
主を愛して
ルカの福音書 10:25~37
神は
愛でおられる
その方が
御子によって自分をこの世に現された(ヨハネ1:18)
御子は父の本体のかたちでおられる(Ⅱコリント4:4)
イエス・キリストは愛の実状であり、そのかたちでおられる(Ⅰヨハネ4:8~9)
その方は強盗に襲われた人類から顔を背けられなかった
これが福音である(ヨハネ6:37~40)
その方の聖徒もその方と同じようにするのが
まことの信仰であり、まことの愛である(マタイ4:19)
神の御子であり、天よりも高い方が
エルサレムからさらに低いところに下る道で
強盗に襲われ、むちで打たれて死ぬようになった
誰がこのように捨てられた者の隣人とならなければならないのか
私たちの信仰はこの世から捨てられた主に仕えるものである
イエスは十字架で捨てられた(Ⅰコリント1:18)
すべての人から顔を背けられて恐れられたその方のために、
率先して、まことの友とならなければならない(ヨハネ21:15~18)
聖霊がなさる働きは殺された
イエスを生かすことである
聖霊の人は死んだ者から顔を背けない
◌十字架につけられたキリストの友となろう
この世で強盗に襲われた主を愛そう
私たちはすべて善良なサマリア人となろう
◌私たちはすべて一生をささげて教会を成長させてきた
しかし、強盗のような者は教会を半殺しにした
誰がよくしているのであろうか
◌しかし、私たちはすべてともに立ち上がって、
強盗に襲われた教会を救って癒そう
教会は愛する主の体である
※ 心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、
精神を尽くして、命を尽くして、
主イエスを愛し、教会を愛そう
主を愛して (ルカの福音書 10:25~37)
神は想像の中の存在ではない
神は愛でおられます(Ⅰヨハネ4:8)。私たちは幼子に対する母親の愛を通して神の愛を少しでも知ることができます。母親は幼子を愛するときに、心を尽くし、力を尽くし、品性を尽くして愛します。幼子はそのような母親の名前も年齢も学歴も知りません。また、母親がやさしいのか、顔がきれいであるのかにも関心をもちません。しかし、幼子は「母親がいなければ、生きることができない。」ということを知るために、母親を完全に頼ります。これと同じように、「神の母性、すなわち聖霊と福音がなければ、生きることができない。」ということを知ってこれに頼るのが私たちの信仰です。
一般的に人々は私たちの信仰を、この世に存在する宗教のひとつと考えます。宗教の役割は人が健全に生きることができるようにその道を案内するところにあります。そのような面で、宗教という概念は私たちの信仰を説明することにおいて限界をもっています。私たちの信仰の核心は神を知るところにあります。多くの人が神を知るといいますが、問題は少なくない者が自ら想像して作り出した神に仕えているということです。それは信仰というよりも信念に近いです。
考えてみてください。信念によって信仰生活をする者が果たして神のために自分を犠牲にすることができるでしょうか? 彼らが志願して時間や物質を神にささげるというのは非常に難しいことです。彼らは忙しいことがあると、大したことでもないかのように主日を守らなかったりもしますし、それを繰り返したのちに信仰を失ってしまったりもします。果たしてそのような信仰が彼らの霊魂を救うことができるでしょうか?
人々が信仰生活をしたのちにそのように堕落するのは彼らが初めから神に会うことができないまま、ただ自分が想像して作り出した神に従っていたためです。私たちがはっきりと知らなければならないのは「私たちの信仰の出発点は主観的な想像ではなく、具体的な体験である。」という事実です。これはバプテスマのヨハネが弟子たちを遣わしてイエスに「おいでになるはずの方はあなたですか? それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか?」と尋ねたときに、イエスが「あなたがたは行って、自分が見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見えるようになり、足のなえた者が步くようになり、らい病に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえるようになり、死んだ者が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられている。」といわれたという事実(ルカ7:22)を通して知ることができます。
ポネ、レマ、ロゴス
新約聖書はギリシア語によって記録されていますが、ギリシア語の中で「言葉」あるいは「御言葉」として翻訳される単語は大きく分けて3つあります。それは「ポネ」、「レマ」、「ロゴス」です。一般的に「ポネ」は意味を伝える声や音自体を指します。マルコの福音書1章3節はバプテスマのヨハネについて「荒野で叫ぶ者の声がする。」といいましたが、この「声」に該当する原語がポネです。また、「レマ」は言葉を通して一定の意味が伝えられたときに、その言葉を指して使われます。
重要なのは「ロゴス」です。ロゴスは永遠の前から神とともにおられた御言葉です。その御言葉にいのちがありますし、そのいのちは光としてこの世に輝きました。この世はやみに属し、その光を受け入れませんが、神の御言葉を命令と考える者は御言葉に従い、それによって神のいのちを受けます(ヨハネ1:1~4)。このように神の御言葉を受けた者がそれを行動に移すときに、これを信仰といいます。神はアブラハムからそのような信仰を発見されました。神がアブラハムに「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創12:1)といわれたときに、アブラハムはその御言葉に従いましたし、神はそのようなアブラハムの信仰を義とされました。
教会に来て御言葉を受けるときに、私たちはその御言葉をロゴスとして受けなければなりません。たとえを聞いて、その実状を悟ることができないまま、その内容だけを理解したのであれば、それはレマを受けたのであって、ロゴスを受けたのではありません。ロゴスを受けたというのは義務を受けたということを意味します。多くの人が教会で御言葉を聞きますが、ある人はそれをただ音として扱いますし、ある人はそれを人の言葉として扱います。彼らは自分の耳に入って来たその御言葉の前にひざまずきません。彼らが聞いたのはポネやレマであって、ロゴスではありません。ロゴスを受けた者は自分の意志をその御言葉の前に服従させます。
ロゴスは神の血に染まった衣を着ている御言葉です(黙19:13)。神の血には神のいのちがあります(レビ17:11)。裁縫をしていた者が針で指を刺し、そこから血が出て来るのであれば、慌てて傷口を防ぎます。神から啓示された御言葉は神の血と同じです。その御言葉には血を流される神の痛みが入っています。神が御言葉を与えられるというのはその方が自分の血を流されるということと同じです。それゆえ、私たちはその御言葉をどのように扱わなければならないのでしょうか?
