことの御言葉である
◌ どうして偽りに権威を置くのか
まことの言葉は真理である
真理はイエスの血の御言葉である
◌ イエスの血の御言葉はすべての咎を担い、
恵みを施す
この恵みを受けてこそ、霊魂が生きる
◌ 聖霊の御言葉を聞く耳をもつ者の
霊魂だけが生きて、平安を得る
真理は霊魂を生かすいのちの御言葉である
※ 偽りに自分の霊魂を預けないで、
真理は霊魂を永遠のいのちにまで導く
主の声を聞くことができる耳 (ヨハネの黙示録 3:14~22)
神はイエスを公義と定められた
神は公義の神でおられます。公義とは何でしょうか? この質問に対する答えは「罪とは何か?」という質問につながっています。公義に挑むのが罪であるためです。
「 罪」という言葉を聞くと、人々は普通、良心の呵責を引き起こす特定の行為、すなわち自犯罪を連想します。自犯罪が発生するのは人の心の中に罪を犯そうという品性があるためです。これを本罪といいます。人々が罪に定められるのはこれらの自犯罪や本罪のためですが、これらの根本には原罪があります。原罪とは最初の生きた霊であるアダムが犯した罪をいいます。
アダムが犯した罪は人々が一般的に知っている倫理や道徳の違反ではありませんでした。彼が犯した罪は神から食べるのを禁じられていた「善悪を知る木の実」を食べたことでした。しかし、それによって彼自身はもちろん彼に属する人類すべてが罪人となってしまいました。神はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創2:17)といわれましたが、その中には「善悪を知るようになれば、あなたは裁きを受けた者となるし、死という罪の価を避けることができなくなる。」という警告が含まれていました。
感謝すべきことは「神がイエスを遣わされたことによって、アダムの中で罪人となった人類の罪の価が払われた。」という事実です。イエスを信じる者はすでに救いを受けたのであり、イエスを信じない者はすでに裁きを受けたのです。これについてヨハネの福音書3章18節は「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」といいました。
神はイエスの名を公義と定められました。それゆえ、どんなに凶悪な殺人者であったとしてもイエスの名を信じるのであれば、救いを受けます。また、反対に、道徳的にどんなに立派な者であったとしてもイエスの名を信じないのであれば、裁きを脱け出すことができません。「私は生涯、罪を犯さなかったのに、イエスを信じないで地獄に行き、あの人は生涯、罪を犯してきたのに、イエスを信じるといって天国に行くのですか?」と抗議する者もいます。しかし、誰も神が定められた公義を超越することはできません。
イエスの名が公義であるという言葉にはその名によってこの地に来られたキリストの功労が公義であるという意味も含まれています。イエス・キリストは十字架で死ぬことによって私たちの罪を贖ってくださいました。私たちはそれによって罪の赦しを受けました。罪を犯した者が赦しを受けるのを受け入れたがらない者もいます。しかし、赦しを受けない者は誰も神の御前に出て行くことができません。
私たちの中に神の公義がなければなりません。生涯、良心の呵責を感じない人生を送ってきた者は神の公義の代わりに自分の良心を頼ろうとしますが、最終的に裁きを免れることができません。イエスが「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)といわれたので、永遠のいのちを得ようとする者はイエスを信じなければなりません。
イエスが語られた「イエスを信じる者」には3つの体験がある
それでは、イエスを信じるというのはどのようなことでしょうか? これについての説明は人によって異なりますが、私たちが絶対に受け入れなければならないのはイエス自身の証しです。これについてはその方が「私を信じる者とはこのようである。」と語られた内容があります。
第一に、イエスを信じる者はイエス・キリストの名によってバプテスマを受けます(マルコ16:16)。バプテスマのヨハネが施したバプテスマは単に水で施したものであり、人々はそれを通して自分が罪人であることを告白しました。しかし、イエス・キリストの名によって受けるバプテスマは水だけではなく、聖霊によって受けるものであり、人々はそれを通してイエス・キリストとひとつになります。
第二に、イエスを信じる者は聖霊を受け、それによって賜物を豊かに現します。イエスはこれについて「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奧底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)といわれました。
第三に、イエスを信じる者はイエスの名に伴うしるしを現します。イエスはこれについて「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」(マルコ16:17~18)といわれました。
イエスは「私を信じてこそ救いを受ける。」といわれ、また、「私を信じる者にはこのような体験が伴う。」といわれました。それゆえ、これら3つの体験がない者がどうして救いを確信することができるでしょうか?
