愛は永遠である
(ローマ人への手紙8:31~39)
神は
愛でおられる
その方がその愛を
御子に現されたが、(Ⅰヨハネ4:8)
その愛は永遠である(Ⅰヨハネ4:17~18)
また、その愛を神の子となった者に現されたが、
その愛は永遠である(ローマ8:38~39)
神が私たちに自分の血を見せてくださったのは
永遠なる神の愛である(ヨハネ16:27)
私たちを罪から救ってくださったのも永遠な愛である
聖霊を私たちの心に与えてくださったのは
永遠なる神の愛である(ヨハネ7:38~39)
いのちの真理は永遠な愛である(ローマ8:1~2)
それゆえ、
私たちの霊魂は
神の愛を受けて生きたし、(ヨハネ3:16)
その愛を信じて永遠に頼ることによって
永遠に堕落することがない
私たちの信仰は
神を永遠に愛することである(ヨハネ21:15~17)
愛がない信仰は宗教であり、偽善である
○ 神を愛するために、偶像を避ける
自分の前に偶像がある者は
神の愛から引き離された者である
○ 神が罪を贖われたのは愛である
私たちの信仰はこの愛の中で永遠である
疑うというのは愛さないということである
○ 愛は何によっても引き離すことができない
天にあるものも宇宙にあるものも
永遠に引き離すことができないのが愛である
※ 人と人の愛も同じである
私たちはすべて愛する者である
まことの愛は悪魔を追い払う
【牧師コーナー(松竹岩)】2018. 10. 14 (主日礼拝) 聖楽教会 週報より
聖楽教会 元老監督 金箕東牧師
聖楽教会はいつの間にか49周年を迎えた。来年になれば、ちょうど半世紀を迎える。聖楽教会が視無言の心に宿ったのは1964年であった。そのとき、生涯、1万人の指導者を養成しなければならないという抱負をもち、祈りながら時を待った。そして、1969年11月、教会を開拓した。部屋を借りて礼拝堂を準備し、小さくはじめたが、からし種をまいたように必ず成長するという期待をもち、20年先を見ながら牧会をしてきた。20年先を考えると、望みにあふれた。
「ベレヤ」という名は聖書の使徒行伝から得たものであった。これは単純にベレヤ人を模範として私たちもそのようになろうという意味であった。「ベレヤ」の使命は「神の意図」である。「ベレヤ」という名をつけたのは1976年であったが、「神の意図」は1962年からであった。「ベレヤ」の伝統とは「聖霊の教えを受けることによって聖書から信仰を得る。」という主張であり(ヨハネ14:26)、「聖霊は真理の師匠でおられる。」という主張である(ヨハネ16:13~15)。そして、「聖書は解釈したり研究したりするものではなく、そのまま信じなければならない神の御言葉である。神とイエス・キリストは昨日も今日も永遠に変わることがない。それゆえ、五旬節の働きはその当時だけでなく、現在も続けて変わることなく現れる。聖霊の臨在、教え、働きは永遠に変わることがない。」という主張である。
私は神学を否定しない。神学は信仰でなく、学問であり、科学的にイエス・キリストを探求していく人間の知的な手段である。それは決して排斥されるべきではない。しかし、神学には自由がなければならない。第二に、聖書解釈の自由がなければならない。第三に、信仰の自由、すなわち信仰体験の自由がなければならない。これら3つはベレヤの機能ということができる。しかし、神学の自由、聖書解釈の自由、信仰体験の自由が許されたとしても、真理の根本である「神の意図」を知らなければならないし、これによって神の意図から絶対に外れてはいけない。
神の意図の核心は「神本主義」である。それゆえ、神学の自由も神本主義の原則から絶対に外れることができないし、聖書解釈の自由においても神本主義の原則から外れてはいけない。また、信仰体験の自由も神本主義の精神から外れてはいけない。私たちは聖書がイエス・キリストについてどのように説明しているのかに常に注意を払わなければならない。それゆえ、ただ「なぜ?」という眼鏡によって聖書を見なければならない。絶対に「どのように?」という眼鏡によって見てはいけない。これがベレヤ還言運動である。
教会を分裂させる者は最近、これまで養育を受けてきた信者の信仰や彼らが知っている真理を洗濯する聖会を開いている。まことに残念なことである(へブル10:26~27)。私たちは気を引き締めなければならない。
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室