インマヌエルとして現れた歴史的な存在としての神
誰かが「神はどのような方でしょうか?」と尋ねるのであれば、どのように答えなければならないのでしょうか? マタイの福音書1章23節は「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」といいました。私たちがはっきりと知らなければならないのがこれです。私たちの神は2000年前にユダの地、ベツレヘムにあった馬小屋で生まれ、飼葉おけに眠っておられたその方です。
多くの人が「神」という単語を聞くと、雄大で華麗な姿をもつ権威ある存在を想像します。しかし、私たちは神をそのように漠然と知る者ではなく、神を直接、見て聞いて触った者です。私たちにとって神は想像の中の存在ではなく、歴史的な存在です。 処女の体から生まれたのちに馬小屋で眠っておられたその方、12歳のときに過越の祭りを守るためにエルサレムに行って宮で教師たちと会話をしておられたその方が私たちの神です(ルカ2:7,46)。
ある日、その方がヨルダン川に現れました。そこではザカリヤの子であるヨハネが人々にバプテスマを授けていました。バプテスマを受けるためにヨハネの前に立った者は自分の罪を告白しなければなりませんでした。自分が罪人であるということを認めないパリサイ人やサドカイ人がバプテスマを受けるために来たときに、ヨハネはバプテスマを授ける代わりに「まむしのすえたち。誰が必ず来る御怒りを逃れるように教えたのか!」と忠告しました。ヨハネのバプテスマが悔い改めのバプテスマであったためです(マルコ1:4)。
そのようなヨハネの前に悔い改める必要がない方が現れました。ヨハネは驚いて、その方に「私こそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか?」といいました。すると、イエスは「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての正しいことを実行するのは私たちにふさわしいのです。」といわれました(マタイ3:15)。その日、イエスはバプテスマを受け、これを通してアブラハムとダビデの子孫という身分を葬られました。その方が水から上がって来られた瞬間、神は「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」といってその方を証しされました(マタイ3:17)。これによってバプテスマのヨハネは神を見たのです。
イエスはそのようにバプテスマを受けられましたが、弟子たちに「しかし、私には受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまではどんなに苦しむことでしょう。」といわれました(ルカ12:50)。イエスがヨハネのバプテスマを受けられたのはアブラハムとダビデの子孫という身分を葬って神の御子として認められるためでした。それにもかかわらず、イエスは「私には受けるバプテスマがあります。」といわれました。これはその方が将来、殺されてよみがえられなければならないということを語られたのです。
強盗に襲われた主を慰めよう
ルカの福音書10章25~37節にはイエスが律法の専門家に語られたたとえが記録されています。そのたとえの内容はこのようなものでした。エルサレムからエリコへ下る道で、ある人が強盗に襲われて死にかけていました。そのとき、その道に通りかかった祭司やレビ人は彼に関心をもちませんでしたが、あるサマリア人は彼を介抱し、また、それだけではなく彼を宿屋に連れて行き、主人にお金を渡しながら彼の介抱を頼みました。そして、費用がさらにかかるのであれば、帰るときに自分が払うという約束までしました。
エルサレムは海抜750メートルのところにあります。その一方で、エリコは海面よりも250メートル低いところにあります。両地域の高度差は1000メートルにもなります。「エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われて死にかけていた人」とは本来、極めて高いところにいるべきでありながら極めて低いところに来て苦難を受けられたイエス・キリストを指します。
死にかけていた人を無視した祭司やレビ人は律法の下にいる者を指します。神の御子がこの世に来て死ぬようになりましたが、律法はその方を救うことができませんでした。教会は主の体です。主の敵が働いているこの世に建てられた教会は今も脅威にさらされています。時代や場所を問わず、主の教会はあらゆる迫害や攻撃を受けていますし、深刻な場合にはその存在自体が危機にさらされていたりもします。そのような状況で私たちは教会のために何をしなければならないのでしょうか? 私たちは主の恵みによって生きる者です。私たちが死や呪いの権勢に抑圧されて苦しんでいたときに、主が私たちを生かしてくださいました。そのような主の体が強盗に襲われた人のように危機に直面しているのです。
主は「私が空腹であったときに食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、裸であったときにも着る物をくれなかった者は将来、悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入らなければならない。」といわれました(マタイ25:41~43)。想像によって神の存在を仮定して信仰生活に臨む者は無理やりに神に仕えるしかありません。しかし、私たちは神を目で見て、耳で聞いて、手で触っただけではなく、その方から与えられた恵みを体験しました。そのような私たちは強盗に襲われた教会をどのようにして顧みなければならないのでしょうか?