これら3つの体験にはベレヤ運動の価値が集約されています。「ベレヤ」という言葉は 「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」という使徒の働き17章11節の御言葉から取ったものですが、ベレヤ運動をただ毎日、聖書を調べる運動と考えてはいけません。どの教派であっても、どの教会であっても熱心に聖書を調べようと努力しますが、問題はイエスが語られた3つの体験を無視しているというところにあります。
私は信仰生活をメソジスト教会でしましたし、神学の勉強を長老教会の神学校でしましたが、バプテスマの霊的な価値を知ったために、教会を開拓するときにはバプテスト教団を選択しました。しかし、そののちにバプテスト教団の重大な限界を発見しました。それは信じる者が受けなければならない聖霊とその賜物を否定するということでした。聖霊の働きを強調するペンテコステ運動はアメリカのバプテスト教会の主日学校からはじまりましたが、バプテスト教団はペンテコステ運動を徹底的に排斥しました。
今はペンテコステ教会が世界的な規模に発展しましたが、ペンテコステ運動も一定の限界を脱け出すことができていません。それはイエスが強調された体験の中で第三に該当する「力の普遍性」を実現することができていないという点です。ペンテコステ運動は信じる者ならば誰でも聖霊を受けなければならないということ、異言に代表される賜物を積極的に使わなければならないということを強調しましたが、イエスが「信じる者にはこのようなしるしが伴います。」といわれた内容を実現するには至りませんでした。
信仰生活は自分の思い通りにするものではありません。神はイエスの名を、そして、イエス・キリストの功労を公義と定められました。イエスが「私を信じる者とはこのようである。」といわれたので、私たちはまことの「信じる者」とならなければなりません。
ラオデキヤ教会を通して聖霊が教会に語られることを聞きなさい
ヨハネの黙示録にはアジアの7つの教会が言及されています。エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤの教会がそれです。イエスが7つの教会に聖霊によって語られたことは私たちにとっても重要です。
ラオデキヤ教会は物質的に豊かでした。それゆえ、その教会には恵みに対する渇望と切実さが足りませんでした。今日も「医療をはじめとする各種の文化的な恵みから疎外された地域の人々はイエスの名に伴うしるしを切に慕い求めるが、経済的に豊かな地域の人々はそうではない。」という傾向があります。ラオデキヤ教会の豊かな生活は彼らを熱くも冷たくもない者にしました(黙3:16)。
ヨハネの黙示録3章14節は「ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」といいました。「神に造られたものの根源である方」とは誰でしょうか? 神は御子を相続者と定め、万物を造られました(ヘブル1:2)。「神に造られたものの根源である方」とは神の御子であるイエスをいいます。ラオデキヤ教会に語られた方はイエスでした。ところが、その方が語られる御言葉を指して22節は「御霊が諸教会に言われること」といいました。
イエスが血を流して死なれたという事実を誰が語るのでしょうか? 父なる神は本来、私たちが目で見たり耳で聞いたりすることができる方ではありません。また、人の子はすでに天に行かれたために、今、私たちはその方の声を直接、聞くことができません。私たちがイエスの御言葉を聞くのはただ聖霊によってだけ可能です。
信仰生活は聖霊の御言葉を聞いて聖霊の導きを受ける生活です。聖霊の導きを受けるためには教会を超越することができません。信じる者であるのならば、「あなたは誰に導かれて、信仰生活をはじめましたか?」という質問に答えることができなければなりません。導く者がいなければ、その信仰は感情に導かれる神秘主義に偏る可能性が高いです。「来て、そして、見なさい!」というピリポの言葉を聞いてイエスの御前に出て来たナタナエルのように、信仰には必ず導く者が存在します。牧師の説教も聖霊が聖徒を導かれる手段です。それゆえ、説教を通して聖霊の御言葉を聞くことができなければなりません。
ラオデキヤ教会の人々は自分が豊かであり、足りないものはないと考えていたために、他の人の干渉を受けようとしませんでした。しかし、イエスは彼らを「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」(黙3:17)と見ました。イエスは彼らに「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:18)といわれました。イエスが買いなさいといわれたものは価格として計算することができないほど貴いものです。それを得る方法は恵みしかありません。
子どもがお金を払わないで店から品物をもって出て来ることができるのは母親がすでにその価を払ったためです。これと同じように、私たちが神から与えられるものを恵みとして所有することができるのはイエスがすでに価を払ってくださったためです。
神がアダムに「善悪を知る木の実を取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」といわれたように、人が良心や律法に目を向けるのであれば、それによって罪に定められるようになりますし、刑罰を避けることができなくなります。悔い改めなさいというのは罪を悟りなさいという意味ではなく、恵みを受けなさいという意味です。私たちの心霊の中で善悪を知る良心よりも主の恵みが大きくなければなりません。
