一人多役(ひとりたやく)
(ルカの福音書19:11~27)
神は
ただひとりの方でおられる
その方が
万物を創造して支配される(へブル1:3)
万物に種を与えられたが、種が育って木となる
アダムひとりによって人類が地に満たされたように、(創1:26~28)
イエス・キリストひとりによって空の星のような数の
イエスの人が造られた(ヨハネ3:16)
それゆえ、
一粒の麦が多くの粒となった
一粒のからし種が大きな木となって、鳥が巣を作る
すべての人に良い種のような信仰が与えられた(マルコ16:14~16)
すべての信仰が「1ミナ」である
しかし
ある人は一人十役をすることによって称賛を受ける
ある人は一人五役をすることによって称賛を受ける
ある人は一人一役もすることができないで
主イエスを失望させる
主の恵みを受けた者は主を失望させることがない
私たちはすべて同じように1ミナの信仰をもった
信仰を経営する者は愛を受ける
◌ ミナには王の肖像が刻まれている
信仰は王の肖像をもつ証しである
すなわち、イエス・キリストのかたちである
◌ イエス・キリストのかたちをもった者は
さらに熱心に証しして10人を担い、
イエスの人をその分だけ増やす
◌ 怠け者は不信仰である
イエス・キリストのかたちがさえぎられており、
それさえも守る力がない
※信じる者はそれぞれ2、3人を担おう
伝道や献身において2、3人を担おう
ひとりが10人を担おう
一人多役 (ルカの福音書 19:11~27)
神が働かれる方法
神はひとりの方でおられます。その方は天を造って、そこを多くの天使によって満たしました。また、その方は宇宙を造ってその中に被造物を置き、それぞれ成長させ、増やしました。これらは神の働きにおいてとても重要な要素でした。
一粒の種はとても小さいですが、その中には種の世界が入っています。種はまかれると、根を張り、芽を出し、枝を伸ばし、葉をつけ、花を咲かせ、数百倍の実を結びます。神はアダムを選び、彼を通して人類を得られました。また、神はアブラハムを選んで、彼と同じ信仰をもった者を空の星、海辺の砂のように多く増やしました。これらはすべてその方法が類似しています。
農夫が一粒の種を畑にまくのはそれを通して100倍の実を得ることを願うため、そうでなければ60倍の実でも得ることを願うため、あるいは少なくとも30倍の実でも得ることを願うためです。この地で見ることができるこのような事象は天にあることの模型です。神は種をまき、それを通して100倍以上の実を得ることを願われます。
神がまかれた種とは福音です。その方は福音が続けて伝えられ、全世界にイエス・キリストの教会が建てられ、その教会が絶えず成長してリバイバルすることを願われます。その方は福音を受けた者がとどまっていることを願わないで、彼らが地の果てにまで福音を宣べ伝えることを願われます(マタイ28:19)。このような神の願いを成就するのは神の働きを預かった者の役割です。
ミナを受けた者の望み
ルカの福音書19章11~27節には「ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に行くときに、しもべにそれぞれ1ミナずつ分け与え、帰って来たのちに彼らとそれを清算する。」という話が記録されています。イエスがたとえとして語られたこの話は神が自分の働きを預けた者に何を願われるのかをよく現しています。
ミナとはその当時に流通していた銀貨の単位です。カイザルに税金を納めることが律法にかなっているのかと質問する者に、イエスは銀貨ひとつをもって来させて「これは誰の肖像ですか? 誰の銘ですか?」と尋ねられました。そのとき、その人は「カイザルです。」と答えました(マルコ12:14~17)。これを通して知ることができるように、その当時の銀貨には王の肖像がありました。
しもべに銀貨を分け与えて遠い国に行った身分の高い人は王位を得て帰って来ました。王位をもったというのは裁く権勢をもったという意味でもあります。イエス・キリストは自分の体を裂いて私たちに肉と血を与え、よみがえって天に行き、それによって王位を得られました。その方は裁く権勢をもって再び来られますが、そのときにはそれぞれの行いに応じて報いが与えられます。
王がしもべを判断する基準は1ミナをもって商売をしてもうけたミナの量でした。王は10ミナをもうけたしもべに「よくやった。良いしもべだ。あなたは小さなことにも忠実だったので、10の町を支配する者となりなさい。」といいましたし、また、5ミナをもうけたしもべにも「あなたも5つの町を治めなさい。」といいました。しかし、何もしないで1ミナをふろしきに包んで置いたのちにそのままもって来たしもべには「悪いしもべだ。私はあなたの言葉によってあなたを裁こう。あなたは私が預けなかったものを取り立て、まかなかったものを刈り取る厳しい人間であると知っていた、というのか。それならば、どうして私のお金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば、私が帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。」と叱り、彼がもっていた1ミナを取り上げて10ミナをもっている者に与えました。
身分の高い人はしもべに1ミナを分け与えながら自分が帰って来るときまで商売をしなさいといいましたが、どうして1ミナをそのままもっていた者は何もしなかったのでしょうか? 身分の高い人の判決からその理由を発見することができます。彼は悪いしもべに向かって「私が王になるのを望まなかったこの敵はすべてここに連れて来て、私の目の前で殺してしまいなさい。」といいました。1ミナをそのままもっていた者が何もしなかったのは身分の高い人が王になるのを望むことも信じることもしなかったためでした。
私たちの望みは「イエス・キリストが王位をもって再び来て、それぞれの行いに応じて報いを与えられる。」ということです。このような望みもなしに教会生活をする者がいるのであれば、その人はこの地にいる間にただ平安を得ようとして教会に通う宗教人に過ぎません。果たしてそのような者が神から与えられた信仰を貴く考え、その信仰にふさわしい実を結ぶでしょうか?