ユダヤ人はサマリア人を極度に無視しましたが、強盗に襲われた人を助けたそのサマリア人は心を尽くし、力を尽くし、品性を尽くしてその人を顧みました。私たちがまことに主の恵みを受けた者であるのならば、主の体である教会のためにそのようにしなければなりません。私たちは心の偶像に従って神を信じる者ではなく、歴史的な存在としての神を信じる者です。今、私たちはその方を慰めて顧みなければなりません。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
【牧師コーナー(松竹岩)】 2018. 6. 10 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
韓国の古語に「色のよい杏」という言葉がある(訳者注: 「見かけ倒し」という意味)。教会改革協議会は「改革」というもっともらしい名分を押し立てて、大変な問題を引き起こした。しかし、彼らが何を改革するというのか、まったく理解することができない。ベレヤの精神によって還言運動をする聖楽教会は視無言が7ヶ月間、口に石をくわえて耐えながら多くの迫害を切り抜け、その第一歩を踏み出した。そして、1984年、再び8ヶ月間、石を口にくわえて視無言しながら迫害に耐えた。
私はメソジスト教会礼山地方会でバプテスマの問題によって宗教裁判を受け、メソジスト教会を離れた。そして、ひとりで天幕をもって全国を巡りながら、十数年間、伝道集会を開いて還言を叫んだ。イエス・キリストの神癒と聖なるしるしによって御言葉をはっきりと証しした。また、1973年からは聖書勉強の小さな集まりをはじめた。そして、それを次第に拡大していき、1978年にはこれを「ベレヤ・アカデミー」と名づけ、多くの神学生と既存教会の牧師に「神の意図原講」を教えた。
同時に、これを整理して『ベレヤ原講』を出版した。また、これにしたがって『ベレヤ用語辞典』と『ベレヤ霊性辞典』が編纂された。さらに私は『聖霊を知ろう』という本を執筆し、そののちに『ベレヤ原講』を補うベレヤ・キリスト教教義、すなわち創造論、キリスト論、聖霊論、人の子論、悪魔論、悪霊論、宣教論などを250冊以上の本として執筆し、ベレヤの理想と主張を確固たるものとして築き上げた。このような著書は海外数十ヶ国の言語に翻訳されて伝えられているし、海外70余りの国には「ベレヤ・アカデミー」が根を下ろしている。そして、「ベレヤ国際大学院大学」も設立された。
聖楽教会はベレヤの揺籃として世界に出て行って働く万全の準備を整えてきた。お金がなかったとしても銀行から借りて、予め世界宣教センターとリーダーセンターという両翼の揺籃を建てた。そして、私たちが先に使用しながら教会をリバイバルをさせ、毎年、分割して返済し、2026年には完済することができるように計画を立てた。教会全体がともに献身しながら「世界は私たちの牧羊の場」というスローガンを掲げて発展していたところであった。
私たちの目標と使命ははっきりとしているが、改革するという者は何を改革するというのであろうか? 理想も主張もなく、「視無言とベレヤを消してしまおう」という掛け声があるだけである。それが改革であろうか? どうしてベレヤと視無言を消さなければならないのか? ねたみや憎しみという人間の情欲と感情があるだけであって、改革の理想は皆無である。
これは詐欺である。彼らは主の体である教会を半分に切り落とし、イエスの名の名誉を地に落とした。エリコに行く道で強盗に襲われて半殺しにされた者のように、主の体である聖楽教会は強盗に襲われ、言葉では言い表せないほどの傷を負った。それゆえ、私たちは善良なサマリヤ人のように、祭司やレビ人が見向きもしなかった主の体である聖楽教会を再建するために今日、ともに集まった。改革という偽り者に襲われた教会のために・・・
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室