
血によって契約を結ばれた
(コリント人への手紙11:23~34)
神は
愛でおられる
その方が
この世を愛して御言葉を遣わされたが、(ヨハネ3:16)
御言葉がインマヌエルの血として現れた(マタイ1:23)
血にはいのちがあるために、血は人の罪を贖う(レビ17:11)
イエス・キリストの教会はその方の血によって買い取られた
神の教会であるし、(使徒20:28)
聖霊によって建てられた新約教会である(へブル9:18)
この血は
新しい契約である(へブル9:20)
私たちは主の血を受けて飲むことによって
新しい契約の中に入って来たが、
その血を飲まないのであれば、
新しい契約の中に入って来ることができない(へブル8:13)
聖霊は新しい契約の血を飲んだ者に来て、
真理を悟らせる
私たちの信仰は真理を知って信じるものである
真理を信じる者はその心の奥底から生ける水の川が流れ出る
これは信じる者だけが受ける
聖霊充満である(ヨハネ7:37~39)
◌キリスト教会は宗教ではない
神秘主義でもない
御言葉に根拠を置いた体験である
◌イエスの血を飲んだのであれば、伝えなければならない
イエスの血はとどまらないで伝えられるものである
イエスの血を飲んだ私たちの心が血の杯である
◌聖霊によって血の杯を回し、
地の果てにまで伝えなければならない
聖霊と尊い血はともに働かれる
※ 「伝えないのであれば、自分にとって災いとなるし、
自分の罪を飲み食いすることになる」といわれた
イエスの血の聖徒となろう
血によって契約を結ばれた (コリント人への手紙第一 11:23~34)
血の愛
神は愛でおられます。その方が私たちを神の子としてくださったのはその方が愛でおられるためです。神が愛でおられるというのは宗教の教理ではなく、私たちがすでに体験し、また、その方に心を開く者であれば誰でも体験することができる実状です。信仰とは神の愛を体験することです。
人は一般的に親の愛を受けながら成長します。子どもが親の愛を意識しなかったとしても、親にとって子どもほど貴い存在はいません。特に直接、子どもを産んだ母親の心は切実です。そのためか若いときには母親の心を察することができなかった娘が子どもを産んだのちに「今になってようやく母親の心を知った。」と告白する場合が少なくありません。
聖書はみごもりの苦しみについて語っています。アダムが罪を犯したのちに、神はエバに「わたしは、あなたのうめきと苦しみを、大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」(創3:16)といわれました(訳者注: 韓国語の聖書は「うめきと苦しみ」が「みごもりの苦しみ」となっている)。女性にとって子どもを産む苦しみは相当なものですし、また、子どもを一生、育てる労苦も大変なものです。その一方で、女性はみごもるときに苦しみをそれほど感じません。ある人はみごもってから3、4ヶ月過ぎたのちにその事実を知ったりもします。このように女性がみごもりの苦しみをそれほど感じないのは神がそのように配慮されたためです。地球が自転する音を耳で聞くことができるのであれば、どんなに苦しいでしょうか? このように女性は大きな苦しみを感じませんが、聖書はみごもりの苦しみについて語っています。
母胎から出て来た子どもの全身には母親の血がついています。母親はそのような子どもを自分の体よりも愛します。その愛は子どもが育って老人となったとしても変わることがありません。それは母親と子どもの関係が血によってつながっているためです。レビ記17章11節は「いのちとして贖いをするのは血である。」といいました。神の愛は血と分離することができません。すなわち、いのちと分離することができません。私たちが神の子となったというのは神の愛を受ける者となったということですが、これは血によってなされました。母親が子どもを得るために血の代価を払うように、神は私たちを自分の血をもって買い取り、自分の子とされたのです。
血の門を通過した者
イスラエル民族がエジプトで苦しみを受けていたときに、神は彼らをどのようにして救われたでしょうか? 神は彼らに羊を取らせ、その血を門柱につけさせました(出12:22)。そして、彼らにその門を通過させました。イスラエル人であれ、エジプト人であれ、その血の門を通過した者はエジプトに臨む呪いを免れることができましたし、エジプトを支配していたパロの権勢やその地に満ちていたあらゆる偶像を避けることができました。彼らは血の門を通過することによって神の民となりました。
それにもかかわらず、ある人は荒野生活に不平を言いながらエジプトを懐かしみました(民11:5)。これは彼らが自分たちのためになされたことを根本的に否定したということを意味しましたし、何よりも神を怒らせることでした。エジプトを懐かしんだ者は結局、荒野で死にました。神が彼らを民の中から絶ち切ってしまわれたのです。この世を脱け出した私たちの教会生活はエジプトを脱け出したイスラエルの荒野生活と同じです。血の恵みを受けたとしても教会生活に不平を言いながらこの世に戻るのであれば、将来、それに対する報いを必ず受けるようになります。
イスラエル民族はエジプトから出て来たときにはっきりとした目標をもっていました。それは荒野で祭りをすることでした(出5:1)。その祭りとは過越の祭りでした(出12:43)。神が彼らに過越の祭りを守らせたのは自分が血の門を通過してエジプトから出て来たという事実を彼らに覚えさせるためでした。その事実は将来、神の御子がこの地に来て血を流しながら死なれるときまで覚えられなければなりませんでした。それゆえ、神はイスラエルの民に続けて過越の祭りを守らせました(出12:42)。
過越の祭りの小羊の血によってイスラエルが救いを受けたように、私たちの霊魂はイエス・キリストの血、すなわち神の血によって救いを受けました。私たちはバプテスマを通してその血の恵みを受け入れ、イエス・キリストとひとつになりました。子どもが出生の苦しみを覚えなかったとしても母親は血の苦しみを味わわなければなりません。人が耳で聞くことができなかったとしても、地球は自転の轟音を発しています。そのように私たちはバプテスマを受けるときにただ水に入ってから上がって来るだけですが、主はこのために十字架で血を流しながら絶叫されました。もし私たちが日々、その絶叫を聞くのであれば、果たして一日でも正気でいることができるでしょうか?