私にある神のかたち
神から与えられた信仰は神の御子イエス・キリストです。イエス・キリストは神のかたちでおられますし、そのかたちが私たちにあります。これは私たちの肉体がその方のかたちに似せて造られたという意味であるだけでなく、イエス・キリストが聖霊によって私たちの中に入って来ておられるという意味でもあります。私たちに信仰があるというのはイエス・キリストが私たちの中におられるということですし、神のかたちが私たちの中にあるということです。
私たちはイエス・キリストの肉を食べ、その血を飲んだ者です。これを記念するのが聖餐です。それゆえ、聖餐に参加する者は誰でも自分の中に神のかたちがあるという事実を知らなければなりません。残念なことに、多くのキリスト者が自分の中に神のかたちがあるということを認めて自由を享受しようとするよりも、続けて律法や良心を義と考えます。彼らは常に罪に定められ、それによって常に不安をもっています。
今、私たちが罪による呪いや刑罰を恐れないで神の御前に出て行ってその方に仕えることができるのは私たちが罪を犯さなかったためでも、私たちが犯した罪を残らずに探し出して告白したためでもありません。私たちが多くの罪過をもち、さまざまな面で弱かったとしても神から愛を受けることができるのは私たちが神の子となったためです。私たちが神の子となったのは神のかたちが私たちの中にあるためです。
どれくらいもうけたのか
王位を受けて帰って来た身分の高い人はしもべがそれぞれ1ミナをもってどのように商売をしたのかを確認するために彼らを呼び寄せました。これと同じように、私たちに信仰を与えて天に上ったイエス・キリストは再び来て、私たちが神のかたちを受けてそれをもってどれくらいもうけたのかを確認されます。神のかたちを受けたのちに、ある人はあらゆる障害があるにもかかわらずひとりで多くの役をこなしながら教会を開拓し、その教会をリバイバルさせ、多くの霊魂を救って弟子とします。しかし、ある人はむしろ霊魂を試みに遭わせて教会に深刻な傷をもたらします。
教会員の中には熱心に福音を伝え、弟子として養育し、以前にはなかった教区をひとつ作り出す者もいます。ある人はそのようにして地域礼拝堂を建てたりもします。主日学校の教師として続けて子どもたちに御言葉を教え、多くの霊的な指導者を輩出する者もいます。その反面、教会から何かの役割を預かりながらも商売が忙しいという理由で無責任に自分の職分を離れる者もいます。そのような者は1ミナを受けながらもそれをふろしきに包んでしまっておいた者と異なるところがありません。
そのような者と関連して、マタイの福音書25章のタラントのたとえには「主人が1タラントをそのまま差し出したしもべに『役に立たぬしもべは外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。』といった。」という内容が記録されています。「外の暗やみ」に追い出される者とは地獄に行く者をいうのではなく、天国に入って行ったとしても都の中には入って行くことができない者、すなわち父の家に入って行くことができない者をいいます(ヨハネ14:2)。
私たちはミナを受けた者です。それならば、これまで私たちを通して救いを受けた者がどれくらいいるでしょうか? 10ミナをもうけたしもべに王は10の町を預けました。ミナを受けた私たちがさらにどれくらいのミナをもうけたのかにしたがって、王位を得た主が将来、私たちに預ける町の数が決められるのです。それゆえ、私たちはひとりでも多くの霊魂を救わなければなりません。
ある人は教会から職分を受けて霊魂を立派に養育しますが、ある人は教会から預かった霊魂さえも散らしてしまいます。物質的な利益に執着し、私的な感情に縛られ、約束したことさえも守らない者に誰が近づくでしょうか? 霊魂からお金を借りる者もいますし、事業を拡張させるために関係を利用する者もいます。そのような者が担当した教区が砂の粒のように散らばってしまうのは時間の問題です。
「アーメン。主イエスよ。来てください。」というみなさんの告白は果たして真実でしょうか? みなさんは主イエスが万王の王として再び来られる日をまことに慕い求めているでしょうか? みなさんが受けた1ミナが依然としてふろしきに包まれていないでしょうか? 果たしてみなさんを通して何人が神のかたちを所有したでしょうか?「私が王になるのを望まなかったこの敵はすべてここに連れて来て、私の目の前で殺してしまいなさい。」という王の号令を覚えてください。
王の帰還を待つのであれば
コロサイ人への手紙1章24~27節は「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」といいました。