火で精練された金とはイエスの名をいいます。その名はあらゆる迫害や呪いを受けながらも勝利した名です。肉体が殴られるのは苦痛ですが、名が冒瀆を受けるのはさらに苦痛です。ところが、イエスという名はこの世に現れたときから絶えず冒瀆を受けています。イエスがこの地におられる間、人々はその方を殺す思案を巡らせ、最終的にその方を十字架につけましたが、これはその名を人々の記憶の中から消し去るためでした。しかし、私たちは聖霊によってその名を得て、豊かな者となりました。神の御子が相続財産として受けられたその名を、私たちも相続財産として所有するようになったのです(ヘブル1:4)。
ラオデキヤ教会の人々は華麗な服を着て歩き回っていましたが、それが彼らの霊魂の恥を隠すことはできませんでした(黙3:18)。それゆえ、イエスは彼らに白い服を買って着なさいといわれました。ヨハネの黙示録19章8節は「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」といいました。白い服を買って着なさいというのは聖徒の義務を果たしなさいという意味です。
イエスは「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:20)といわれました。主の声を聞くことができない者は戸を開けることができませんし、それゆえ、主がその人に入って行ってともにすることもできません。それゆえ、主とともにすることを願う者はまず主の声を聞かなければなりません。教会で説教を聞くときにそれを人の声として聞かないで、主の声として聞かなければなりません。
申命記30章19節は「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、」といいました。律法は人を呪いと死に導きますし、恵みと真理は人を祝福といのちに導きます。恵みと真理を宣べ伝えるのは聖霊の役割です。それゆえ、私たちは生きるために聖霊の御言葉を聞かなければなりません。何よりも重要なのは教会で聞く御言葉を人の言葉として聞かないで、聖霊の御言葉として聞かなければならないということです。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい!」という御言葉を覚えてください(黙3:22)。自分だけでなく、子孫にも聖霊が語られる御言葉を聞かせなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 5. 6 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 監督 金箕東牧師
私はこの世で多くのことを体験してきた。そのほとんどが私に忍耐と闘争を要求した。それゆえ、振り返ってみると、それらすべてが自分との戦いであった。私は一日に何十回も自分と戦わなければならなかった。
この世で体験することのほとんどは人を悔しがらせ、歯がゆくさせ、腹立たせる。目に見えない風がどこからか吹いて来るように、自分の中から怒りが込み上げてくるときにはまことに耐えがたかった。時には口から汚い悪口が出て来そうで、それを抑えるために厳しい戦いをしなければならなかった。この世の人々はこのようにしてお酒を飲むようになるのであろう。酒の勢いによってストレスを克服しようとするのであろう。そのような悪い考えを集めてみると、どんなに悪くて汚いであろうか。しかし、聖霊が私の中におられ、私の品性や性格、気性を治めてくださるので、私はこの世の悪い挑戦を退けている。
カインのねたみは神にとって大きな心配事であった。神は「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創4:7)といわれたが、カインにはそのようにする力がなかった。霊がなかったネフィリムは山の獣と同じであったが、生きた霊から生まれたカインは霊的な存在であった。それゆえ、聖霊が臨んでおられなかったときにも神の御言葉の警告があり、その御言葉の命令があった。しかし、カインはこれを無視した。
神の御言葉は私が従わなければならないが、聖霊は自ら働かれる。私は神の御言葉を聞いて従い、自分の気性を克服し、聖霊の力を受け、自分に勝利しようとしてきた。新しい日が来ると、どのような問題が襲ってくるのであろうかという無用な心配が私を苦しめる。
私は四方八方に風が吹き荒れている荒野に出て来た、ろうそくの火のようである。いつ消えるのか、揺れ動くのかもわからない。それゆえ、主の御言葉を聞いてこそ生きることができるし、聖霊の力を受けてこそ勝利することができる。聖霊の力とは相手を制圧するものではなく、私を支配するものである。
漫画や映画では主人公が特別な力によって相手を退けて制圧する場面が出て来る。聖霊の力はそのような妖術ではなく、私の中にとどまる悪を制圧する力である。天使は私を助ける働きもするし、相手を制圧する働きもする。しかし、聖霊は相手と戦わないで、ただ私の中におられ、私を押さえつけ、包み、霊魂に力を与えてくださる。それゆえ、私は毎日、耐えて生きているのである。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室