私たちは何の苦しみもなしにバプテスマを受けますが、それが可能なのはイエス・キリストが血を流されたためです。バプテスマを受けるというのは血の門を通過して神に出て来るということです。このように貴いバプテスマをただの宗教儀式として扱ってはいけません。バプテスマを受けた者は将来、永遠のいのちを体験するようになります。このために私たちは再び来られる主を待ち望まなければなりません。その方が来られる前に再びこの世に戻ることがあってはいけません。
再び来られる主を待ち望みながら
過越の血の門を通過した者の最終目的地はエルサレムでした。これと同じように、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた私たちの霊魂は再び来られる主を迎え入れなければなりません。肉体はいつか命を失って消えますが、私たちの霊魂は復活して主とともに天に上らなければなりません。そのときまで私たちがやめてはいけないことがあります。神がイスラエルに続けて過越の祭りを守らせ、血の恵みを覚えさせたように、私たちは自分がイエス・キリストの血によって救いを受けたという事実を、その方が来られるときまで伝えなければなりません。
このような点で主日を聖く守ることはとても重要です。主日とは本来、どのような日でしょうか? パンを裂くために集まる日です。使徒の働き20章7節は「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」といいました。それでは、パンを裂くというのはどのような意味でしょうか? コリント人への手紙第一11章23~26節は「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」といいました。聖餐の意味はイエスが自分の血と肉を私たちに与えてくださったということを覚え、それを人々に伝えるところにあります。
主日に教会に出席して聖餐に参加したからといって、自分のすべきことをすべて終えたと考えてはいけません。主日の聖餐に参加したのであれば、次の主日には他の霊魂を教会に連れて来て聖餐に参加させなければなりません。私たちが受けた血の恵みを続けて他の霊魂に伝えることによって彼らに私たちと同じ信仰をもたせ、主を待ち望ませなければなりません。
ある人は忙しいといって主日を守りません。私たちがはっきりと知らなければならないのは「主日を聖く守ることこそ血の恵みを受けた者が最優先に従わなければならない主の命令である。」という点です。主日の主はイエス・キリストでおられます(黙1:10)。その方は「人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:28)といわれました。以前、イスラエル人に「安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。」(出31:15)といわれた方も主日の主でした。それならば、私たちはどのようにして主日を過ごさなければならないのでしょうか?
聖日を尊んでその日に旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎む者は神を喜ばせることができます(イザヤ58:13~14)。その反面、聖日に神のことを思わないで人のことを思う者は神に憎まれます。ペテロが神のことを思わないで人のことを思ったときに、イエスは彼に「下がれ。」(マタイ16:23)といわれました。「下がれ。」というのは「視界に入ってはいけない。」というのと同じです。再び来られる主を待ち望まなければならない私たちが主に憎まれていいのでしょうか?
私たちは主の視界に入る者とならなければなりません。小さなことに忠実な者は大きなことにも忠実です(ルカ16:10)。主日を聖く守ることは神の目にとても大きく映ります。主日が神の御子が血を流すことによって初めて造られた日であるためです。たとえ人々の目には主日を聖く守ることが極めて小さく映ったとしても、私たちが主日を聖く守ることに忠実であるのならば、主は私たちに大きな働きを預けられます。その反面、主日を聖く守ることを小さなことと考えてそれに忠実でないのならば、主はそれをいのちの書に書き記し、その行いに応じて裁きを与えられます(黙20:12)。
信仰生活は宗教生活ではありません。信仰生活はいのちと関連しています。主日に教会に集まってパンを裂き、杯を飲むのは私たちが受けた良いものを他の人に伝えるところに意味があります。聖餐に参加しながらも血の恵みを伝えない者についてコリント人への手紙第一11章29~32節は「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」といいました。「尊い血の恵みを受けたとしてもそれを伝えないのであれば、主から懲らしめを受ける。」というのです。
主日を聖く守りましょう。イエス・キリストが私たちのために自分の肉を裂き、血を流してくださったことを覚え、それを多くの霊魂に伝えましょう。主は「あなたがたがこの地でつなぐのであれば、私も天でつなぎ、この地で解くのであれば、私も天で解こう。」と約束されました(マタイ16:19)。主が天で解かれるように私たちがまず先にこの地で解きましょう。私たちは自分が神の血によって買い取られた新しい人であるということを忘れてはいけません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室