パウロは霊魂を救って完全にするために、特に異邦人に神の栄光を知らせるためにキリストの残された苦難を自分の体に満たすといいました。パウロだけでなく、神のかたちを所有した者であれば誰でもそのようにしなければなりません。自分の臆病な品性を言い訳にして神の期待を無視してはいけません。信仰は本来、品性を尽くし、心を尽くし、力を尽くして神を愛することです。
肉体のためにどんなにすばらしい家を建てたとしても、また、肉体のためにどんなに忙しく働いて事業を成功させたとしても、時が来ると、それらをすべて下ろしてこの世を離れなければなりません。そのときにこの地にとどまるために身もだえをしたとしても意味がありません。それゆえ、霊魂に有益なことをしてください。霊魂は永遠に存在します。神はみなさんに神のかたちが刻まれたミナを与えられました。それゆえ、みなさんを通してさらに多くの者が神のかたちを所有するようにしてください。
みなさんは万王の王であるイエスが再び来られるのを望んでいるでしょうか? それならば、自分を聖くして、花婿を待ち望む花嫁のようにその方が来られる日に備えてください。ミナを受けたので、それを使ってください。自分の品性のせいにしないで、聖霊によってそれを克服してください。神のかたちがみなさんにあるので、みなさんから神のかたちが現れるようにしてください。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー金箕東】 2018. 5. 13.(主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
田舎の畦や畑道を歩いてみると、大きな葉をもつ草がある。その葉のほとんどは地面にぴったりと張りつくように低い姿勢で育っていく。私の故郷の方言ではこの草を「ジルゲンイ(オオバコ)」という。その草を取ってお粥にすると、冬葵の味噌汁のような味がするが、とても舌触りがいい。この草は他のところでも育つが、そのほとんどは多くの人が通る農村の路上で育つ。それゆえ、人々に踏みつけられたり牛に踏みつけられたりしてまともに育つことがないし、引き裂かれてつぶされるためにナムルとして食べることもあまりない。どうしてその名をジルゲンイと呼んだのであろうか?
ジルゲンイはその名の通りに踏みつけられてつぶされたとしても、根だけは固い地面に深く下ろし、雨が降ったり時間が経ったりしたとしても再び息を吹き返す。そのように強い自生力をもっている。そのために、強くてうんざりするという意味でジルゲンイと呼んだのかもしれない。私はその草を70年前に見たが、今でもその形を思い浮かべて、ナムルとして食べたくなる。市場にはまだ出て来ていないようだが、私は常にジルゲンイを思い出す。
私の記憶からこのように消えないのはその草が私の生涯と類似しているためである。この世の人々に踏みつけられ、つぶされ、葉をすべて引き裂かれ、ようやく根だけを残したとしても再び力を出して生き返る。これは私の事情と同じである。そのために、忘れることができないのかもしれない。そのとき、私は「このジルゲンイは道を行く人々に踏みつけられ、引き裂かれ、ほとんど死んだのちに再び生き返る。そのような使命をもって生まれたようであるが、それは私の立場と類似している。」と考えた。
私は楽な生涯を送るために生まれてきたのではない。生まれたときから人々に踏みつけられ、つぶされ、折られたのちに再び力を出す働きをするために選ばれたようである。生涯、ジルゲンイのように過ごすのが使命であるのならば、当然、そのようにしなければならないであろう。どうして悩んでいるのであろうか? ジルゲンイがジルゲンイの一生を送るのであれば、それだけで十分である。それなのに、花畑で育つ花木を見て、比較して、羨ましがっている。
万物がそうであるように、道端で踏みつけられてもようやくいのちを維持するジルゲンイのような草もあるし、花畑で育つ花もあるし、野菜畑で育つ野菜もある。どうして自分の本分を離れて余計な考えをしながら落胆するのであろうか。もしこの働きが嫌なのであれば、捨てて離れてしまえばそれまでである。この世の人々にはそれぞれ自分に与えられた生涯の使命がある。しかし、それが不満であるのならば、捨てて離れればいい。
イエスの十字架がそうであったように、信仰や牧会は人間のさまざまな生活と環境の中にとどまっている万人の事情を抱えていく。私がしたくないことを誰がしたがるであろうか。牧会は小羊を狼の中に送り出すようなものである。それゆえ、生きて出て来るために行く道ではなく、死ぬために行く道である。今、私が担っている役割がまことに私の相続財産であると考えて、感謝する。ジルゲンイのように。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室